* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
についての論考が『文藝春秋』新年号に掲載されていた。その中で、ソニーの凋落を招いた原因として「フロー」の喪失があると言う。「フロー」とはアメリカの心理学者チクセントミハイ氏が唱えた用語で、無我夢中で何かに取り組んでいるときの精神状態と言う。技術者たちがこの「フロー」の状態に入ると「燃える集団」が構成され、創造的仕事もなされる。そのためには「内発的動機に基づいて行動すること」が必要で、それは報酬や評価を得たいと言う「外的動機」によらない。そのような条件を企業は醸す必要があるという。
何だ、これは没我の状態にして「流れる心」であり、先に書いた自分を注ぎ出ている状態である(→意識の扱い方およびいのちの内発的発露)。日本ではすでに剣の達人柳生但馬が言っている、「心の病とは心が何かにとどまること」と。フローはこの逆であり、禅やいわゆる「道」が求めた「無心」あるいは「忘我」の状態である。前にも書いたが、道元はこう言っている
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
また道元の『正法眼蔵生死』のキリストヴァージョンはこちらを・・・。いずれも今のニッポンがアメリカの長期戦略の中で喪失したもの。すでに日本にはある(った)のだ。
かくしてソニーの凋落もまさに先に述べた精神エネルギーの滞留と空転によるのであり、現代ニッポンの病理のまたひとつの大きな兆候である。
先に粘着の精神病理について少々触れたが、私も最近では当事者として、ややネットストーキングを受けているようですので、もう少し論じてみたいと思います。
例の「CT対山谷さんのスレ」で次のようなカキコをいただいております。あまり気味の良いものではありませんが、興味深いのでご紹介しましょう。
699 :暇人:2006/12/15(金) 21:24:18 ID:TdQiqrF6
>>684
挑発するなら唐沢さんがよい 穴だらけ しかも単立。
山谷さんは、季語になるほど認知されている伝統コスプレ教派よ
しかも本人は水準クリアの英才。周囲からも期待されている。
ちと穴がないので 感情的に中傷しても 誰も相手にせんよ
唐沢さんはマンガにできるキャラだから お薦め
何ゆえに私にこれほどに関心をお持ちくださるのは不明ですが、私の言動の「何か」がこの方の「ある部分」に触れ、彼の肉の疼きを惹起してしまったようですね。
こういった場合、ある種の共通する要素を持っていることが多いのです。いわゆる牧師先生が大学教師の私に粘着することはまずありません。私は真っ赤な偽牧師ですし、別に神学の専門家でもありません。業界を異にするからです。まあ、ヨハネ文書がグノーシスを相手にしている位はかろうじて知ってはおりますが。多分この方はアカデミズム関係かその周辺業界の人でありましょう。私よりも年長の方でしょうか?一般社会常識もあり、聖書と神学の知識も持たれ、文章も書かれ、ギリシャ語などの語学にも長け、それなりにアカデミックな訓練も受けておられるようです。彼の意図は私が挑発に乗ればイジル対象として絶好のカモとなるわけですし、乗らないで冷静を装えば私がカルト思考ができるからだとなるわけで、どっちにしても彼の思惑通りなわけです。頭のよろしい方なのでしょう。「2ちゃんねる」でもとぼけた味を醸しつつ、実に冷静に仕切っておられるようです。
で、私的に興味が湧くのが、このようなお顔とは裏腹に立派な社会的立場とご家庭も持たれ、奥様とお子様もいっらしゃるであろうし、どのようなお顔でご家族に対しておられるのかとか、想像が膨らむわけですね。一方で「2ちゃんねる」に打ち込みつつ。つまり私の「穴」と「カルト性」をご指摘されるほどの資質をお持ちの方が、何ゆえに「2ちゃんねる」なる場に潜っておられるのか、と言う点ですね。その教養と才能を堂々と学界やキリスト教界に問われればよろしいかと愚考するわけです。それこそ社会とキリスト教界の大いなる損失ではないでしょうか?それが「2ちゃんねる」なぞの匿名の闇で他人を中傷し、またお仲間を貶めているのは何ゆえ?と思うわけなのです。いや、すでに立派な業績をお持ちで、手慰みで時間をつぶしておられるのかも知れません。それも早朝から深夜まで・・・。
ここに現代のニッポンの病理、すなわち自己の病理を診ることができるわけです。先に紹介した「自分以外は馬鹿」とする若者の増加、仮想的全能感で仮想的満足に陥る若者―これらはナルシシズムのひとつの形ですが―・・・ばかりではなくオジサンが増えているわけですが、この根底にあるのは行き所を喪失した精神エネルギーの空転現象です。『武士の一分』にしても、先週の『硫黄島からの手紙』にしても、死を決意して自分を「何か」のために注ぎ出すことがテーマなのですが、これが今のニッポンには喪失しているわけ。真の充実感と満足感は自分を忘れて、自分を注ぎ出すことにあるわけです。それが学問であれ、仕事であれ、家族であれ、恋人であれ、キリストであれ、ポイントは自己を離れることにあります。
しかし「2ちゃんねる」あたりの面々の生態を診ていると、根底に何か解消されていない葛藤、あるいは消し去り得ない挫折感、それに伴う絶望的空虚感を感知するのですね。かくして自己の中に閉じ篭り、満たされない感覚を屈折した形で延々とネット相手にぶつけ、ぶつけるほどにフラストレーションだけが昂じて、それを自分でも持て余している感じ。実は鏡に向かったサルを演じているのです。だから自分でも「所詮は2ちゃんよ」と、自分がいかに虚しいことをしているかと、心のどこかでは分かっているのです。根底にある自虐的攻撃性を他者に投影しているわけです。まさにニートやフリータ、さらに引き篭もりが400万と推計される現代のニッポンの病理の象徴と言えるわけです。それは膨大なエネルギーの不毛な空転現象。
もっとも虚しい生き方は自己のために生きること。対して真の充実感と満足感を味わえるのは自分を「何か」に注ぎ出すこと。もちろんその「何か」が何なのかが大切なわけですが。私たちにとってその命をかける「何か」とはキリストなわけですが、これとても立派なカルト思考なのでありましょう。「何、マジレスしてんの?」と・・・。やはり山田洋二は時代を描く名監督ですね。
→温泉までT-12Days
午前はいつもどおりプールとサウナ。午後は映画―山田洋二監督、木村拓
郎哉主演の『武士の一分』。
時は太平の世、田舎の30石扶持の下級武士にして毒見役の三村が日々の無意味なお勤めで人生の空転に飽き飽きしている。つまらない会話で時間をつぶしつつ、来る日も来る日も毒見を続けるが、ある日、不運にも赤粒貝が当たって失明する。最愛の妻が上司に身を売って30石を守るも、夫にばれる。彼は妻を離縁し復讐を誓う。実際は上司の口利きによらなかったことが分かると、果し合いを申し込む。かくして盲目侍が「武士の一分」のために命をかける。彼の師の言葉、「共に死するをもって真となす。必死、是即ち生きるなり」と。かくしてその太刀裁きは相手の腕を切り落とす。そして分かれたふたりは・・・。
と言うわけで、スジは単純であるが、小生的にはかなり好きなプロット。『葉隠れ』にいわく、「武士道とは死ぬことと見つけたり」に通じるものがある。今日閉塞したこの世と教界において、膨大なるエネルギーの空転が起きているが、まさに幕末の空気と同じ。木村拓哉が扮する下級侍が「武士の一分」に目覚め、命をかける時の変貌振りがなかなか。抑えた演技がけっこう光った。しかもその卑劣な上司にとどめを刺すことなくサラッと去るわけだが、実際この手合いにはとどめは不要。自ら滅する。
一見時代劇だが、現代をするどく描き出しているいぶし銀的に光る一作。サラッとカタルシスを味わいたい方にお薦めです。
アメリカの一部に組み込まれそうですね。以前から言っているとおり、日本はアメリカに、政治的去勢、軍事的去勢、そして経済的去勢をされたわけですが、娯楽もそうかな。日本球界はアメリカへの人材バンクとなりそうな予感。
しかしマツザカの台詞はカッコよかった:
ぼくは夢と言う言葉は好きではない。夢は見ることはできても実現するものではないから。ぼくは子供の頃から信じてきたから、今ココにいる。
と。
さあ、教育基本法改正悪と防衛庁の省への格上げで、ニッポン丸の行くえは・・・?
かつてのわが同僚だった副島氏が自分の人生を語っています(→副島隆彦の学問道場)。中々面白い。80年-90年代を共有していますので、共感できる部分もかなりありますね。一度人生を降りたとか・・・。キリスト教についても同感できます。ある面で頭が良すぎるのです。だから見えてしまう。するとすべてがバカらしくなる。だいたい予備校の先生をやっている人種はこのような価値観の人が多いのです。私もクリスチャンにならなかったら、副島氏と同じ生き方をしたでしょうね。新宿での浮浪者生活もある面で憧れますし、だから横浜の寿町なんて、私にとってはかなりフィットするわけで・・・。おっちゃんたち、元気かなぁ・・・。
→温泉までT-13Days
NHKで「日本のこれから」と言うプログラムがあったが、その中で「2ちゃんねる」のひろゆき氏なども登場していた。そこで「2ちゃんねる」で被害を受けた声優落合祐里香氏が批判的発言をしたのだが、彼女に対して殺人予告がなされているようだ。
前にエンロン社の悪辣振りを描いた映画で、人間がいかに卑しくかつ邪悪なものとなり得るかの心理学実験を紹介したが、それを地で行っている。われわれにとってはある種の実験的現象として興味深い現象なのだが、ここまで来るとは・・・。
クリスチャン・トゥデイがらみで山谷さんはいぜんとして叩かれているようだが、この「2ちゃんねる」なる場にいると、正常と倒錯の境界を喪失するようだ。現在ノロウイルスも蔓延しているが、ここでも「ひろゆき」なる人物の病理性がミームによって感染し、フォリア・ア・ドゥ、フォリ・ア・トロア・・・と拡散するのだ。病んでいる人には格好の自己表現の舞台であろうが、神の御手の介入を祈る。時が至るならば、その御手の業はすばやい。
心ある人はこちらをバックアップしてあげて下さい。
・2ちゃんねるから子供たちを守ろう!
テレビで交差点の交通事故をレポートしていたが、その中で女の子が、「あそこで友だちにバイバイって言ったら、それがほんとのバイバイになっちゃたの。もうこんな悲しいのは嫌だから、起こして欲しくない」とインタビューに答えていた。何だか泣けてしまいましたね。「ほんとのバイバイ」はせつないです。最近やたらと涙腺がゆるい・・・か。
今、講義が終わったところであります。本日の一冊は、映画『硫黄島からの手紙』で興味を持ちました栗林忠道氏に関する本。『栗林忠道-硫黄島の死闘を指揮した名将』(PHP文庫)。
明らかに無意味とも見える絶望的な戦闘の指揮を取らざるを得なくなった同氏の言動をリアルタッチで描く。著者自身も傭兵として戦場をくぐった経験があるだけに、その描写がリアル。元々は別のエリートが赴任する予定だったが、そのエリートは体よく逃げたのだった。何のために・・・。それはただ本土への爆撃をできるだけ遅らせるため。アメリカ生活も経験している栗林にとっては、硫黄島派遣の意味は明らか。その中でアメリカ人の思考に沿って布陣を引き、作戦を立てる。かくして5日で終わるだろうと言う戦いが36日にも及び、米軍の死傷者数25,000。老練な米国指揮官のスミス氏を震撼たらしめた。最後は自ら敵陣地に突撃して果てる。
虚しいと言えば、まったく虚しい。が、彼らは「何か」に自分を注ぎ出した。天皇、それとも家族のため?こういう状況に追い込まれてなお精神の正常さを保つには、「何か」にかけるしかない。私はけっこう大石内蔵助や栗林忠道みたいな人物の生き方、というよりは死に方には心惹かれる。自分を「何か」のために注ぎ出し、捨てること。それはまったく愚かである。が、私はその愚かさに憧れる。ウォッチマン・ニーの最後にも通じるものである。もちろんこのような証しを立て得るのは格別の祝福があるからなのだが。
一人で買い物に出かけた少女がトラックに轢かれて死亡、ひき逃げされた事故の公訴時効が本日0時に成立した(→記事)。私も親として、ビデオ映像を見ているとたまらない気持ちになる。これで法的な責任は免れたのだが、果たしてこの犯人は、今、どんな気持ちなのだろうか?このような場合、割とまじめで気の小さい人であることが多いのだが、この人はどのような内的生活をしているのだろうか?きわめて関心がある。
BGMをJarrod Cooperの曲にしました。かなり今までとインプレッションが違うと思います。彼の曲は音楽的にもかなりハイセンスでエクセレントです^^
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長女の就活がようやく終わり。後は国試だけ。紆余曲折アップダウンもありましたが、ベストの処に決まりました。主は常に最善を与えて下さいますね。私的にはこれでひとつ責務が降ろせたわけですが、裏を返すと老後にまた一歩近づいたわけで・・・。テレビで「まだお母さんと呼んでいいかな?」と言うCMがありますが、その領域につま先が入りましたね。
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皆様から捧げ物をいただいております。個別にお礼を申し上げずに恐縮でありますが、主にあって深く感謝申し上げます。
→温泉までT-16Days
イエスの元に資産持ちの若者が来て言った。
「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
この時イエスはどのような気持ちでこの若者の背中を見つめていたことだろうか。この若者の悲しみは自己憐憫に過ぎないが、イエスの悲しみは愛による。
私たちもしばしば同じである。主の新しい招きに対して、私たちの思いは訴える、「まだ求められるのだろうか。自分はもう十分やっている。そんなことできるだろうか。いや、自分には無理だ。これ以上要求されるならば、もうついて行けない・・・」と。新しいチャレンジがあるごとに、その人の心が露にされるのだ。何を信じ、何に頼っているかが・・・。知的な者は理屈で自分を正当化するだろう。感情の人は怒り出すだろう。あるいは落ち込むかも知れない。いずれにせよ、自分において富んだ者は去っていく。しかし貧しい者はますます自分の無力を告白し、主のみに頼り、主の真実を味わう機会とするだろう。私も去っていく人を一切引き止めることはしない。
今日のメッセージは英国のコリン・アーカートのメッセージの同時通訳でした。現在神の建てられる宮とはエルサレムにある石の神殿ではなく、使徒と預言者の土台の上に置かれた霊の神殿、つまり生ける石として神の住まいのために組み合わされた私たちであることを説いています。かくしていわゆる国家としてのイスラエルに入れ込む教えは誤りであることを指摘し、「イスラエルのために祈れ」とは、まさにそこに現れたキリストの体なる兄弟姉妹、つまり生ける神の神殿のために祈ることを語っています。
ですからDr.Lukeもついにイスラエル・フリークになったと誤解されないように、ここで予防注射を打っておきます。人は自分の心の歪みに従って、人の言葉を理解する傾向がありますから。地的イスラエル(経綸的選びの民)と天的イスラエル(エクレシア=教会:本質的選びの民)についてはこちらをご参照いただきたい。
このメッセージの最も本質的ポイントは、自分が神の家における祭司であることの自覚を得ること。単に自分の祝福や問題解決や励ましを求めて集会するのであれば、これは本末転倒。そこにある中心は自己。そういったメッセージをして下さる先生はこの業界にいくらでもいる。私たちは神に仕え、祭司として自分を裂いて犠牲の供え物を捧げているかどうか、まことの霊の奉仕に与っているどうかが問われるわけ。と言うわけで、また厳しいことを語り、チャレンジを置きましたから、出席者が減るかも知れません(笑)
私は真っ赤な偽牧師であり、キリスト教ビジネスに携わる者ではありません。来年はもしかするとKFCは店仕舞いということもあるわけで、それはひとえに私たちが自分を裂いて、神の召しに応じることができるかどうかにかかっているのです。そろそろ忠臣蔵の時期でありますが、昼行灯と揶揄された大石内蔵助も当初300人いた家臣たちを、志のない者はあえて去らせ、絞り込んでついに四十七士としたわけ。ギデオンの物語にも通じる逸話であり、烏合の衆では大事はならない。KFCではもしかすると一人もいなくなるかも知れませんが・・・汗。
かくして来年のスローガンは「自分を注ぎ出す」こと。どこまで主の召しに応えることができるでありましょうか?メッセージ冒頭でも触れたウォッチマン・ニーの黙想のための言葉を紹介しておきます。
ガリラヤの少年が主の元にパンを持ってきたとき、イエスはそれをどうされたでしょうか?主はそれを裂かれたのです。神はご自身に捧げられるものをすべて裂かれるお方です。神は得られたものを裂かれ、それを祝福され、人々の必要を満たすためにそれを用いられるのです。あなたの経験や私の経験もそうではなかったでしょうか?あなたは自分を主に捧げます。するとすべての事柄が悪い方向へと向かい、あなたは主の方法に何か誤りがあると考える誘惑に駆られたことでしょう。そのような頑なな態度は砕かれる必要があるのです。
そう、それは真理ですが、何のためでしょうか?それはあなたがこの世へとあまりにも向かい過ぎているので、主へと十分に向かっていないためなのです。これが多くのクリスチャンにとっての悲劇です。私たちは神に用いられることを願うことでしょう。であるならば、毎日毎日、自分自身を主にお捧げすることです。神の方法の粗探しをするのではなく、神の御手の下に賛美と期待をもって服するのです。
午前はいつもどおりプールとサウナ。最近はサウナで過ごす方が長くなっているか・・・。午後は映画。クリント・イーストウッドの『硫黄島からの手紙』。前の『父親たちの星条旗』との二部作。前作では硫黄島は単なる政治ショーのネタに過ぎなかったわけだが、今回は絶望的なサバイバルの舞台。
同じ戦争物を日本人の俳優を使って撮るにしても、やはり何かが違う。ライフルや爆弾の音からして、本当に怖いのだ。これは韓国の『ブラザーフッド』もそうだったが、現場を知っている人が作るからだろうか。日本のはドンパチと『ウルトラマン』に毛が生えたモノと言うか、『西部警察』のノリになってしまう。今話題の中村獅童も出ていたが、昨年の戦艦大和とは違う不恰好な役回りだったが、かえって現実感を醸していた。それにしても謙さんはハリウッド俳優として貫禄が増したが、ジャニーズの二宮和也がイイ役を演じていたのには感心した。私ももし硫黄島に送られたら、どんなに無様を晒しても生き残ることを考えるだろう。
ほとんど白黒に近い画面からリアリティの重さがやけに迫ってきて、現場の火薬や血や汗の臭いまで分かるような映像で、かなり疲れた。そして何と言う虚無感。栗林中将はアメリカ生活も経験し、ヒューマニストかつ民主的にして、兵士と同じ食事を取るも、公私の区別がつく合理主義者の側面を持っていたと、『文藝春秋』今月号にあった。玉砕を禁じ、1日でも硫黄島を守ることに徹し、5日で終わると予想していた戦いが1ヶ月以上に及んだ。2万名以上の日本兵は最後に千人ほどになっていたと言う。それにしても虚しい。最後まで戦い抜いて自決する兵士たちの最後の叫びが「天皇陛下万歳!」なのだが、本音はやはり家族にあったわけだ。かくして栗林中将が絶望の淵で家族に書き送った手紙は8ヶ月間で41通だった(『文藝春秋』記事による)。
イーストウッドはかつて『ローハイド』だったか、単なる二枚目俳優、そのうち『ダーティーハリー』で汚れ役を演じて、『マジソン郡の橋』でメルリ・ストリープとオトナの恋愛を・・・と言う具合に、歳を経るに連れて円熟と言うか、渋みと言うか、顔のシワにも味が出て来ている。例によってスピルバーグも『プライベート・ライアン』式に隠し味として控えているわけだが、やっぱり映画はハリウッドにはかなわないことを再確認した。これもやや虚しいが。
→温泉までT-19Days