(注1)「カルト」という単語のもともとの意味は「礼拝」である。
(注2)現在の私たちにとって「善悪を知る」こと自体は問題ではない。問題はその判断のプロセスが自分単独で行われるか、神に依存して神に介入していただくかにある。
■人は神から分離された結果、宿命的な実存的自己不全感・孤独感を心の奥底に抱えており、それに直面することを避けるため、あるいは補償するために、自分を自分の人生の「神」とし、すべてを自分の思いのままにコントロールあるいはマニュピレートしようとする。すべてを自分の思いのままにできれば、それは自分にとって快適で安心なことであると感じられる。これこそがサタンの誘惑の本質であり、私たちの肉にとってはきわめて魅力的に映る。自分のあらゆる動機を真実に探ってみるならば、まさにこのことを自分は第一に求めていた(時に現在でも、いる)と、私は告白せざるを得ない。教育によって知識を得て、地位を得て、金を得て、評判を得て、影響力を得て、・・・という具合に。
これらはすべて自己の何かを実現することを意図してのものである。ある人々は才能に恵まれて、この世でその実現を計ることができる。しかし一方で、それが実現できない人々は深刻な自己無力感と対峙せざるを得ない。それを回避あるいは解消すべく、彼らは多くの人々の中で自らを受け入れてもらい、人々から孤立しないことを願う。もちろんこれらの2つの要素が、一個人の中で、あるスペクトルをもって同時に存在しているわけである。すなわち人は自分が「神」になりたいと思うと同時に、人々から受容されたいというある種の矛盾する葛藤を抱えているわけである。カルトはまさにこの矛盾を突くのである。
■いわゆるカルトの教祖は、もともときわめて深刻な自己不全感をいだく存在であって、それを補償するために他者をマニュピレートする強い動機と、たまたまその才覚と手段を有している。彼は人々を思いのままにマニュピレートすることによって、自らが「神」となり、自己の葛藤を回避・解消しようとする。一方自らが「神」になれず、社会の中で孤立し孤独感と無力感をいだく人々がおり、彼らは帰属意識とか自分が必要とされているという意識を得ることを求めている。彼らは誰かにマニュピレートされ、それに従うことによって、自己の被受容感を得ようとするわけである。ここにカルトが成立する。教祖も信者も、お互いの内的葛藤を、お互いに役割分担して、相互補償するのである。
すなわちカルトは、もともと神から分離された人のきわめて深くかつ深刻な葛藤から生じており、教祖も信者も同じ精神病理あるいは心理機制を有しているために、その間の一体感は非常に強い絆として成立する。彼らの間は一種の「霊的精神的共鳴」によって結合されているのである。そこでカルトはわれわれが想像する以上の強固な連帯感と組織によって成立し、それを崩すことがきわめて困難なのである。仮に「破防法」によって、組織自体を解体したにしても、彼らの霊的精神的結合までは決して解消することができない。むしろ彼らはますます強固な絆を結ぶだけである。ここに脱会者が真に教団から分離することが困難な理由があり、そのためには社会の側が相当の誠実さと忍耐をもって彼らを受容する必要があるのである。神から分離された人間の無力と孤独を、「支配と被支配」という歪んだ「役割分担」を通しての病理的関係によって慰め合い、補償しようとすることこそ、まさにカルトのカルトたる本質である(注)。その問題の本質的解決は、本物の神、私たちの魂と霊の御父の身元に帰り、罪の結果、宿命的に抱えた内的空洞を神の霊によって満たしていただくことにのみよるのである。(1999.06.20)
(注)しかし注意深く観察するならば、神を排除するこの世の様々なシステム自体が、そのような要素を多かれ少なかれ含んでいることも事実である(→「進化論の精神病理」)。日本人は特に「会社」や「世間」を偶像として、それを恐れつつも頼り、それに従ってきたのである。しかし現在その偶像が壊れつつあり、そこで様々な混乱が起きているのである。