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Re:魔女裁判について
[1] canaryclover( … 回) 2008/11/03/Mon/00:08 (No.305)

  魔女裁判ですが、キリスト教の為したことというよりも、社会全体各階層からの突き上げによるものだというべきだそうです。
当時の法学者や神学者は、魔女裁判に反対・批判していたりもします。
科学と宗教が未分化だったこともあり、自然災害などの死をももたらしうる悪い出来事のために非常な不満がたまります。
それを解消するために魔女裁判が起こってしまったといえます。
自然災害などのあった年と魔女裁判の件数はだいたい比例しています。
魔女裁判は、悪いことが起こると誰かのせいにしたくなるという、人間の弱さ、罪の性質を示すものだと思います。


Re:神の国と天国
[1] ?( … 回) 2008/10/14/Tue/14:48 (No.304)

  いつもメッセージを聞かせていただき感謝しています。神の国と天の御国の関係について教えてください。国は、バシレイアという語で王権・支配・王国というような意味とのことですから神の国というとき、神の支配、神の王国ということを考えると、神の国は永遠に存在しているものだと思います。人間が創造される前に天使が創造されていましたが、その時代も神の国であったと思っています。神の国は永遠の過去から永遠の未来まで存在していると思っています。・・・くどくてすみません。・・・マタイ13章に天の御国の喩が出てきますが、同じような内容がマルコやルカでも神の国として出てきます。どう考えても語られている喩が同じように思えます。註解書などでは読む対象者の違いにより天の御国と言ったり神の国と言ったりしているのだというようなものもありますがいかがお考えでしょうか。ルークさんは、天の御国は教会時代とキリストの千年期の統治期間を指しているとおっしゃられますので、天の御国は神の国に含まれますから、マルコやルカにある同じような喩の箇所は神の国と書いてあってもそれは天の御国に相当する期間を指す永遠なる神の国の一定期間のことととらえておられるのでしょうか。文章が下手ですが意をくんで教えてください。


天について
[1] ( … 回) 2008/10/04/Sat/00:27 (No.295)

  こんばんは。質問させていただきます。

聖書真理シリーズの「神の国と天の国」で天の国の天の原語は複数系であると書かれてありますが、複数系だけでなく、
マタイ18章.マタイ19:14.マタイ19:23.マタイ20:1等々で天が単数で使われているのを確認しているのですが、マタイは神の国と天の国だけでなく天も単数形と複数系とで明確に使い分けているのでしょうか?


Re:ギノスコーとオイダー
[1] hirokazu( … 回) 2008/09/28/Sun/14:32 (No.294)

  どうもありがとうございました。
今後はvincentも調べてみようと思います。


Re:ギノスコーとオイダー
[1] Luke( … 回) 2008/09/17/Wed/08:20 (No.293)

  はじめまして。

とても重要なご指摘ですね。Vincentによりますと:

Because He knew (διὰ τὸ αὐτὸν γινώσκειν)
Literally, on account of the fact of His knowing. John describes the Lord's knowledge by two words which it is important to distinguish. Γινώσκειν, as here, implies acquired knowledge; knowledge which is the result of discernment and which may be enlarged. This knowledge may be drawn from external facts (Joh_5:6; Joh_6:15) or from spiritual sympathy (Joh_10:14, Joh_10:27; Joh_17:25). Εἰδέναι (Joh_1:26) implies absolute knowledge: the knowledge of intuition and of satisfied conviction. Hence it is used of Christ's knowledge of divine things (Joh_3:11; Joh_5:32; Joh_7:29), Of the facts of His own being (Joh_6:6; Joh_8:14; Joh_13:1), and of external facts (Joh_6:61, Joh_6:64; Joh_13:11). In Joh_21:17 the two words appear together. Peter says to Jesus, appealing to His absolute knowledge, “Thou knowest (οἶδας) all things:” appealing to his discernment, “Thou knowest or perceivest (γινώσκεις) that I love Thee.”

とginoskoとoidaの違いを説明しています。Darby訳にも同様なフットノートがあったと思います。

私が言うoidaの「主観的」とは、感情や感覚や自分勝手な主観によるのではなく、絶対的真理を霊の直覚(intuition)で知ることですね(御霊の内的確証)。対するginoskoはイロイロな外部情報に基づいて知ることで、よって変化するわけです。この意味で「客観的」です。これはVincentも指摘するとおりです。


ギノスコーとオイダー
[1] hirokazu( … 回) 2008/09/14/Sun/22:46 (No.292)

  こんにちは。

ギリシャ語の「知る」という単語について、当サイト内の「聖書のキーワード」の中では、「oida=主観的に知る」「ginosko=客観的に知る」となっていますが、私の持っている「聖書ギリシャ語四週間」という本の中では、「ginosko=体験的に知る」と解説されていました。

そこで、インターネット内でいくつか調べてみると、「ginosko=経験的に知る、舌で味わうように知る」「oida=知識として知る」とあったのですが、どちらが正解なのでしょうか?


Re:自分を裁くなら裁かれない
[1] ?( … 回) 2008/09/10/Wed/12:23 (No.291)

  9月7日のメッセージを聴きました。「わきまえる」ということについてよくわかりました。ルークさんありがとう。


Re:自分を裁くなら裁かれない
[1] ?( … 回) 2008/09/05/Fri/09:36 (No.290)

  ありがとうございました。
NIVでは両者はjudgedとjudgmentでしたのでギリシャ語を見たらルークさんの言われたとおりなんだと理解できました。自分でよく調べもせずお時間をとらせて済みませんでした。新共同訳はちゃんと訳されていたのですね。ありがとうございました。


Re:自分を裁くなら裁かれない
[1] Luke( … 回) 2008/09/04/Thu/21:35 (No.289)

  ここの「裁く」はいわゆる「罪定め」ではありません。自分をわきまえることです。自分をメタ視点から、客観的に見ることです。対して「自分を自分で裁く」とは「自分を罪に定める事」です。日本語で同じ単語でも、少なくとも英語をご覧になれば、その違いが分かるはずです。聖書は日本語で考えると罠に落ちます。


自分を裁くなら裁かれない
[1] ?( … 回) 2008/09/04/Thu/13:58 (No.288)

  ルークさん。教えてください。1コリ11:31に「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」とかかれてありますが、そのこととルークさんがよく「自分で自分を裁かない。」といわれることについて、何を対象にしているのか教えていただきたいのです。言い方が悪いのですが、裁く対象の違いについてです。よろしくお願いします。



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