最近の日記

いのちの不思議

1069-1.ppt(799KB)

考えて下さい。私たちがアダムにあって受け継いだいのちすら、どのように精緻に造られているか。

例えばDNA。A,T,C,Gの4つの塩基配列からなる二重螺旋ですが、三つの配列に原則としてひとつのアミノ酸が対応し、アミノ酸がつながってタンパクが合成される。

この暗号をコドンと言うが、これが私の、そしてあなたの設計図です。このDNAの指令によって毎日私たちの体は合成されているわけ。

私たちはこのようなメカニズムをひとつひとつ知る必要はない。ただそのいのちの働きに任せるだけ。

霊的ないのちも同じ。このいのちの絶妙なメカニズムに信頼するならば、私たちは自然とキリストに似た者とされていく。それは霊なる主の働きによる。

アップしたファイルは、パワーポイントファイルです。ある教会での伝道集会のために作ったものです。ご利用下さい。

(パワーポイントがインストールされてあれば、クリックすると始まります。幼稚園の頃の紙芝居みたいでイイですね、PPTは・・・)

Commented by ICHIRO 2005年10月21日(金)17:16

このPPTファイル、面白いです。
Lukeさんが福音を語るとこんな感じなんですね。
これ、使わせてもらっていいでしょうか?

Commented by えすてる 2005年10月21日(金)20:51

どうも、こんばんは。図々しくここまで出没してきました。ルークさんの頭のなかってどうなっているのだろう・・・?同じ脳なの?と思ってしまう。
おもしろいので主人に見せてみます。

Commented by Luke 2005年10月21日(金)21:24

えすてるさん、ようこそ^^

ファイルはご自由に用いてください。

いのちの現われ

アップロードファイル 200KB

(Holiness)とは、客観的には神への分離(separation)、主観的には健やかさ(wholeness)。

いのちには必ず表現がある。鳥のいのち、花のいのち、それぞれに。その健やかないのちの表現は、自然さ、明るさ、解放感、伸びやかさ、さわやかさ、楽しさ、喜び、平安と安息、そして信頼感。どうもサタンはそれらに嫉妬するようだ。

そこに気張りはない。任せているから。自転車も最初は手放しなどできないが、法則をつかめば手を放せる。法則に委ねた結果。同様に私たちも主に対してどこまで手放せるか。いのちの法則をつかめばつかむほど任せることができるようになる。

かくして気張っていた魂から力が抜けるとき、伸びやかな魂の救いを味わう。

あなたがた魂において恵まれている同様に、あらゆることで健やかであるようにと祈る

原点

アダムとエバが享受したエデンの園の生活(life)はどんなだったでしょうか?もし彼らがいのちの木を取っていたら、その後はどんな生活(life)だったでしょうか?

彼らは善も悪も知らず、ただ神に赤子のように頼って生きていたのです。律法を守るとかの意識もなく、いのちがすべてを教えたはずなのです。「業の契約」などという意識もなかったでしょう。

イエスはそこで失ったいのち(life)を改めて私たちに下さったのです。いのち(life)はそれぞれの固有の生活(life)を持ちます。

シンプルで安らかな原点に戻りたいと願います。

Commented by ブヒ 2005年10月18日(火)08:33

ハレルヤ!!
アーメンです! 主に感謝します!!
涙が出てきました!!!

今朝も素晴らしいプレゼントを下さった主に心から感謝します!!(*^^)v

うーむと思わず

やはりコワイです。このキリスト教と言う業界。ジュンヌ・ダルクをはじめ、異端審問で焼かれた人も昔はいたわけですが。再建主義では中絶した女性は死刑だそうです。私は彼らを理解しようと努力したのですが、やはり超えられない一線がありました。

不思議なのはなぜ自分が正しいことをしているのであれば怒るのでしょうか。「人の怒りは義を全うしない」とあったような。私たちが間違った聖書解釈をしているのであれば、納得できる説明があればいくらでも改めるつもりです。私は自由主義神学書など見たこともありません。

創世記4:6-7「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。」

Uテモテ2:25−反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。

とあるのです。もし私の態度に失礼な部分がありましたら謝罪いたします。お赦し下さい。

それに加えて、驚くのは、かつての某集団の人たちもやっぱり見ているんですね、ここを。もう20年前なのですが・・・。で、こんな場面で、富井氏に私のことを告発して、いまだに私に粘着してくるとは・・・。ほんとに驚きます。ほとんどストーカーです。

この集団の名前を出してもいいのですが、まあ、今回は伏せておきましょう。分かる人には分かると思いますが。私は何しろその集団のほぼ絶対的指導者の秘密を握っており、彼を批判したところ、「神に反逆する者」の烙印を押された者ですので、こうなると時が時ならばホント身の危険も覚えます(汗)事実脅迫も受けていますので・・・。

映画でもカトの修道院の隠微な世界を告発したショーン・コネリーの『バラの名前』(だそうです)とか、日本でもカト系某学園の内情を曝露した花村萬月の芥川賞作品『ゲルマニウムの夜』など、この業界に題材をとった作品はたくさんあります。私も文才があれば書いてみたいと思っているくらい。

何でクリスチャンが1%なのか。それは主が憐れみをもって制限されているからです。とても今の現状では人を養うことなどはできません。前にも言いましたが、進化論を批判するならばもっときっちりと勉強してからして欲しいし(私は創造ですよ)、クリスチャンになどとても経済や政治は任せられるわけがありません。そのためにはいのちの成熟と専門性の学びと訓練です。

再度言いましょう:古のヨセフもモーセもエジプト(この世)で学び訓練を受けたのです。神学オツムで世から切断されてはなりません。どんどん世と関わって、世から学び、世のものを神の幕屋の設立のためにぶん取る(合法的にですよ^^)必要があるのです。今の流行のチャーチスクールだのホームスクールだのは今後10年で実を刈り取ります。精神病理の専門家として言えば、それはちょっと寒くなる状況でしょうね。これはここで明言しておきましょう。

新約聖書でもっとも律法を強調したヤコブですらこう言っています:

憐れみは裁きに打ち勝つ。

Commented by 立ち寄り人 2005年10月18日(火)12:01

今度の論争、ではないし、対話、でもないし、何でしょうか、とにかく興味深く拝見しました。山谷氏のサイトでも注目されていたようですが、山谷氏のガチンコ粘着的切り込み方と違ったアプローチで、再建主義の本性を見せてもらえたと感じます。神学的視点からではなく、精神病理的視点からの冷静な対応は見事でした。それにしてもストーカーですか、大変ですね。身辺お気をつけて。

Commented by Luke 2005年10月18日(火)13:42

いえいえ、別にそんなつもりではありませんでした。元々彼が御自分のサイトで私の実名を出して、私が言ってもいないことを批判したわけです。

何でこんな礼儀に反することを、律法を尊重せよ、と教えている人がするのかなと疑問を持ったわけです。彼自身が山谷さんと論争に入る時に、人の言っていることを正確に理解してから批判せよとおっしゃっているのですから。

で、私たちは非礼だなと感じつつも、怒らないのです。なぜかな、と考えるわけです。だからこの機会に彼の話を聴いてみたかったし、理解したかったわけです。再建主義を。

ところがどうみても御言葉に明確に反することを御自分の神学を根拠に主張される。そこで神学の問題に触れたら、逆鱗に触れたというわけです。

こういった経緯は自然科学者同士ではあり得ませんね。私たちはもっと神の創造とか法則に対して峻厳な意識を持っています。モラルにおいても、方法論においても神学は別世界だと感じました^^

買収、またも・・・

かつてアノ横井秀樹氏が白木屋などを株の買占めで乗っ取った時代があった。小説にもなっているが・・・そして今また・・・

どうもいわゆるネット関連会社の、金に物言わせた株の買占めによる会社の乗っ取りは、イヤな感じがしますね。村上ファンドのあのトッチャン坊やは「TBSの方はいませんか。買収がイヤなら何で株式を公開してるんですか!」とエラそうに・・・。

会社は株主のもの−確かに商法ではそう。しかし会社は従業員の生活場であり、人生なのだ。彼らが営々と築いたものだ。そこを食い荒らすようで、実に気分が悪い。

金で人の頬を張るみたいなやり方は必ず社会の荒廃を招くであろう。小泉氏のやったこともこれから10年、20年にわたって、ジワジワとニッポンの心を蝕んでいく。

クリスチャンの議論のあり方

午前中はいつもどおり、プールとサウナ。これをしないと1週間がシャキっとしません。92年からですから、もう13年。このスイミング・クラブはちょっと旧くて、平均年齢も高いのですが(おばちゃんばっかり!)、サウナもコースも「マイ」で行けますから。プールの目的は泳ぐこと。若い子を見ることではありませぬ。

女性コーチたちは体型がなんとも日本人でして、若い子にはとても夢を与えません(太目のほぼ5頭身だぁ・・・)。しかし贅沢は言えません。近くの高級クラブは設備もいいし、コーチもピチピチしているのですが、イモ洗い状態。皆さんキラキラと人の目を惹かないものがイイのです。午後はカミさんと次女とでいつもどおりチネチッタにて映画。

 * * *

ディスカッションではイロイロと刺激になりましたが、結構収穫があったと思います。同じ聖書を読みながら、これほどに異なる受け止め方をしている人がいることの発見は貴重です。しかしもしかしたらコチラの常識がおかしいのかも知れないと、下の科学者的姿勢でも言いましたとおり、ちょっと留保を残しておきましょう。

私たちにとって大切なのは交わりです。聖書の解釈の違いを超えて、交わりを維持すること−これが最も重要であるとウォッチマン・ニーも言っています。とかく同じ意見で群れる方が楽ですから、そちらに流れるのが人の常。これは世も教界も同じ。違った相手を受け入れることにおいて霊的な度量が問われるわけです。その人を通して流れる神の何かをミスすることのないように。

交わりの本質はいのちにあります。相手に何がしかの真実といのちが感知されるならば、開く必要があります。相手が悪意のある単なる戯言者であるならば、無視すればよいのです。その人が自らの言葉で自らを証しし、裁かれるだけです。この意味で意見の相違や神学の種類でキリストの体が分けられていることには、私たちはうめきを覚える必要があると感じております。

Commented by Sky 2005年10月16日(日)01:01

ルーク先生、こんにちは。
(初歩的な質問で恐縮ですが・・・)
富井氏とのディスカッションの10月15日(NO.72)のシェーマ作成のソフトは何をお使いでしょうか?
便利そうなので、お教え頂けますと感謝です。

Commented by Luke 2005年10月16日(日)08:24

ええと、そんな高級なものではなく、Windowsの「アクセサリ」にある「ペイント」です。

Commented by Sky 2005年10月16日(日)09:33

そうですか、ペイントだったんですね。
ありがとうございます。

Commented by ともじいのおやじ Eメール 2005年10月16日(日)21:29

>この意味で意見の相違や神学の種類でキリストの体が分けられていることには、私たちはうめきを覚える必要があると感じております。
一致できない(信条・教理・聖書解釈の違い)ことに呻くのでしょうか。私たちより先に御霊が呻いておられないでしょうか?また、今回のディベートは「キリストのからだ」を裂いてしまったのでしょうか?
火種となった「うさぎ亭主」殿にはよくよく
注意しておきますが、彼も私も、もう一度虚心坦懐に御言葉に真っ正面から迫ってみたいと考えております。そして今回のディベートについても学ばせて頂きます。そして、完全に一致できなくても手を携えて「交わり」ができる、そんな「からだ」を求めて参りたく、今後とも御指導宜しくお願い申し上げます。

Commented by Luke 2005年10月16日(日)21:53

いえいえ、今回の対話はむしろ交わりの契機となれたと思いますよ。彼とは話を一度してみたかったのです。私はとても満足しています。

解釈の相違などはあっていいわけです。いのちの認識があれば、ソレを超えて交わりができるはずです。富井さんにはとても感謝していますし、キッカケを作って下った某氏にも感謝しております^^

Commented by Luke 2005年10月17日(月)10:54

やれやれ、ついに私に対して富井先生お得意の「異端宣告」がなされたようです。「選び」と「内なる霊」が違うので、一緒にやることはできないとのことです。WindowsとNS-DOSの関係がどうしても御理解いただけなかったようです。もうちょっと伺いたい点があったのですが、残念。

自然科学の方法

どうも神学オツムの方は、ひとつの神学のフレームを持つと、頑なにソレを御言葉に優先し、むしろ御言葉をそのフレームにはめたがるようです。

私たち自然科学者は逆です。なるべく一定のフレームを持たないことを心がけます。私はこれを「カラスの論理」と呼んでいます。自分がこれまでに見たカラスが黒かったから、一応「カラスは黒い」と主張します(「不完全帰納法」と言います)。が、もしかしたら白いカラスがいるかも、と留保をつけて置くのです。なにしろ世界中のカラスを見たことはないのですから。

対して神学オツムはいったん「カラスは黒い」となると、たとえ白いカラスを見ても、「いや、アレはカラスではないのだ!」となります。ヤレヤレ。

アインシュタインが出る前にもニュートン力学の矛盾は知られていました。が、彼以外の人はその世界(フレーム)から出られなかったのです。だから理論がコジツケでした。しかしアインシュタインは単純に実験による事実(光速度不変の原理)を認めてしまったのです。これを説明するためにコジツケをするのではなく、逆にこれからすべてをスタートしたのです。これが特殊相対性理論です。

しかし物理理論は必ず実験による検証と言う関門をくぐります。彼はパスしました(妄想ではなかったのです^^)。次に一般相対性理論を作りました。これは特殊が等速度系での理論であるのに対して、加速度系での理論です。これがやはり実験で確認されました。

しかし特殊相対論はニュートン力学を否定しません。むしろその中に吸収し、含むのです。だからロケットを飛ばすのはニュートン力学で十分です。同様に一般相対論は特殊相対論を否定しません。むしろ含むのです。こうして神の造られた世界の構造はますます精緻に理解されるようになったのです。

モーセ律法といのちの御霊の法則の関係も同じです。MS-DOSとWindowsの関係がご理解いただけないとは・・・涙、涙であります。どうも神学の方は永遠にニュートン力学(いや、それ以前)に留まりたいようですね。そこはとても不自由な世界なのですが。相対論の世界の方がはるかに自由であり、楽しめるのですがね・・・。まあ、あえて折伏はしませんが、少なくとも私の言っていることは正確に理解いただきたいと願うだけです。

(ホンネ:再建主義がすべての分野に適用されたら、これはもうニュートン以前に戻りそう・・・汗)

Commented by ICHIRO 2005年10月15日(土)14:09

Lukeさん、ようやく分かりました、私も!
MS-DOSとWindowsの関係ですね、なるほど、、、
でも、すでに時代はMS−DOSさえ知らない人が多いのでは?
たとえも題材を選ばないとなりませんね。

いやあ、驚きました!

富井さんとのディスカッションと言うか、どちからと言えば、私が聞き役に回っておりましたが、大変に刺激的でした。「モーセ律法はいのちの御霊の法則」であり、「旧約の人も新約の人も同じいのちを得ていた」・・・。これを読んで本質が見えましたので、もはや十分であると判断いたしました。(彼、大丈夫かな・・・)

私はニッポンキリスト教徒と接していて、いつも私の専門が疼かされます。実にニンゲンを見るわけですね。前にも言いましたが、それぞれの精神病理に従って神学を選んでいることはますます証明されてきます。繰り返しになりますが

ニ・ン・ゲ・ン−この不可解な存在。何故に神は・・・と。

Commented by 通行人 2005年10月15日(土)03:04

Lukeさんと富井さんの議論を興味深く読ませてもらっています。今回の議論では色々な点が明らかにされたので、有意義であったと思います。議論の方は平行線になりそうですが、しかたないのかもしれませんね。

富井さんは「改革主義神学」というフィルターを通して聖書を見ているので、Lukeさんの言葉が耳に入らないようです。それにしても「フィルター」というのは恐ろしいものだと思いました。なにしろ白が黒になり、黒が白になってしまうのですから・・・。ただただ唖然とするばかりです。改革主義、ディスペンセーション主義、アルミニウス神学、ペンテコステ主義・・・・等々、キリスト教は様々な「フィルター」で満ちていますが、「フィルター」なしで主の御言葉を素直に受け取りたいものです。

Commented by Luke 2005年10月15日(土)06:33

>キリスト教は様々な「フィルター」で満ちていますが、「フィルター」なしで主の御言葉を素直に受け取りたいものです。

おっしゃるとおりですね(汗)。だから私は神学の論争などは精神病理の問題だと言っているのですね。でも、お話が分かってくださる方がいるとホッと致します^^

ちょっと手を入れておきました。彼はどうも私の文章をそのままに読んでいないようなので・・・。

Commented by ブヒ 2005年10月15日(土)08:10

おはようございます!!

いやぁ・・・訳が分からない・・・と言いつつとてもいい学びをさせて頂きました!!!

「律法を行わなければ救いはなし」に衝撃に近い驚きがありました・・・。

>キリスト教は様々な「フィルター」で満ちていますが、「フィルター」なしで主の御言葉を素直に受け取りたいものです。

心から同感です!!自分自身、常に気をつけていきたいと思います。

処で、ルークさんと富井さんのやり取り最後で、ルークさんが「もう、ここまで!!」と最後調達(笑)を出された時、「再建主義が多くの方の理解を得られるように・・」云々・・・と書かれてましたが、この意味は・・・?

再建主義の間違っている処を理解?するように・・・という意味でしょうか・・・???

Commented by ブヒ 2005年10月15日(土)08:15

先ほどのコメントで・・・すごい間違いを・・・(>_<)

最後調達・・・ではなく「最後通達」デス!!!
最近、頭が・・・イエ・・・最近ではありませんね・・・昔からですが。。。お恥かしいです!!!穴があったら・・・(*_*;

Commented by Luke 2005年10月15日(土)08:21

>再建主義の間違っている処を理解?するように・・・という意味でしょうか・・・???

「ブヒちゃん、それを言っちゃあ、おしめえよ」。各自でご判断を・・・。

Commented by 赤子 2005年10月15日(土)08:37

ルーク先生
時々、精神病理と神学の関係について表面的に書かれておられますが、もう少し詳しく今つかんでおられるところの範囲でもかまいませんので教えていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

Commented by Luke 2005年10月15日(土)09:11

ええと、これを言うとエライことになりそうですよ(多量の汗)。人は図星をつかれるとスゴイことになりますから・・・。ちょっと身の危険も・・・^^

今のこの業界のエライ先生方についてはそれぞれ分析はできているのですが。私に文才があったら小説が書けるのですけどね。

いつか機会あればと思います。

Commented by ブヒ 2005年10月15日(土)11:11

ア・・・そうか!!
融通のきかないヤツで。。(汗)
・・・了解です〜〜(*^^)v

本質に迫ってきました

富井さんとのディスカッションは、結局、レビ系の祭司制度でのモーセ律法に対して、よりすぐれたメルキゼデク系の祭司制度での律法とは何か、という本質的な論点に来ています。英語では律法もlaw、法則もlawです。

祭司制度の変更によって律法も変わると明確にヘブル書に書いてあるのです。しかもこのレビ系の律法は富井さんの言われる律法主義者の「律法」ではない。純粋なモーセ律法です。

エレミヤ書の新しい契約で心に書かれる律法はモーセ律法であると富井さんは言われたわけです。これは石に書かれたものが心に書かれるわけですから、まあ納得できないこともありません。

しかしヘブル書では祭司制度の変更によって律法も変更されるとあります。では、そのメルキゼデク系の律法とは何か?

富井さんの回答を待ちたいと思います。印象として、富井さんの議論はいのちの次元が忘れられているのですね。しかし契約神学についても学べましたから、収穫はありますね。

 * * *

楽しんでいます、『三国志』。私と漢文の先生で話していたら地理の先生までも興味を持たれ、読み始めました。ちょっとしたブームになっています^^

もう少し遊びましょう

命題「p⇒q」とは、「¬(p∧¬q)」のこと。(「『pであって、かつqでない』ことはない」と読みます。例えば、「雨が降るならば傘を差す」とは「『雨が降っていて傘を差さない』ことない」ですよね。

つまり

「Windowsを使うならばMS-DOSを使っている」

ことを証明するには、

「『Windowsを使いかつMS-DOSを使っていない』ことはない」

ことを示します。

これを否定して矛盾を導く論証を「背理法」と言いますが、

『Windowsを使いかつMS-DOSを使っていない』

ことはあり得ません。そもそもWindowsはMS-DOSのカーネルの上に作られてきたのですから(今のNT系統は別ですよ)。これは事実に反するわけです。

よって証明終わり■

同様に「始めの契約(モーセ律法)」(MS-DOS)は「後の契約(いのちの法則)」(Windows)よりも劣りますが(これはヘブル書の語る事実です)、その原理は神の聖による愛と義に基づくものですから、後者は前者を否定しません(これは同意事項)。むしろ当然に含むわけです。よって上の証明がそのまま適用されるわけですね。

論理学的には・・・

富井さんとのディスカッションはかなりの相違点が露になると同時に、同意点も分かってきました。

相違の一番のポイントは、繰り返しますが、Windows(いのちの御霊の法則)とMS-DOS(モーセ律法)の関係なのですね。

論理学をちょっと弄すれば、

「xがMS-DOSを使う⇒xがWindowsを使う」は偽です。

逆に

「xがWindowsを使う⇒xがMS-DOSを使う」は真です。

同様に

「xがモーセ律法を満たす⇒xはいのち(Zoe)の御霊の法則を満たす」は偽です。

理由:モーセ律法は、そもそもそれを満たす力を持ついのち(Zoe)を与えないから。

この逆は真ですね。つまり、まずそれを行なえるいのちを得ることにより、

「xがいのちの御霊法則を満たす(十分条件)⇒xがモーセ律法を満たす(必要条件)」
 
ですから、私たちが満たせばよい前提条件は、いのちの御霊の法則に従うこと(=御霊に従うこと)で十分なのです。すなわち責任を負うのもこの法則あるいは御霊に対してです。

論理学的には、「モーセ律法を満たすための十分条件はいのちの御霊の法則を満たすこと」です。われわれサイエンティストはこのように論理を用いるものですが・・・。

注:「⇒」は「ならば」の意味で、英語では“imply(含意する)”のこと。

しかしこうやって話し合うのも結構楽しめるのだ・・・実は^^

古典の魅力

三国志。横山光輝の漫画ヴァージョンですが、何と60巻あった!同僚の漢文の先生(中国語もペラペラの方)に聞いたところ、入門用としてはグッドだと。1年くらいは楽しめるかな・・・。これでイメージができたら、吉川英治あたりに、そしてハードボイルドタッチの北方謙三あたりに行こうかと考えている。

漢文は引き締まってカッコイイので高校時代結構好きだった。また漢文の影響を受けた作品を多く残した中島敦の『山月記』も好きだった。

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった・・・

と始まり、虎に身を窶して後、友人に会い、

人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。・・・我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。

と告白する。当時、自分の心を見透かされているようで実に怖かったが、一方でこの文章を声を出して読んでいると、何とも言えない甘美な味わいがあった。そう一種のナルシシズムの世界。

それから10年後主に出会うことができたが、主に出会っていなかったらおそらくこのままを実演していたことであろう。

収穫の秋

BBSの月光仮面さんは、そのHNから察しますところ、結構お歳なんでしょうか。昭和30年以前でしょうか。私は白馬童子はよく覚えていますが、月光仮面はウル覚えなんです。当時は東京は大森に住んでいまして、あの頃の光景がいつくか思い浮かびます。

「人生は短い」とのテーマでして、私などもすでに50一歩手前。そろそろ引退の用意をと考えてもいるわけです。まあ、あまり地上で何かを達成したいとは思っていないのですが、それでも今日のメッセージでも語りましたが、ノーベル賞を辞退してみたいですね^^

極私的にはつねにマイペースで来れたことは感謝です。カミさんにも言われますが、どうも学生気分が抜けなくて、フラフラといまだに浪人生活しているような感じです。家でも大学でもチャペルでもGパンですから。あの中村雅俊の『俺たちの旅』を引きずっているわけ。人からは、よく言えば若いとかあまり生活臭がないとか、悪く言えばガキっぽいとか言われておりますが。

ちなみにあの小泉チルドレンの筆頭頭の元財務省キャリア官僚で舛添氏の元奥様だった方(最近名前がよく飛ぶのだ)。もしかしたらキャンパスですれ違ったことがあるかも、完全に時代が重なっていますから。えらく貫禄があって、舛添氏も彼女の前では何も言えないとか。ところがドン小西氏が彼女のファッションを80年代で時間がストップしていると酷評してました。確かにあのヘアスタイルも、スーツもね。バブル前後です。引きずるのです、ニンゲンは。

しかし霊的には私たちはこの世では寄留者なわけでして、まさに旅路の途中なわけです。あまりここで何かを達成して未練を残すと、その時にレフト・ビハインドとなりかねないわけでして・・・。その辺のバランスが鍵かなと。

イロイロ思い巡らす秋なわけです。

(つぶやき:しかしココへ来てまた体重が戻ってしまいそう・・・)

Commented by エスプリ Eメール 2005年10月14日(金)20:46

トラックバックは、父のブログです(^^)

Commented by Luke 2005年10月15日(土)19:24

拝見しました。いや〜、お達者ですね。うらやましい。ますますの充実を・・・。

MS-DOSへの郷愁

富井さんに対してWindows(いのちの御霊の法則)を持っているのに、何ゆえにMS-DOS(石に書かれた律法)を主張するか問いかけましたが、実際の話(喩えではなく)として、私はMS-DOSに対する愛着はけっこうあるのです。

どこかでも書きましたが、Windowsを始めたのは97年からですから。95年にお祭りのごとくにWindows95が発売になっても、かたくなに真っ黒な画面でやっていたのです!それもクロックが10MのPCで・・・。昔CP/Mをやってた頃は8ビットのZ-80で、メモリ空間はたったの64KB。ですから内部をほとんど把握していたのですね。

しかしWindowsはメモリ空間は膨大で、内部で何が起きているのか分からない。自分でやる主義の私は人の作った仕組みの中でやらされるのが嫌だったわけ。かくして世の流れに後れること2年。頑張ったのでありますが、やっぱりWindowsは便利だ。

それでも、現在なお、Windows版のFDというソフトで、中のファイルをすべて見ながら使っているわけ。皆さんはエクスプローラーでしょうが、これは見えるものが限られるのですね。

こんな次第で、再建主義も心情的にはかなり理解できるわけです。

ちなみにソフトウェア工学はかなり霊的なんですよ。特に最近のオブジェクト指向言語はね。こちらをどうぞ⇒JAVAと信仰