No.1628の記事

仕事と遊び-歎異抄から-

これらは区別がない方がよい。橋田先生的には「仕事をしている時も、遊んでいる時も、同じ心持であるべし」となるかな。区別する心が苦痛を生むわけ。生と死を区別すれば、死は恐ろしい。人間の苦悩は善と悪を知ってしまったこと。この二元論的世界に生きること、これが苦悩のルーツである。歎異抄の親鸞の言葉に次のようにある:

みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ、さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まうすところの念仏をも自行になすなり。

要するに善悪の二元論に生きることは、法則の不思議に頼らず、自分の心のやりくりに頼むことであり、自力の業である、と言うわけ。まさにクルシチャンの精神状態だ。かくして親鸞の結論は

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

弥陀の誓願不思議に助けられて生きることが極楽浄土への道であると。聖書的にはいのちの御霊の法則に助けられまいらせるわけ。これが神の国に生きるコツ。道元もこう言っている:

佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

そしてわれらの主はこう言われる:

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の魂の命(原語)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために魂の命(原語)を失う者は、それを救うのである。

鍵は自己を忘れ、自己から離れること。心身脱落・脱落心身。

合掌(あ、ついに使ってしまった・・・)

Commented by あらけずりの木 Eメール 2006年05月30日(火)17:14

あっ、ついにやってもうたぞ。
あっ、そうか。誤変換か、「合唱」の。
さあ、皆で主を賛美しましょう!! ^^y

Commented by Luke 2006年05月30日(火)20:29

BBSから転載しておきます:

> 以前から疑問に思っているんですが、<弥陀>ってなんですか?
> キリストの影のようなものですか?弥陀をキリストに読み替えた人
> は、真の救いに一歩近くなるのでしょうか?少し調べたけど、
> さっぱり、わかりません・・・(涙)。
> <参>http://www.plinst.jp/musouan/koramu59.html

「弥陀」とか「法」と言うのは宇宙の法則です。禅者はアダムにある人間の自然な法則に従って生きることを志向するわけです。自分のはからいをやめて(=心身脱落)、「万法に証せられる」わけです。しかしキリストのいのちは得てはいませんし、私たちの意味では救われておりません。救いはイエスの名によります。救世軍の山谷さんが指摘されたように、禅的真理の契機を完成する方がキリストなのですね。その意味で「影」と言ってもいいでしょう。実体はキリストです。

Commented by 通りすがり 2006年05月30日(火)20:32

親鸞は、私も昔、少し勉強しました。
でも大乗仏教て、中国で、キリスト教の影響をもろ受けたようなので、似ているのは、その為ですね。