アブラハム

−信仰の父−




1.人物像



アブラハムの名はもともとアブラムであり、「父は高められる」の意です。アブラハムは神によって改名された後の名前ですが、彼が多くの(ハモン)民の父となる約束を神から受けたためです。彼はその父テラと共にカルデヤ人のウルに住んでおりました。この地は当時としては一般的な多神教を奉じる地でした。そのような中において彼は唯一の神を信じていたのです。彼の家族はウルを出て、カナンの地に向かい、ハランまで来てそこに住みつきました。父のテラはその地で死にました。すると神がアブラムに、「その地を出て、わたしが示す地に行け。わたしはあなたを大いなる国民としよう。あなたを祝福する」と約束されました。そして彼は「行き先も知らずに出て行った」のです。神の言葉を直接に聞き、その言葉に絶えず従った彼は、その信仰のゆえにとされ、後に「神のしもべ」、「神の友」と呼ばれ、後世においても「信仰の父」として尊敬されています。彼の誕生はB.C.2166頃、彼がカナンの地に入ったのはB.C.2091頃と推定されています。(異説によると、それぞれB.C.2000とB.C.1925)



2.主要なエピソードとその霊的意義



2.1.イサクの誕生



物 語



アブラムはその異母妹サライ(後にサラ)と結婚しましたが、サラは不妊でした。ところが神はアブラムが75歳の時彼を大いなる国民の父にすると約束されました。しかしアブラムは待てども待てども子供が得られませんでした。そこで妻サライの助言に従って、彼女のエジプト人奴隷ハガイによって子供をつくりました。ところがハガイはアブラムの子供を宿したことによって不妊の女サライを軽蔑する態度を取るようになり、サライはハガルにつらくあたるようになりました。そしてハガルは男子を産み、彼はイシマエルと名づけられ、後にアラブ人の祖先となります。これがアブラムが86歳の時のことでした。彼は神の約束の時を待つことができなかったのです。

そして神はそれから13年間彼に現れませんでした。そしてアブラムが99歳の時再び神が現れ、彼に先の約束を再度確認され、彼の名前をアブラハムと変えられました。彼はこの歳で割礼を受けます。またサライに対しても彼女に男子が生まれることを約束され、その名をサラと変えられました。その時サラは90歳でした。そこでアブラハムとサラは「どうして100歳の夫と90歳の妻に子供ができようか」と心のうちで笑いました。しかし神は「なぜ笑うのか。神にできないことがあろうか」と言われ、約束通り彼らには息子が与えられました。この子の名前はイサク(彼は笑う)とつけられました。彼らが待ちに待った子供の誕生でした。


霊的意義


アブラムには「大いなる国民の父とされる」という神の約束の言葉(契約)がありました。しかし来る日も来る日も彼とサライには子供ができなかったのです。このような状況にある時の誘惑は、神の約束を自分自身の知恵とか能力で実現しようとすることです。私たちは神からの約束を得ても、なかなか神のタイミングを待つことができないのです。そこで生まれたのがイシマエルでした。すなわち彼はアブラムとサライの人間的知恵と能力によってもたらされた存在でした(注)。このような人間的働きを「」と呼びます。そしてしばしば「肉」がもたらすものは私たちにとって困難を引き起こします。事実イシマエルはアラブ人の祖先となり、現代においても、本妻の子イサクの子孫であるユダヤ人と妾の子イシマエルの子孫であるアラブ人の間には、パレスチナにおいてまさに骨肉の争いが展開しているわけです。
(注)ここで神はハガルとイシマエルを顧みてくださいます。神はこのような存在に対しても心をかけて下さる慈しみに満ちたお方なのです。

しかしながら真の神の業はそういった人間的な能力がなくなった場面において如何なくなされます。アブラハムは99歳で割礼を受けますが、これは彼の肉の力が尽きたことを示します。かくして神はアブラハムが100歳、サラも90歳のとき、神は彼らに息子を与えると言われたのです。何と言うナンセンスでしょう!しかし人にはできなくても神にはできます。このようにして得られる実は「御霊の実」と呼ばれ、私たちにとっての真の祝福となります。人間的に見て絶望的状況においてこそ、肉が切り取られ、神の業は明確に証されるのです!

そしてパウロはガラテヤ書において、奴隷女ハガルはシナイ山を意味し、それは律法による奴隷状態にある様の比喩であり、自由の女サラは天のエルサレムを意味し、恵みによる自由人の生き方の様の比喩であると新約の光の中で解き明かしています(ガラテヤ4章)。律法を守ろうとすれば、私たちの肉を刺激するだけであり、その結果は律法の奴隷となることです。しかし信仰によって御霊の力に頼って生きるならば、それは恵みのうちに生きることであり、キリストが十字架で勝ち取ってくださった自由の中に生きることを意味するのです(→「律法と恵みについて」)。



2.2.イサクの奉献


物 語

イサクが少年になったある日のこと、神はアブラハムに向かって、「あなたの息子イサクをモリヤの山で全焼の供え物として捧げなさい」と命じられました。なんと言う過酷な要求でしょう。しかしアブラハムはその言葉通りに息子を連れ、モリヤの山で彼を薪の上に寝かせ、ナイフを息子の上に振り下ろそうとしたその瞬間、神は彼に、「彼に手を伸ばすな。彼に何もしてはならない。いま、あなたが本当に神を恐れる者であることが分かった。あなたは一人子さえも惜しまなかった」と言われ、イサクの代わりに仔羊を犠牲の供え物としてアブラハムに与えられたのです。こうしてアブラハムはイサクを再び得ることができました。そしてこのイサクからヤコブが、ヤコブからいわゆるユダヤ人の12部族の祖先が生まれ、この中のユダ族からダビデが、そのダビデの子孫としてイエスが生まれたのです。このようにしてアブラハムは確かに神の約束通り大いなる国民の父となったのです。


霊的意義

神はこのようにして得られた唯一の息子を犠牲の供え物として捧げることをアブラハムに要求します。これは一見過酷に見え、神は残酷なことをなさると思えるかもしれませんが、実はこれは神のテストであって、それはさらなる祝福へとアブラハムを導くためなのです。神は決して気まぐれに私たちを試みることなどはなさいません。そして興味深いことにこのときアブラハムは不思議な言葉を残しております:すなわちモリヤの山へ登る前において「私と私の子供はあそこへ行き、礼拝をして、あなたがたのところへ戻ってくる」と(創世記22:5)。これから子供を犠牲として捧げるべき時に、「私たちは戻ってくる」と宣言しております。これがアブラハムの信仰の表明でした。彼は神が自分を大いなる国民の父とすると言われた以上、自分の正当な子供であるイサクを神に捧げても、神は必ずイサクを返してくださると信じていたのです!アブラハムはイサクの復活を信じていたのです。

またここでアブラハムが問われたことは、神御自身を愛するのか、それとも神が下さった賜物を愛するのか、です!私たちが所有しているすべては神が下さったものです。なぜならそもそも私たちの命自体が神の与えて下さったものだからです。私たちはしばしば「与え主」をないがしろにして、「与えられたもの」をより愛してしまうのです。そして実はそれは自己を愛することに等しいのです。自分の愛着を感じるものを愛することは自己を愛することに他なりません。ここで十字架が働きます。十字架の機能は「自己の否定」と「自己の死」でした。アブラハムは試されました。そして彼はその信仰の故にそのテストに合格したのです。

私たちは神からの約束を得ます。その実現を待ちます。その間自分で実現させたいとする誘惑を受けます。ついに自分ではまったく不可能となる瞬間に神の業がなされ、ついに願っていたものが与えられます。そして次に問題となるのが、その賜物自体を神自身よりも愛してしまうことです。ここで私たちの十字架が働くのです。十字架は自己の死をもたらします。私たちと神との関係を妨げる要素はすべて焼き尽くされる必要があります。一見過酷です。しかし感謝すべきことに、神は復活の領域において再びその失ったものを恵み豊かに返して下さるのです!しかもそれは以前のようにではなく、はるかに素晴らしい祝福を伴って、神の栄光を帯びる形で戻ってくるのです!これは例えばヨブの物語を見ても明らかです。



3.神の全計画における意義



神は罪に堕した人類を贖うご計画をお持ちでした。そのご計画を実行するお方イエスをこの地上と人類の歴史にもたらすために、一つの国民を選ばれました。これがいわゆるユダヤ人でした。その国民の歴史を通して旧約聖書を準備され、新約においてはその血統の中から救い主イエスを地上へとつかわされました。そしてこの国民は「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの子孫なのです。アブラハムの時代にはまだ律法はなく、したがって神によって義とされるのは律法を守ることによらないことが分かります。彼は神の言葉を「信じた、それが彼の義とみなされた」のです。

そして神は彼を大いなる国民するという約束をされました。これがアブラハムと神の間の契約だったのです。アブラハムの側には信仰が要求され、神の真実がその契約関係において証しされました。そしてこのアブラハムは旧約において肉的にユダヤ人の父であるばかりでなく、新約にあっては霊的に信じる者すべての父でもあるのです。彼が「大いなる国民の父となる」という約束は霊的にも有効であって、確かに信じる者すべての「信仰の父」であるのです。神は彼を祝福し、彼の肉的および霊的な子孫を彼にあって祝福して下さるのです。現在クリスチャンが神の祝福に与れるのはまさにこのアブラハムと神との契約の故であるのです。


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