聖書を信じる|キングダム・フェローシップ




聖書を信じる

- 一科学者の考え -


地球物理学者
 中 村  昇
http://www.nakamurafamily.net/

氏ははちこさん(中村佐知氏)のご主人で
東京大学地球物理学科卒、
現在シカゴ大学地球物理学科準教授。
地球物理学の世界の最前線におられる氏の
科学者としてまた信仰者としてのスタンスを
率直に証ししてくださっています。
今回特別に寄稿していただきました。


聖書の記述の中には、自然科学の知識に照らしてどう解釈していいのかわからない、という箇所が少なくありません。そのことで鼻から聖書の信ぴょう性を疑う人もいれば、クリスチャンの間でも意見が大きくわかれていることもあります。

聖書の冒頭部分である創世記1章、創造の過程の解釈がよい例です。10人のクリスチャンに聞けば、10通りの返事が期待できると言っても過言ではありません。よく知られている説だけでも、Young Earth Creation、Day-Age Theory、Gap Theory、Theistic Evolution、Hugh Ross に代表されるProgressive Creation、Gerald Schroeder の相対論的創造などが挙げられ、それぞれに聖書解釈と近代科学の整合性を探っています。

これらひとつひとつの説を吟味するスペースはここにはありません。創世記1章の解釈をライフワークにしている人で、最新の科学的なデータの知識がなければ、どの説がどの点でもっともらしくどの点で不明瞭なのか、判断はむずかしいでしょうし、そもそも何通りも解釈があるということ自体に、落ち着かない気持ちになる人も多いのではないでしょうか。

ここでは、具体的な解釈を持ち出すかわりに、自然科学にたずさわるクリスチャンとして、私自身が聖書を解釈するにあたり、自然科学との関係についてふだん考えていることを、一般的なガイドラインとして書き留めておきたいと思います。あくまで私見でありますが、考えるヒントになれば幸いと存じます。

(1)聖書の無謬性(Inerrancy of Bible) と創造の完全性(Integrity of Creation) を理解の前提とする。

(2)聖書解釈の手段としての神学と、被造物解釈の手段としての科学は、理想的には、両者とも正しく用いられた場合、調和するはずである。

(3)しかし現実には神学も科学も不完全なので、見かけ上の矛盾はおこりえる。特に、「絶対」という基準を置かず、つねに新しい発見の余地を残すのが科学のルールであるので、両者の関係は時間とともにかわり行く宿命にある。

(4)したがって現在ある矛盾には目をつぶらないが、あまり心配もしない。議論に直面したときは、それが神学的なものか、科学のルールを曲解していることからくる混乱かをみきわめる。

(5)聖書の目的は科学を教えることではない。近代科学の登場する前と後で、聖書のメッセージが変わったわけではない。しかし、科学者にいのちをあたえるのもまた、聖書の神である。

(6)自然科学は物質世界のはたらきを解明するのが目的であり、霊の世界、神の存在や介入については沈黙を保つ。しかし、それらを否定はしない。実際、科学の制約性の中から逆に創造主の存在を見い出すという人も多い。

(7)クリスチャンは「神の介入」を因果関係のひとつとして科学の学問体系に積極的に取り入れるべきだという意見があるが、いかがなものか。客観性が科学の礎石であり、神を持ち込むことは主観的な操作に陥る危険がある。(大多数の科学者をのけぞらせ、ますます神から遠ざけることは必至。)科学は、神を知る人にも知らない人にも同じように門戸が開かれているいうことが大事で、それが神を知る機会を広げることにもなる。

(8)そもそも自然科学がなりたっていること自体が、被造物の秩序という創造主ぬきには考えらない現実によっているのであり、それだけで神を証している。

(9)科学者が被造物をまじめに研究してたどりついた結論は、まじめに聞く必要がある。なぜなら被造物は神の性質をあらわしているはずだからである。

(10)であるからして、たとえば、地球の年齢は約45億年というのが大多数の科学者の意見なら、実はそう見えるだけで1万年前に45億歳の地球が創造された、と主張するのはやや無理がある。「いつわりの証をすることなかれ」という神が、自らまじめな探求者をあざむくとは思いがたい。

(11)偶然にもとづく進化論は、神の存在を否定する前提で展開されるなら拒絶するが、科学が神の介入に関して沈黙を保つのがルールである以上、生態系の時間発展を理論化するのに「確率過程」という概念を導入せざるをえないのはむしろ自然なことで、それ自体には問題を感じない。しかしそこから世の中すべて偶然の積み重ねという結論が出てくる必然性はない。

(12)ことわっておくが、もちろん、キリストの肉の甦りも、アダムとイブの創造も、聖霊のバプテスマも、奇跡の数々も、私はそっくりそのまま信じている。

(13)以上のことすべてについて、論理だった反論をすることは、もちろん可能である。しかし、信仰と科学の整合性についての議論は、人とキリストの関係においてなされるのでなければ空しい机上の空論である。人が求めるべきものはキリストであって、すぐれた聖書解釈ではない。聖書によれば、何を信じるかでわれわれの永遠が決定され、永遠のいのちにいたる道はイエス・キリストしかない。そして、このことについての解釈は一通りしか存在しない。