■教会(エクレシア)とイスラエルの関係について

      これは実にクリスチャンの間でも論争があるところでして、しかもなぜか感情的な議論が先走る論点です。契約神学では、イスラエルはすでに置き換えられて、その選びも無効とされ、今や教会が神の選びにあるとする、いわゆる「置換神学」を唱えます(注:これはディスペンセイション側の主張で、契約神学はイスラエルとエクレシアは霊的に同一とするようです)。この理論によってかつてのユダヤ人迫害が行なわれたようでして、この「置換神学」は何か諸悪の根源のように扱われるふしもあります。またディスペンセーション神学によれば、神の時代ごとの配剤の中で、元々はイスラエルの選びであったが、彼らが頑なになったことにより、現在は一時的に教会と置き換えられ(「異邦人の時代」と言う)、いずれイスラエルの再興がなされると言います。いずれも教会とイスラエルを同じ平面上に置いているために問題が起きているのです。

      私もディスペンセーションという単語は用いるのですが、いわゆるディペンセーション主義ではありません。私の理解は、「元から神学」と言えるかも知れません。つまり神が元々得たかったのは教会(エクレシア)なのです。この議論をするためには、選びの二面性を知る必要があります。真理にはつねに本質的側面と経綸的(機能的)側面があることを知らないために、しばしば無用な混乱が生じているのです。つまり教会(エクレシア)とイスラエルは存在する平面が異なるのです!

      私が定義する本質的側面とはいのちに関わることであり、経綸的側面とは神の御計画のタイムテーブルの実現に関わることを言います(詳細はこちらとこちらを参照のこと)。人類はアダムの罪により、いのちの木の実を取り損ねて、むしろ善悪の木の実を取り、神から切り離されて、神から独立した歩みに陥りました。神の贖いとは、単に私たちの罪々(sins)を赦すことに留まらず、創世記で遮断されたいのちの木への道を開くために、イエス御自身が道となり、いのちとなることにより、アダムの取り損ねた神のいのちを私たちが獲得することにあります。すなわち贖いとは、私たちをいのちの木によって生きるようにすること、いのちの路線への回復です。このようにキリストは神のいのちを私たちに分かち与える(dispence)ために、いのちを解き放つために十字架で死なれたのです。今や最後のアダムであるキリストはいのちを与える霊です(1コリント15:45)。この意味で私はディスペンセーションという単語を原義的に「分かち与えること」の意味で用いています。

      新約聖書においては教会はキリストの花嫁として描かれ、アダムとエバの結婚はキリストと教会の結婚のタイプです。エバはアダムが眠らされている間に、そのわき腹の傷から取られた骨によって造り上げ(build up;原語)られました(創世記2:22)。同じように神はキリストを眠らせ、そのわき腹の傷から流れた血と水によって、教会を生み出し、現在教会を建て上げて(build up)下さっています(エペソ2:22;5:26,32)。この教会はいずれ完成されて子羊の花嫁なる新エルサレムとして、子羊の結婚が完成します(黙示録21章)。こうして神は御自分のまことの骨の骨、肉の肉なるエバを得るのです。聖書は一組の男女の結婚により始まり、キリストと教会の宇宙的結婚で完成します。

      このように神は全人類をこのいのちの分与(ディスペンス)に与らせ、御自分の花嫁を得ることが元々の目的でした。もしアダムとエバがいのちの木の実を取っていたら、ただちに神の御計画は成就したのです。しかしここから落ちた人類を元の路線に回復するために、善悪の路線上においてアブラハムを召し、ひとつの民族を造り、彼らに神の言葉を委ね、彼らの中からメシアを人類にもたらすために、いわゆるイスラエルを選らばれたのです。また彼らの歴史を通して神から離れた人類の生き様と神の取り扱いのパタンを見せることにより、神と人の正しい霊的関係を説明されたのです。かくして信仰の民はキリストによって神の祝福に与り、嗣業を得ます(ガラテヤ3:14)。

      よってイスラエルの選びはあくまでも経綸的な選びであり、よって彼らはその選びだけでは救われることはありません。彼らもいのちのディスペンセーションに与る必要があるのです。いずれ主の再臨のときに、彼らは自分たちが刺し貫いたメシアを見て、真に悔い改め、いのちの路線へと融合されます(ゼカリヤ12:10)。こうしてすべての人々が救いに与るのです(ローマ11:26,32)。もし経綸的選びにある彼らがみなイエスを受け入れていたならば、経綸的選びがただちに本質的選びとなり、異邦人である私たちは救いに与る機会がなかったでしょう。彼らが頑なにされたのも、神の摂理によるものであり、すべての人を救うためだったのです。アブラハムに対する約束には「あなたの子孫」に受けた部分(経綸的約束)と、「すべての国民」に向けた部分(本質的約束)があります(創世記12:1−3)。そして真のアブラハムの子孫とは信仰による子孫です(ガラテヤ3:7-9;29)。これが神の峻厳さであり、神の知恵です(ローマ11:33)。


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      注意すべき点は、現在においてもイスラエルの経綸的な選びは有効であり、したがって神は目に見える世界の動きを地的イスラエルを中心に導いておられます。が、もっと本質的には、霊的イスラエルである教会が花嫁として整えられることが、主の再臨の鍵です。なぜなら主は熟した花嫁を迎えに地上に戻ってこられるのです!私たちはユダヤ人の働きのゆえに救いに与ることができましたから、彼らに対して負っているものがあります(ローマ11:18)。正当に敬意を払い、彼らの救いのために祈る必要があります。が、一部のクリスチャンたちのように彼らを何か神秘的なものとして扱う必要はありません。教会においてはユダヤ人も異邦人もないからです。すでにいのちの路線に戻った人々にとってはその区別は無意味です。

      十字架の御業が完成した現在、神の目から見て、本質的には、人類はキリストのいのちを得ている民とアダムのいのちを得ている民の二種類だけなのです。経綸的にはユダヤ人と異邦人となります。この二枚の平面における区別を見ないために、「置換神学」に基づく反ユダヤ主義の過ちや、逆にユダヤ人崇拝的運動に陥ることになります。


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