「進化論」の精神病理―何故「進化論」を信じるのか―



医学博士 唐沢治



1.はじめに―日米の比較


5月30日、11年ぶりに母校の本郷の東大を訪れた。しばらくぶりのキャンパスはほとんど私のいた頃と変わりなく、昔の匂いがぷーんと蘇った。古い赤煉瓦造りの建物のそこここに、かつての想い出が染み込んでいるかのようだった。目的は五月祭のシンポジウムの参加。「東大ロゴス英語聖研」、「KGK」、「CCC」の共同主催による企画で、「宇宙の起源」を論じるシンポである。昨日は渉外弁護士の佐々木満男氏と天文物理学者で敬虔なクリスチャンでもあるFugh Ross博士による講演があり、きょうはRoss博士単独による講演が行なわれた。氏はトロント大学で天文物理の博士号を取得され、カリフォルニア工科大学でリサーチ・フェロウをされた後、現在は"Reasons to Believe"というミニストリーを主催されている。

同氏の働きは聖書による「創造論」に基づいた科学知識を普及させ、信仰を擁護する目的で設立され、日本ではほとんど自明の理とされている「進化論」のオカシサを指摘し、むしろ聖書的な「創造論」の方が様々な新しい観測結果や実験結果に妥当することを証明している。ちなみにアメリカでは一流かつ高級な研究機関や大学の教授であるほど、「進化論」のオカシサに自ら気がつき、むしろ「創造論」に対して積極的であると博士はコメントしておられた(注)

これと比較して日本の現状はどうであろうか?例えば日本における「進化論」の大御所で、「中立説」によって有名な故木村資生博士は、ある著書の中で「日本はアメリカほど聖書によって毒されておらず、聖書の創造論などを取る人々が少ないのは良いことである」という趣旨の発言をされ、真っ向から聖書の権威を否定しておられる。博士は文化勲章も受賞されているが、これが日本の一流と言われる学者の一般的態度であって、「創造論」などはまず顧られることがない。私たちももし「創造論」的観点に立つ論文を書いたとしても、まず内容査読に入る以前に、無条件にレフェリーによってはじかれてしまうであろう。これに対してアメリカでは「創造論」的観点に立つ科学者が数多く出ており、Web上でも様々なHPもある。
(注)96年のギャロップ調査では、「進化論」をまともに信じているアメリカ人は約11%、聖書の創造論を信じる人は約30%であるという結果が出ている。




2.「進化論」を無批判に受け入れる土壌―受動性


この違いはどうして生じるのであろうか?高校生とか浪人生に対して受験数学を長く教えていた経験のある私から見ると、このような現象もなるほどもっともであると納得し得る。否、むしろ納得し得ることに、ある種の危険性を覚えている。すなわち彼らの勉学の動機はすべて「大学入試を通ること」のみであって、そのための問題解法のテクニックを、提供されるままに、マニュアルとして身につけるだけだからである。そこに要求される資質は、自分で解法を編み出すとか、問題の本質を探るといったものでは到底なく、いかに早くかつ正確に数多くの問題をこなすかに焦点が絞られているのである。せめて自分でオリジナルな解法を発見するということでもあれば、かなり上等の部類に属すると言える。

いわゆる「受験**」と呼ばれる世界は、きわめて閉じて完結した世界であって、その中でのみ通用する一束のルール(ドグマ)があり、それの真偽はさておいて、そこから演繹される結果のみが正答とされるわけである。一種の「ヴァーチャル・リアリティー」と言える。そこでほとんどの諸君は、その「ルール」の検証などをすることなく(むしろ避けて)、大学受験を通るための「解法マニュアル」を身につけることのみに汲々とするようになるのである。もともとの「ルール」それ自体を論じることはいわば禁じ手である。彼らは、おそらく、精神的にも自分で考える余裕などないのであろう。彼らは多感な思春期において、このような精神労働を課せられ、そのパターンを否応なく刷り込まれてしまうのである。

その結果、この10年間で受験生諸君の学力はもとより、勉学に対する姿勢も大きく変わっている。文部省のいわゆる「ゆとりの教育」によって、中学・高校のカリキュラムがめちゃめちゃに解体され、その内容も薄っぺらとなった結果、高校生の学力はこの10年で著しく低下の一途をたどり、特に理科系においてその傾向は著しい(注)。自分で物を考える姿勢が磨耗されているのである。その結果、大学における教育が成立しないという現状が生まれた。私は大学でも教鞭を取っているが、その実態はまさに恐るべし、「科学技術立国日本」の将来はきわめて危ういと言わざるを得ない。

(注)2002年度から実施予定の指導要領によると、中学英語の必修英単語は現在の500語から100語に減るという。「それではoneからhundredまで覚えたら終りだ!」と言う冗談がマジに聞こえるほど、英語の先生はみな脅威を感じていると言う。




3.マインド・コントロールの存在‐受動性の原因


カルトによるマインド・コントロールの第一歩は、まずその人が自分の頭を使って、自ら考え、自ら判断することを止めさせることである。自分の意志を用いて、種々の情報を自ら収集し、それを自分の頭で消化し、評価を加え、その結果に基づいて自らの意志を用いて決断し、実行行為に移すというプロセスを解体することである。この過程にこそ、その人となり(人格)が表現され、人間の尊厳があるのであるが、この人格あるいは人間の尊厳そのものを解体・放棄させることが彼らの狙いである。

私はこのようにマインド・コントロールされた人々を数多く見てきているが、彼らにはある種の共通のパターンが見られる。それはその解体の後に人為的にインプラントされた特定の人物あるいは教義を、自らのアイデンティティー(人格)と価値観の中核に置くようにマインド・マニュピレーション(思考操作)を受けているため、他の人物や価値観に対してきわめて排他的傾向を呈するようになる。他のものを受け入れることは、すなわち自分自身のアイデンティティーと価値観の再度の解体を意味するからである。これは他者が考える以上に、彼らにとっては脅威と感じる事態なのである。オウムの離脱者がなかなか教団との縁が切れない理由がここにある。「進化論」を無批判に受け入れてしまう日本人の精神構造は、このカルトによる被マインド・コントロール状態ととても近縁の精神病理的要因を感知し得る(→「オウム問題に思う」)。



4.「進化論」を通してみる日本の病理―強迫反復


かつて天皇を「現人神」と崇め、「大東亜共栄圏」なる理想郷を打ち建てようとしたカルト国家日本が、戦後、そのアイデンティティーと価値観を暴力的に根底から覆され、そのトラウマを癒されていないままに、「民主主義」や「市場原理」などを形式的に受け入れてきたが(注)、ここへ来てその抑圧されて解消されていない内的エネルギーが、きわめて病理的な形で噴出していることを観察できる。このエネルギーの噴出は、トラウマが本質的に癒されていない限り、その表現は病理的色彩を帯び、必ず再度自己を傷つける結果となる。このような悲劇の無意味な反復を、精神分析用語では「強迫反復」と呼ぶ。

(注)ここでは「民主主義」や「市場原理」などの諸価値観そのものを判断してはいない。問題は「現人神」から、一夜にして一転それらの「諸価値観」を受け入れてしまう日本人の姿勢である。「現人神」を受け入れる精神病理と戦後の「諸価値観」を受け入れる精神病理は、実はまったく同一の心理機制による。

この病理を脱する道はただひとつ、自己の真実に逃避することなく直面し、それを認めて受け入れ、自己を騙し傷つけた相手を赦すことと、また偽りを信じ込まされていたことについて自ら悔い改め、再度真理の上に自己を一から建て上げることである。そして実はこのことは一度傷ついた人にはきわめて困難な過程となる。「羹に懲りて膾を吹く」からである。そこで自己防衛反応として、表面的にある種の価値観を「真理」として受け入れて、「自己」の再構築を企てるのであるが、もとよりそこには自己欺瞞が横たわっているので、その建て上げたものはfakeであり、いずれ崩れてしまう運命にある。そのことを彼は半意識的に知覚しており、そのことを恐れて自己欺瞞を重ね、その価値観にあくまでも拘泥し続けることなる。古い皮袋を取り繕うのである。

日本人が、時々に、無批判に「民主主義」や「市場原理」、あるいは最近の「グローバル・スタンダード」、そして「進化論」などを、金科玉条のように奉る様子を見るにつけ、日本人の心の深い部分におけるトラウマが癒されていないことを感知する。それはすべて「役割演技」に過ぎないからである。受験生がある一定のルールに従って、ある一定のマニュアル通りに、ある一定の結論に至る過程を、無意味に反復するように、日本全体がそのような表面的かつ強迫的な反復行為に陥っているのである。それを繰り返さなくては、自己のアイデンティティーと価値観が根底から揺るがされるからである。

神対自己の霊的構図において、自己が十分確立し得ていない日本人の様々の精神傾向や行動パターンの基底には、このような精神病理が横たわっており、「進化論」が無批判に公教育で繰り返し教えられている現状も、その氷山の一角的な現れと言える(注)。そこからの脱出は、ただ自己の真実を見つめ、悔い改め、新しい皮袋を得ることである。その時自ら主体的にリアリティーに触れることができ、主体的な自らの判断が可能となる。日本再生の唯一の希望はそこにある。

(注)私は「進化論」を教えるべきではないとは言わない。問題は教える際の態度である。「進化論」はあくまでも一つの説であって、仮にもしそれが真理であったとしても、現在ではまだまだ裏づけとなる証拠を積み上げる必要性がある、といった配慮を要求したいと考える。



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