No.4619の記事

パンとサーカス

40分ほどジョッギング。この時期、刺すような冷たい空気が実に爽快。冬桜がチラホラと咲いているのも、またおかし。

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亀田事件などから分かることは、大衆はヒーローを求めると同時に、自己の歪んだ欲求を満足させる犠牲の供え物も求めるということ。それはローマの末期症状であった、「パンとサーカス」と同じ。

いわゆる"国民"が政治屋に求めるのはパンであり、また大衆がネットやテレビなどのメディアで求めるのは、ローマ時代の剣闘士たちの見世物、サーカスである。彼らの特徴は匿名。決して名を名乗っては騒がない。これが当たり前になりつつあり、それに不感症になりつつある今のニッポンはほとんどローマ末期と同じ。

キリスト教界も同じ。一方で派手なパフォーマンスで人々に媚びた"福音"を語り、一方で聞きたくない真理を排除する。この"血"に飢えた大衆の欲求を上手に満たす者が時代に沿う。ニッポンキリスト教はすでに地の塩たるを得ていないまま、"リバイバル"音頭を踊っているが、その命運は明らか。また世も一度神の裁きをくぐる必要があろう。

考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。