■自己を否むことについて

      主イエスは言われました、「誰でも私に従って来たい者は、自分の魂(注)を否んで、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と。

      (注)ここはよく「自分の命」と訳されていますが、原語ではあくまでも"psyche"、すなわち「魂」です(→「人間とは?」参照)。

      ここで主が言われた「自分の魂を否む」、「自分の十字架を負う」とはどういうことでしょうか。これらの表現をよく文学的に解釈して、しばしばクリスチャンは葛藤に陥ることがあります。「自己を否む」には、何か禁欲的な難行苦行をするイメージがあり、「十字架を負う」については何か宿命的な重荷や運命を負って、それに忍受するイメージがありますが、はたしてそうなのでしょうか?

      主は別の所では、「重荷を負って労苦している者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われました。これらの関係はどうなっているのでしょうか?

      この世では、例えばオリンピック選手などが、来るべき試合において勝つために、通常の人々が楽しんでいる事柄を一切控えて、自分の肉体を極限まで追い詰めて技を磨き、その自己練磨の実として、オリンピックで金メダルを取ります。その過程にはある種の感動を覚えることも事実です。ではこれは主イエスが言われた「自己を否む」ことなのでしょうか?もしこれがそうであったならば、わたしなどはとっくにクリスチャンを廃業せざるを得ないでしょう。そのような鍛錬を積むことができるのは、ある一部の人々だけです。

      しかし感謝なことに、これは主の意図されたことではないのです。むしろ逆です。なぜなら、それはすべて自己に栄光を帰することだからです。彼らは人並み外れた摂生・禁欲と鍛錬によって、確かに自己の何かを捨てたかもしれませんが、しかしそれはあくまでも自己に栄光を帰するためなのです。彼らはイエスの言われる意味では自己を否んでいないのです。

      すなわち、「自己(の魂)を否む」とは、御霊から独立した魂由来の動機、目的、能力、知識、知恵、才能、方法などを一旦捨てることです。ウォッチマン・ニーはこの点についてきわめて繊細な感受性と識別力を有しておりました。彼の著書"The Spiritual Man"にそって説明します:人は創造された時、チリから体を構成され、神が命の息(霊)を吹き込むこと、生きた魂になったとあります(創世記2:7;直訳、→「人間とは?」)。すなわち物理的な構造体である体の中に神の霊が吹き込まれた時、体と霊の相互作用によって、魂が誕生したのです。魂は思い、意志、感情からなり、自己の存在の中核です。魂はパーソナリティーの座であるのです。

      アダムとエバが罪を犯す以前は、この魂の機能は正当な形で制限されており、彼らは自ら判断する能力も持たず、自らが裸であることも意識せず、ただ神との交わりにあって無垢の状態で生きていたのです。当然自己の存在の保証を神によっていました。自己にまつわるあらゆる事をただ神に信頼し任せていたのです。ところが罪の結果、彼らの霊は死んで、自意識に目覚め、自分の裸を知り、自分の取り繕いによって、神から逃れました。そして神から分離された結果、自己の生存の保証を自ら担保しなくてはならなくなったのです(→「堕落とは?」)。

      そのために彼らは自分の魂の能力を開発・啓発しました。これは私たちが自分を見ればすぐに納得できることです。例えばお金がなくなりそうな時,あなたは知恵を絞って一生懸命対策を練るでしょう。これが魂の働きです。この自分の魂の能力を開発・啓発することがいわゆるこの世の教育とか自己発見と呼ばれるものです。人は自分が幸福になるために、この世でできる限りの良いポジションを得るために、あらゆる算段を尽くして、自己の魂を発達させます。しかし、しばしばその行きつく先がノイローゼとか、鬱病であることは、最近の多くのニュースが証明しています。魂は必ず疲弊するのです(→「『肉』について」)。

      魂由来の何かは必ず動機を自己に置いていますから、いわば意識のベクトルの先が内向きなのです。自分の動機、自分の目的、自分の判断、自分の能力、自分の方法、そして自分の栄光、これが魂の行うプロセスです。イエスが言われた「自己(の魂)を否む」とはまさにこれらの自己の魂由来の成分を否むことに他なりません。

      魂由来の動機に代わって御霊由来の動機、魂由来の目的に代わって御霊由来の目的、魂由来の判断に代わって御霊由来の判断、魂由来の能力に代わって御霊由来の能力、魂由来の方法に代わって御霊由来の方法、そして自分の栄光ではなく神の栄光、これが自己を否むプロセスです。意識のベクトルは自己から離れて神の方向を向きます。私たちのあらゆる生の動力の源泉を、魂から霊に切り変えることです!(注)すると聖霊のコントロールの下で、私たちの思い、意志、感情を用いていただけるのです。

      (注)ここの魂には、特に罪的要素は入っておりません。魂自体は正当な機能であって、それ自体を無効にすることはできません。それは単純に力の源泉の問題です。そこでウォッチマン・ニーはいわゆる堕落後の魂主体の人のあり方を「魂的」を"soulish"、神の意図された元々の魂の機能としての「魂的」を"soulical"という単語で区別しています。

      このとき、私たちはむしろ魂のもがきから解放されて、イエスの言われた魂の安息に入れるのです。御霊の支配下に置かれた魂は錨の降ろされた船のように安定します。それは真の魂の安息です。これが「イエスのくびきを負う」ことです。そしてそのためには、十字架による「自己の死」を経る必要があります。


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