最近の日記

お詫びとお知らせ

BBSではかなりハードな議論が展開されており、話に入れない〜とのお声をいただきました。そこで「何でもお話しましょう」はライトな話題を、神学や哲学や科学などのヘヴィーな話題は「ハードコア・セッション」でやろうと思います。ライトかヘヴィーかはどこで分けるのだ、との質問もあるでしょうが、まあそれは個人の判断に委ねると致します。

では、そこんとこ、ヨ☆ロ☆シ☆ク。

実は小生も、疲れるから・・・と言いつつも、こういった込み入った話もけっこう好きなんですね^^やり出すと相当にハマリますので、あえて避けているといった感じですかね。けっこう一応インテリなんですが、それが何か?

ディスペンvs再建主義(修正版)

前に展開された山谷氏と富井氏の議論をまとめておきましょう:Keywordは「中間(間接)」と「直接」です。

■ディスペン側■

・統治の形態:神→天使的勢力(ストイケア)を介しての間接的統治(中間領域)→人類

・教会の役割:この中間層にいる天使勢力が悪鬼化することもあるから、教会が監視する

・律法の評価:律法自体も天使を介して与えられた。モーセ律法は型・影・養育係だから、キリストの出現によって廃された(富井さん的には第3の意義も)

・この世の評価:再生されていない(=特別恩恵を受けていない)この世も、司法や科学など15つの領域においても一般恩恵によって御霊の照明を得ている。

・時代の評価:現ディスペンセイションはキリストの初臨と再臨の間の中間的時代→キリストは現在霊的には王であるが、再臨によって実際的王となり、御国が地上に出現する

再建主義大論争を回顧する

■再建主義側■

・統治の形態:神→律法による直接的統治→人類

・教会の役割:律法を自らに適用し、さらにこの世にも適用して、宣教によって「地を従わせる」ことにより、神の御国を出現させる

・律法の評価:人類を祝福へともたらす神の手段であり、聖霊の力によって守れば祝福された「生活」を送れる

・この世の評価:世は神を排除し、律法を組み込んでいないので闇の状態にあり、その結果人間中心のヒューマニズなどが蔓延っている。

・時代の評価:キリストはすでにあらゆる領域で王とされたので、地はその主権に服するべきで、それは律法をあらゆる領域に適用することによる。今はすでに千年王国であり、全人類が福音を受け入れるとき、その確立によってキリストは再臨される

キリスト教再建運動とは

つまり互いに相容れない本質的な相克があるわけです。「御国の建設」と「キリストの再臨」をめぐってですね。まあ、泥を掛け合うのも分かる気もしますが、ゲームには泥をかぶらない観客もいますからね^^。

救済の意味

単純な思考実験をしましょう。

■質問1:エデンの園でアダムが善悪の木の実を取らず、いのち(Zoe)の木の実を取っていたら(仮定法)、律法は必要だったでしょうか?
■回答:必要なかった。
■理由:律法はまことのいのちの実体であるキリストへと導く養育係だから。すでにいのちを得たのだから養育係は不要。

■質問2:アダムとエバがいのちの木の実を取っていたら、神が送ったと考えらえる聖霊によって律法を行なって得られるいのちと、ただ信じることによって得られる義認としてのいのち(Zoe)を区別する必要があったか?
■回答:ない。
■理由:いのち(Zoe)はすべてを包含する。つまり律法の第1,2の機能(影としての祭儀的意味)は排されたが、残っている第3の機能(律法の趣旨)もいのちの御霊の法則によってまっとうされるから。

■質問3:「救済」には、善悪の路線上のものと、いのちの路線のものがあるのか?
■回答:ない。
■理由:もしアダムがいのちの木の実を取っていたら、「救済」という概念自身が不要となるから、契約神学とか、ディスペンセイション神学とかも不要だった。つまりいのちの木の実を取りそこなったから「救済」が必要なのだから、「救済」とはいのちの木の実を提供すること。私の理解はこちら

【結論】:要するに、人類がアダムの得損なったいのちの木の実を取れば神のご計画は成就する。アダムの失敗があったので、キリストは贖いのプロセスを経る必要があった(救済)。それが完成されている現在、いのちを得るためには私たちがキリストの死と復活に結合されること、それはすなわち信仰による。

※注意※モーセ律法の趣旨である富井さんの言われる第3の機能(人を神の標準に導き祝福された生活を送らせる)を排除してはない。なぜなら、それはいのちの御霊の法則に含まれるから(上位互換)。

【神の御心】わたしはあなたがたのいのちとしてあなたがたの内に生きたいのです。神と人が共に住まうこと、父と子として、また夫婦として。だからわたしの独り子をいのちとしてあなたがたに与えたのです。このギフトをただ信じることによって得てください。

シンプル・イズ・ベスト

もう少しまとめておきましょう:富井さんは、<永遠のいのちを得ること=義認>として、<神の基準に沿った祝された生活を送ること>とは別のものとしていますね。これも大きな驚きです。

なぜなら、私たち自然科学者からすれば「いのちと生活はひとつ」だからです。犬は犬のいのちによる生活、人は人のいのちによる生活。で、律法を行なうにはソレを行なえるいのちを得ればよいわけです。自動的に生活もそれを反映します。

今回の議論、なかなか面白いです。私たちが最終的に重んじることは、神はシンプルであること。自然の法則はきわめてシンプルかつビューティフルなのです。たとえば、

 E=mc^2

などね。

もうちょっとメモしておきましょう

■富井さんの構図は

聖霊
 ↓(神が送られたと考えられる) 
旧約の民→律法を行なう→いのちを得る(祝された生活を送る)

よって、律法は力はないが、いのち(Zoeではない)を与える

■私の構図は

律法はいのち(Zoe)を与えないから、キリストが死と復活を通していのちを与える霊となって

御霊の内住        
 ||
いのち(Zoe)なるキリストの内住→律法(それ以上)を全うする
 ||
力を得る(いのちの御霊の法則)

よって、いのちの御霊の法則はモーセ律法の上位互換である。(律法の第3の機能を排除していない!)

  

大きな収穫です

BBSでの再建主義者の富井さんとのディカッションは有意義ですね。私との一番大きな違いは、彼は

 「律法はいのちを与える」

と言われる。パウロは(Dr.Lukeも)

 「律法はいのちを与えない」

と言う。この違いはなんでだろう、と思うわけです。御言葉に明らかに反している。(ここで相手を理解しようと努めるわけです)で、続けて読むと

 「律法を行なうことによって得られるいのちと信仰によって得られるいのちは違う」

というわけ。なるほどとうなづいた次第。

しかし「律法を行なうことは聖霊に拠らなければ無理」なので、「旧約でも神は聖霊を送られてユダヤ人たちに律法を行なうことを可能とさせたと考えられる」と言うのです。また「律法は道であり、歩ませる原動力は霊であるが、それを行なわせる力がないことをもっていのちを与えないと結論づけることはできない。車が故障していてもマップは捨てるな。なぜなら車と言う原動力があればマップは役に立つ。」と・・・?この論理展開、分かりますか、みなさんは。

かくして「救済」の意味も違ってくるのですね。私の理解は「いのち(Zoe)を得ること」、すなわち「善悪の道からいのちの道への回復」なんですが、彼は善悪の道の上でもいのち(Zoeとは違う)を経験し、救済を得ることができるらしい。クリスチャンも実にイロイロなんだと感慨です・・・。

ただ感想を言えば、彼の議論は私たち客観性を最も重要視するサイエンティストから見ると、とても主観的ですね。なにしろ私の言っていないことをもって、私を「・・・とみなす」わけですから。してもいない犯罪を問われるようなものです(笑)他にも「と言った方が正当なのです」とか、「総じて言えば」とか、「・・・と考えることは可能です」とか。まあ、個人がどのように、総じて、考えるかは自由なのですが、サイエンティストは明確なエヴィデンスを求めるのです。

しかし一応冷静な噛み合う議論ができたことは収穫でした。議論のやり方のポイントは単純です。同意する部分と、不同意の部分を明らかにするわけ。別に相手を折伏する必要はありません。それは疲れますから。

で、私たちは神学者の学説や著書ではなく、御言葉によってジャッジするわけです。御言葉を認めないのであれば、それは相手の責任でして、これはもう別にディスカッションする必要もありませんから。

何だかうれしいぞ♪

映画の台詞がほとんど聴き取れるようになって来ました。うれしいですね。前にも書きましたが、内容のあるニュースやメッセージやレクチャーなどは比較的簡単に理解できるのですが、たわいもないことがむしろ難しかったわけ。単語自体は簡単ですが、発音がね、ブリティッシュは割りとピックアップしやすいのですが、特にアメリッシュがね・・・。

で、「速聴(R)」の訓練をしたわけ。これは田中さんというちょっとニューエイジ系の人の発案ですが、普通の会話を3倍速で聴くのです。ちょうど高速道路での速度に慣れると、一般道が遅く感じられるのと同じです。通勤の車の中で繰り返しやっていたのですが、何とここへきて、映画の会話がやけに遅く聴こえるようになって来ました。もちろんスラングとかは意味が分かりませんが(文脈から推測)、単語は聞こえる♪

この速聴をすると脳の活動度が上がるのですね。ボケにもいいそうです。昔巨人の川上が球が止まって見えると言ったそうですが、そこまでは無理としてもね^^。外の時間の流れと内的時間の流れがビミョウにずれるようです。お薦めします。

(ニューエイジだからアブナイとか言わないでね。それは聖霊派のパラノイド。生理的効果は切り分けて下さい。ヨガなどもです。私はストレッチでヨガのポーズを取っていますから)

Commented by ともじいのおやじ Eメール 2005年10月07日(金)22:30

いやはや、ビックリ\(@o@)/モノはともかく、やっぱりニューエイジは危ないですよ。CDにサブリミナルでも入っていたら・・・コワイコワイ・・・
ニューエイジ、ヒューマニズム、エキュメニカル・・・ため息と寒気でトリ肌が・・・
ワタクシは1倍速で愚直に英語の勉強続けます。
40過ぎて「ザルで水をすくう」ようになりましたけれど・・・

Commented by Luke 2005年10月07日(金)22:35

>CDにサブリミナルでも入っていたら・・・

あ、なるほど。でも、そこまで心配しますかぁ・・・^^50も目前にしますと1倍速ではちょっと効き目と時間が・・・なんです。これもアブナイかな?

ただし、どうも文章を読み違えておられるようなので、富井さんのようにこの発言をもって、「Dr.Lukeはニューエイジを認めた」とかみなさないで下さいね。そこんとこ、ヨ・ロ・シ・ク。

やっぱり一応私のニューエイジの評価をリンクしておこう。どうもあぶなっかしいですから。

「ニューエイジの問題点について」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/NewAge.html

Commented by ともじいのおやじ Eメール 2005年10月07日(金)23:00

正に「非常に狡猾な現代的な敵」ですよね。あのオウムがサブリミナルを使っていたので、ちょっぴり心配した次第ですが、「そこんとこ」は大丈夫ですよ。
「1倍速」ですが、今日は、毎日通勤で聴いている英語のCDでいくつか単語やフレーズが聴き取れるようになって、やっぱり嬉しかったです。のんびりカメさん、各駅停車の鈍行列車で行きます。信仰も、ね。

Commented by Luke 2005年10月07日(金)23:02

よかった(ホッ)でもね、イロイロな人が読んでいますので、やっぱりキチンと書いておきましょう。ニッポンキリスト教と関係してから心配性になりました^^

「ニューエイジはアブナイが、このCDについては英語が3倍速で聞けるだけだから、ニューエイジの人の会社のものだからといってアブナイと思わないでね」と言いたいのです。(しつこいくらいに言っておかないと・・・)

ただサブリミナルがあるとまでは考えていませんでしたが・・・ヤレヤレ。

人生山アリ谷アリですが・・・

が300円の大幅安。米ダウが下がったのと、外人が手を引いたとの噂。でも当面の基調は変わらないでしょう。郵貯350兆の行く先もココしかないわけ。原油で潤った資本は行く先を探しています。自民大勝で改革が進み、ニッポンの金を巻き上げるチャンスが増えているのです。しかし私的には信用で買ポジションにあるヤツが来週期限なのです。どうも損が出てしまいそう・・・涙。う〜ん、株は人生だ!!!

 * * *

子供たちや、何とカミさんからも言われる:パパって仕事いつやっているの?まあ、いわゆるサラリーマン的には追われていませんし、講座制ではないので上司もありませんし、自分の時間は持てますし、個室はありますし、講義は学生と楽しんでいますし、メッセージも楽しい間だけやるつもりですし・・・そう遊びと仕事の区別はあまりないですね。ただし、今日だけはシンドイ。予備校の講義・・・。われわれはいわば「高等遊民」といった感じかな(おい、勝手に「高等」を名乗るなとの声も・・・)。青筋立てるのは、年に1,2度でいいかなと。

それにしても「一億総福音伝道」とか・・・、ちょっと敬して遠ざけたい。「今は終わりの時代だ、そんな生ぬるいことやっててどうする。滅び行く同胞のために己の十字架を負い、己を投げ打って、家族や仕事も捨てて伝道せよ・・・」とか、「祈って、祈って、祈り抜け!!!」とかね。この臭いはかつての一億玉砕の大和魂と同じ。あるいは現代の使徒預言者による宗教改革とか・・・。コワイですから、この世の人は逃げますよ。マチガイナイ!

ニッポンキリスト教の本質的問題は、神学の問題ではなく、この強迫性(ねばならない・かくあるべし)という精神病理にあるのだ。これが自家製の律法をご苦労様にも作り上げる。で、ネバネバ、ギスギス、トゲトゲ、ネチネチ、イライラ、そしてウツウツと。互いに粘着し合いますから疲れます。サラサラとパウダー感覚がイイのです、が。

アダムとエバはエデンの園でどんな生活を送っていたと思いますか?ちょとだけ想像して下さい。イエスはご自分のlifeを私たちに豊かに分与(ディスペンス)し、そのlifeを楽しむようにと、エデンの園以上を回復して下さったのです。イエスが地上におられた時、どんな内面生活を送っていたと思います?それを私たちに下さると言うのです!祈りもその主との親しいプライベートな会話でしょう?一言、「主よ〜」と呼べば、内側が甘く満たされるでしょう?涙、出ませんか?

(holiness)とはいのちの健やかさ(wholeness)。あのね、再建主義者が批判するような、「恵みとは自分勝手ができること」なんてやってごらんなさい。このいのちがたちまちシュンとしてしまうでしょう。いのちは神の基準を喜ぶのです。で、それを生きる時、ますますいのちは成長・増殖するのです。喜びがあればそれはいのちによって律法を行なっている証拠。律法を守ろうと自分で意識しなくてもね。このとき律法はむしろ慕わしく思えますよ。神の愛の表現ですから。バロメーターはJOYです!

神の御心はいのちを楽しむこと。イロイロな困難や苦難は避けられないでしょうが、その中でも楽しむことができるいのちです。楽しむクリスチャンを神は求めておられるのです!

わたしが来たのはひつじがいのちを得、しかも豊かに得るためである。

イロイロの世界と関わって・・・

人生イロイロ、男もイロイロ、会社もイロイロ、議員もイロイロ、で、クリスチャンもイロイロ・・・と。いやあ、本当にイロイロですよ。最近はもう体力気力が衰えていますので、それぞれに対応することはできなくなっております(汗)。ひたすら失格者にならないように、自分自身の救いの達成に努めるばかりです。人を自分の神学で折伏する余裕などはとてもとても・・・。

しかし不思議なことに、ここのアクセス数は1日に350を超え、メッセージを聴いてくださっている方もどんどん増えている(これはサーヴァーのログを見ると分かるのです)。私の語っていることは高等神学でもないし、お金になるわけでもないし、祝福を語っているわけでもないし、愛を説いているわけでもない。

ただ皆さんから受ける感想は「元気になる」とか、「自由を得る」と言うもの。疲れていてもいのちが満ちるのだと言われる。ある方は鬱でどうしようもなかったのに、シャキっと立てるようになったとか・・・。

あまり人のお役に立とうなどと大それたことは考えてもいないわけで、ただ楽しくやれるうちだけやろうと思っているわけ。楽しくなくなって、歯を食いしばるようになったらすぐにたたみます。しゃべっている方が楽しくないメッセージなど、聴かされる方はたまらないでしょうからね。

改めて、皆さんからの励ましのメールをありがとうございます。ここでまとめてお返事いたします。

Every blessing!

秋ゆかば・・・

ある方からメールが来た:「自分はルークさんをこれまでずっと恨んできました。でも分かりました。恨んでしまってすみません。」と。「う〜ん、何だ、これ???」

TVでもよく見る上智大の福島先生も、かつて患者のストーカーに粘着され、当時はストーカー規制法もなかったので、エライ目にあった、と著書にあった。先生はあまりのストレスでPTSDになったとか・・・。

私もしばしばこういったことは経験する。アメリカなどでは治療で虐待を受けたとかで、セラピストを訴える訴訟妄想患者も多い。大学でも学生と自室で話すときのために、ドアのガラスは素通しになっている。密室でのことを訴えられたらこちらは弁護のしようがなくなるため。

私たちのような立場は、ある種の映画のスクリーンみたいなもので、それぞれの理想像とか、父親像とか、期待像を映し込まれるわけ。これを投影と言う。その像に沿っているうちは"すばらしい人"となるのだが、ちょっとでもそのイメージに外れると、期待値が高いほど、裏切られたと感じ、失望から憎悪に変わる。分析用語で言えば、陽転移から陰転移になる。

(陰の声:ニッポンキリスト教の名牧師は、この投影を実にうまく受けることができる人なんですね。つまりはアイドル。永遠のアイドルの役柄を続けることができる御仁なのです。その点、私などはキャンディーズ、いや都はるみなわけ・・・わっかるかなあ〜?)

この豹変振りはある意味で驚くべきほどであって、私たちはつねにこのようなリスクを負っているわけ。つまり「Dr.ルーク」がリアルな私から分離して、勝手な投影されたイメージが一人歩きするのだ。

私の精神科医をしている義兄もつねにある種の危険を感じていると言う。昨今では妄想が即実行に移される率が高まっている。実際対応を誤って刺されてしまう医師もいるのだ。彼らとは決してガチンコをしてはならない。彼らの内に蓄積されたネガティヴなエネルギーを抜く必要がある。これがうまく抜けると実にコロっと変わって、穏やかになる。この豹変振りも驚くほど。

まことに人は一体は何故に・・・。またこのような人を神は何故に・・・と。ニ・ン・ゲ・ン−この不可解なモノ。

もの思ふ秋だなあ・・・はあ〜。

TB第一号を記念して・・・

昨日の記事に何と見知らぬ方からTB(トラックバック)がついているではないか。驚きました。こんなマイナーなBlogにどうして?

で、さっそく飛んで見るとかなりややこしい議論が展開されている。筆者は生化学の専門家のようで、クリスチャンではなさそう。進化論がすでに公認された、現在にあって生命の起源を説明し得る最も合理的な理論であって、いわゆるキリスト教原理主義者の唱える創造科学はトンデモ系の疑似科学であると言っているのだと思う。

私の論考もけっこう進化論と創造論を論じるサイトの創造論側にリンクされている。が、実は私もまったくその通りと考えている次第。創造主を考慮しなければ、進化論が最も合理的な説明になる。BBSでも述べましたが、サイエンスは神の存在を否定するものでも、肯定するものでもない。現在与えられた証拠(エヴィデンス)と事実(ファクト)に基づいて、現在なし得る説明を加えるだけ。

おいおい、Dr.Lukeは聖書を信じているのではないのか?ハイ、聖書を信じ、自然は神が創造されたと信じ、イエスを信じておりますが、いわゆるクリスチャンたちの唱える「創造科学」は、一サイエンティストとして、ちとゴメンなのです^^

上の筆者も言われるとおり、第一に進化論をあまりにも理解していない。だから進化論に対する批判が見当ハズレ。下でも述べたが、相手を理解しようとしないで、批判がオツムの中での一人相撲。せめて木村資生の中立説を確率微分方程式を解いて説明できるくらいにしてから批判して欲しいもの。

次に批判の姿勢があまりにもエキセントリックで幼稚。これも下で述べたが、大人として相手に敬意を払いつつすべきであって、創造論を認めない者は人にあらずみたいな態度はいただけない。まして人格攻撃などは論外。

結局のところ創造科学の素人ぽっさを露呈し、専門家はのけぞってもう誰も相手にしなくなる。あのね、忙しいのだ、みんな。どうもクリスチャンたちが血肉に(霊にではなく)燃え、熱心になればなるほど、人々はむしろ引いてしまって、遠巻きにご苦労様なこととなるわけ。

人々は私たちの神学や聖書解釈の正しさを見ているのではなく、私たちの態度や行動、つまり人となりを見ているわけ。目一杯の自己主張だけで見られている意識があまりにも希薄なのが幼児性のひとつの特徴。このTB先の論からはクリスチャンの論からよりも多くを学ぶことができると思うのだが・・・。

Commented by Luke URL2005年10月05日(水)12:06

イイ台詞を見つけました。上でTBしてくださった方の日記です。

 行いは自分のもの、評価は他人のもの―勝海舟

http://kurokage.seesaa.net/article/7580269.html

Commented by まひるパパ Eメール 2005年10月05日(水)13:36

「実は私もまったくその通りと考えている次第。創造主を考慮しなければ、進化論が最も合理的な説明になる。」とありましたが、LUKE先生は、いわゆる「有神進化論」の立場にたたれるのでしょうか?

Commented by Luke 2005年10月05日(水)15:17

いえいえ、私は創造一本ですよ。「その通り」とは創造主を知らない人にとっての生命の起源の説明の仕方と創造論者のおかしさについての評価です。

サイエンスはすでに創造主を外において、ツールと方法論を確立しています。ですからそこに創造を「科学」として持ち込むならばトンデモ系疑似科学となるのです。再建主義はこれをあらゆる領域でやろうとしているわけです。

こういった相手のプロトコルを無視したクリスチャンのセキセントリックさを指摘しているわけです。ちょうど車が右側通行の国に行って、日本では左側なんだ!と叫ぶようなもの。相手はただあきれてのけぞるだけでしょう。これに関してはシカゴ大のぼぼる氏が書いています(http://www.kingdomfellowship.com/Treatises/Believe_in_Bible.html)。

サイエンティストではない人が、例えば神学者あたりは何でも言えるでしょうが、私たちは右側通行の国にいるわけです。ですから進化論(http://www.kingdomfellowship.com/Treatises/evolution.html)や科学(http://www.kingdomfellowship.com/Treatises/sciandfaith.html)を論じるにはもっと高い平面から、つまり「メタ」の次元から論じないとサイエンティストは耳を傾けません。

言いたいことは、もっとオツムを冷やして、相手のことを十分に学び、共通の方法論と理解の上に立って、そのフレームを論じないと、科学者は話に乗りません。血肉に燃えるのではなく、冷静な知性を持ちつつ霊に燃えて欲しいと言うことです。

Commented by Luke 2005年10月05日(水)15:25

パウロは「ギリシャ人にはギリシャ人のように・・・」と言っていますよね。このスピリットです。

Commented by まひるパパ Eメール 2005年10月05日(水)20:16

詳細な御解説、ありがとうございました。実は通信制神学校の宿題で、「進化論」「創造説」それぞれ1冊ずつ読んでレポートを出すように、とありましたので、一旦脳ミソを初期化して「高い平面」(に昇れるかどうか・・・ですが)に立って両説の文献にあたってみます。

Commented by Luke 2005年10月05日(水)20:23

私なら、そんな無意味なレポは出しませんけどね。その神学校の先生の進化論に関する識見を知りたいです・・・。のけぞらないようにする心積もりはできていますから^^

リクエストに対するお答え

ある方からメールで次のサイトを見てコメントをとのリクエストを受けました。

・京大名誉教授がID(Inteligence Design)にはまった記事

・文鮮明に対してニッポンの知識人・文化人が賞賛の声を送っている記事

彼女はこれらの記事に対して、「日本の学識者ってどういう精神構造なんだろうとタダタダ驚き入っています。」と嘆息されている。でも、私からすると別に驚かないのです。大学の先生や学者で"変なこと"(私たちクリスチャンから見てですが)にはまる人はかなり多いのです!むしろインテリは論理的整合性によって容易に騙されるもの。

(影の声:私は寅さんの啖呵、「とかくインテリと申しますは、テレビの裏の配線みたくややこしいので、イロケが頭に上ってイロノーゼになります。そこいくとあたしなんざあ、配線が1本だけでございますから、頭を叩くとコーンとイイ音がするんでございます」が大好きなんですね。)

IDについては、いつもながらアメリカで流行しているようですが、愛にして義であるGodを認めたくなくても、自然の巧妙さを知って"何か"を認めざるを得なくなったインテリにちょうどイイ理論ですし、文鮮明に加担する人たちは金と政治の問題です。アメリカの有名どころの牧師たちや団体も統一教会から金をもらっているのですから。そのうちニッポンキリスト教でもIDが流行り、統一協会からの献金で会堂を建てるかもしれませんよ。

最近のBBSは「ナンデモアリ」であまり見たくないと彼女はおっしゃっていましたが、いや、ホント教界も何でもアリになるでしょうね。今のままの情勢だと。そして真理を語るほうが、心が狭いだの愛がないだのとカルト視されることでしょう。現にウォッチマン・ニーや、何とニール・アンダーソンまでがカルトとされているようですから・・・。

この世にも教界にも淫靡な霊的倒錯の世界が訪れようとしているのです。霊的秋葉系というべきか・・・。

Commented by Luke 2005年10月05日(水)11:01

驚きました!トラックバックがついているではないか!でも、その先を見ても、どこにあるのかな?

やや失望しました

今回BBSにあるとおり、再建主義の富井さんが私の文章を引用し、私が語っていないことを語っているかのように批判された。例えば、モーセ律法を悪者扱いするとか、律法は破棄されたから人間の標準で何でも自由にしていいのが恵みであるとか、私が語っているかのように。

反対に私が語っていること−例えば、モーセ律法はいのちの御霊の法則によって、つまり信仰によって全うされること−については一切無視されたままだ。そして彼のサイトで公に的外れの批判がなされているにもかかわらず、こちらはそこにカキコができないと言う不合理な状態がある。他人を批判し、後は一切シャットアウトといった非常識は少なくともアカデミズムではあり得ない。(常識の問題と言う前に、そもそもモーセ律法の義に反する思うのだが・・・)

喩えて言えば、私が「1+1=10」と書いたことに対して、「お前は間違っている。1+1=2だ」と批判し、私が2進法を用いていることを無視するようなもの。実は今回の機会をとらえて、彼との積極的な交流をと期待したが、どうもその後何らのレスポンスもいただけない。残念なことである。私は彼をかなり評価しているのだが。

かつて富井氏と救世軍の山谷氏が大論争を繰り広げた。互いに自説を主張し合って、今回と同様に富井氏が山谷氏をシャットアウトしてすれ違いに終わったが、その論争から学ぶべき点が多々あったので、今回もそのつもりでいたのだ。ただ御言葉がすべてを露にするので、私はこれ以上追求するつもりもないが(そんな気力もないかな・・・^^)。

思うことは、前に「最も本質的なこと」としてディスペンセイション主義者と再建主義者の論争のあり方を論じたが(論争自体は大いになされるべきであるが、そのあり方はかなり病的である)、その時も、また今回も感じることは、ニッポンキリスト教には知的にはかなり高い資質を持ち、聖書の解釈や神学をよく知っている人はそこそこいるが、情緒的に成熟した大人はあまりいないと言うこと。むしろ情緒的にはきわめて幼い。

ニッポンキリスト教の諸悪の根源はこの情緒的な幼稚さにあることを痛感している。神学の問題ではなく、精神病理的問題なのだ(私は、どの神学を選ぶかはその人の精神病理と密接に関係していると感じている)。いのちの成熟がない。私たちに必要なのは成熟した繊細な霊的感受性なのだ。

妄想と現実の間の消失

最近実銃や改造モデルガンで人が撃たれている。私は車で高速を使って出勤しているので、実はこのこと(撃つことではないですよ・・・)を考えたことがあった−もし隣にピタリと着けられて、ピストルで撃たれたらオシマイだな、と。

昔スピルバーグの出世作で『激突』と言う映画があった。車で出勤中のサラリーマンが、巨大トレーラーに粘着されて、命を狙われると言う恐怖を描いたもの。恨みによって粘着されることは、私も経験があるが、実に不気味と言うか、コワイことなのだ。

わけても車は実にコワイ。車に乗るとそのドライバーの精神病理が拡大されて表現されるわけ。高速などはまさにビョウキの人のビョウキが暴走する場。

そしてニッポンでもまさかこんなことが現実に起きるとは・・・。サバイバルゲームをしていたら人を撃ちたくなったとか・・・。人間が壊れてきている。妄想と現実の境目が消失しているわけ、この世でもキリスト教界でも・・・。実にコワイことだ。

自然界で最もコワイもの、それはニ・ン・ゲ・ン。

Commented by Luke 2005年10月03日(月)23:06

また自己レスですが、そんなニ・ン・ゲ・ンのために、神は何故と・・・。