肉について



( flesh) 」という用語は主にパウロの文書によく見られるものですが、その意味はいろいろに使われています。あるときは単に物理的肉体を意味しますが、実際の信仰生活をする上で重要なのは、「 」と対立する使い方をしている場合です。

例えば「肉に従って歩む」とか、「御霊によって肉の働きを殺す」とか、「肉の行いは明白であって、不品行、汚れ・・・」と言った場合です。このようなケースの時、間違えてはならないのは、私たちの物理的肉体そのものを差しているのではないことです。肉体そのものは中立的なものであって、ある時は罪の奴隷として差し出すこともできますし、ある時は義の武器として差し出すこともできます。それは私たちの意志によります。肉体そのものが汚れているとか、腐敗しているという思想はもともとグノーシス思想に由来します (注)
(注)このような思想によって、イエスは卑しい肉体を持っていない単なる霊的存在であるとする異端「キリスト仮現論」が生まれました。ヨハネはこれに対して明確にイエスの受肉を主張しています。

ではこのような場合の「 」とは何を意味するのでしょうか?例えば卑近な例として、次のような状況を考えてみてください。自分の銀行の残高がごく僅かになった時、あなたはどうしますか?おそらくその事実によって不安を覚えたり、恐れを覚えて、何とかしなくてはと考えるでしょう。そして取り得る通常の方法は二つしかありません。

一つは収入を増やす努力をすること、二つめは出費を抑えること。このようにある事実に直面した場合、私たちは過去の自分の経験や知識に基づいて、ある種の情緒的反応を示したり、また知的レベルではその事実をアセスメントし、その中で取り得る最善の方法を選択し、そしてそれを実行に移します。これは自分が生きてきたこれまでの 神なし の経験から学んだ方法であって、心理学的には 「条件づけされた情緒反応あるいは行動パターン」 と言えます。

すなわち私たちの肉体の一部である大脳には、ある種の神経細胞のネットワークあるいは電流の流れるパターンが組まれているのです。これらはすべて神を知る 以前に 刷り込まれた情緒反応あるいは判断と行動のパターンです (注) 。これは魂には独立独歩する性向があり、魂が神の御霊を拒んで独立して機能するとき、これも肉を構成します。善悪知識の木の実を取って食べたことにより、神の御霊の干渉を受けることも拒むほどに、人類は魂を肥大化しました。この神から離れた魂のあり方がまさにパウロの言う「 」に他なりません。

ここで注意すべきは「 古い自己 」と「 」は違うということです。「 古い自己 」は旧創造に属するアダムの性質を継承した存在であって、それはすでにイエスとともに歴史的事実として1回限り十字架に付けられています(ローマ6:6)。しかし「 」とは私たちの物理的肉体の一部である大脳に刷り込まれたパターンなのです。これは日々 私たち が自ら十字架によって対処する必要があります(→「 罪とは? 」)。

(注)現代脳科学では、精神現象を神経細胞(ニューロン)のネットワークにおける電気的活動パターンと、シナプスにおける化学伝達物質の分布濃度で説明していますが、それは精神現象の物理化学的側面であって、魂の機能自体ではありません。すなわち大脳はいわばコンピューターのハードであり、魂(思い、意志、感情)はそのハードの上に走るソフトなのです。精神現象は決して物理化学的現象のみに還元することはできません。いわゆる「脳死」の問題も、このような観点から論じないと、きわめて危険な事態に立ち至ります。クリスチャンの場合、 「新しい人」という「新しいソフト」を得たのですが、ハード(大脳)の部分に古い「条件付け」の名残があるために、その「新しいソフト」が十分に機能できないのです。この「新しい人」はすでに完全ですが、私たちの肉体を通して、その完全性が十分に現れないわけです。 このギャップがクリスチャンにとっての諸々の悩み、あるいは葛藤の種になるのです。そしてこのギャップを埋めて下さるのが 神の恵み なのです。(⇒人間の聖書的啓示と現代精神科学

ただしここで注意すべき点は、私たちは具体的場面において、日々というより時々刻々「肉」を処置する必要があるのですが、決して「肉」と 戦う べきではないのです。「肉」と戦えば、ますます「肉」は生きてきて、あるいは意識されて、葛藤を深めるでしょう。私たちと「肉」の関係について、聖書は 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざな情欲や欲望と共に、十字架につけてしまった(完了形)」(ガラテヤ5:24) と言っています。すなわち、キリストを受け入れた時、 あなた はすでにあなたの「肉」を十字架に つけてしまった のです(完了形)!

   

あなたにはその実感が無いかもしれませんが、聖書はそう言っています。ですから実はここでも、まずそのことを 信仰によって信じること がポイントです。するとその時、「肉」は御霊によりただちに沈静化されるでしょう(ガラテヤ5:17、ここはロマ書7章の葛藤とは違う。邦訳が悪いのだが、「自分のしたいこと(肉のわざ)が御霊によりできなくなる」の意味。)。

さて、先の例のような場合、 真理 であるイエスはこのような場合何と言っているでしょうか?聖書には「神はあなたがたのあらゆる必要をキリスト・イエスにあってご自身の栄光の富に従って満たしてくださる」とあります。銀行の残金が少なかったり、あるいはほとんどない、といった 事実 に直面した時、あなたははたしてこの御言葉によって「ああ、よかった。神が満たして下さる」と言って安堵できるでしょうか?それとも先の行動パターンへと急かされるでしょうか?

神の言葉と事実が対立した時、どちらに重きを置いているでしょうか?もしこの神の言葉・約束に安息することができるのであれば、それは 信仰 による歩み、すなわち 御霊 による歩みをしていることになります。もし焦って自分の努力へと急かされるのであれば、それは不信仰による歩み、すなわち肉による歩みをしていることになります。あなたはあまり神の言葉を信頼できないから、つい自分で対処する誘惑に駆られてしまうわけです。そしてこれは神を知らない時代に経験的に刷り込まれた情緒反応パターンであり、行動パターンなのです。 「肉」とは神を排除した自己の経験において刷り込まれた自己の情緒反応あるいは行動パターンです。 それはたいていの場合、不安、恐れ、焦り、もがきなどのどちらかと言うと消極的色彩を帯びています。

信仰あるいは御霊による歩みとは神への信頼であって、それはすなわち神の言葉への積極的応答です。 「銀行口座に金がない」のは 事実 です。「私たちの必要はすべてキリストにあって満たされる」というのは神の言葉、すなわち 真理 です。 事実と真理は違います。 この言葉に信仰によって応じるとき私たちはすべてを神に委ね、安息し、平安を享受しつつ、感謝と賛美をもって事実が御言葉(真理)通りになっていくのを見ることができます。事実は真理に譲るのです!

あなたはどちらに従いますか?どちらを選択しますか?焦って自分で対処しますか、それとも神の言葉・約束に安息しますか?肉に従って行動しますか、それとも御霊に従って行動しますか?もし自己の経験を信じるのであればあなたは自己努力に邁進するでしょう。もし本当に神の言葉を信じるのであればあなたはただちに自分の業を止めて安息に入ります。どちらを選択しますか。

いったん刷り込まれた情緒パターンあるいは行動パターンはなかなかぬけません。そこで私たちは日々神の言葉に触れ、 思い (mind) を新たにされることにより」(ローマ12:2;英訳)、すでに得ているキリストにある「新しい私」の新しい情緒パターンや行動パターンを刷り込んでいただくように、聖霊によって働いていただく必要があるのです。 これが私たちの内面(魂)の造り替え、あるいは 聖化 のプロセスです(メタモルフォーシス=昆虫の変態です)。 いつの日か私たちもキリストと同じ条件づけを得て、キリストと同じ内的性質を帯び、彼と同様の情緒反応や行動パターンを得るでしょう。 聖書ではこのことを私たちの内に キリストが形造られる と表現しています(ガラテヤ4:19)。

(C)唐沢治

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