最近の日記

人間性のあり方

「ヒューマニズムについて」でも少し触れましたが、再建主義の人間性否定は予想以上のものがありますね。富井氏は、ヒューマニズム(=モーセ律法を適用しないこと)に犯されて再建主義に反対するクリスチャンは・・・悪魔の支配下にいる、と主張しています。

やれやれ、スゴイことです。まあ、この手の人に対してはあまりエネルギーを削がれたくはないのですが、論点としてはとても大切なのです。聖書は人間性についてどのように語り、主は私たちをどのように見て下さっているのでしょう:

(1)神は人になられた。イエスは人であるままで天に上られた。ステパノは人の子を見た。そしてそのままの姿で戻って来られる。つまりイエスはいぜんとして人である。

(2)イエスは人としてサタンに勝利し、世に勝利された。アダムが失った傷のない、純粋な人間性は、人の子イエスの死と復活にあって、回復され、さらに栄光化された。その人なるイエスの内に生きた御霊は、私たちの内にイエスを証し、復活のキリストのいのちを実体化される。

(3)古いアダムにある私は肉と共に終わった。霊が再生された私たちは、キリストが回復し栄光化して下さった人間性をも得ている。それはイエスの霊と魂の中で進展してたいのちの再現、あるいは追体験である。

(4)御霊によって私たちのうちにキリストの形が造られるとは、この御霊が届けてくださるイエスの人間性が私たちの霊から魂へと再現することである(メタモルフォーシス)。

(5)小羊はいずれ私たちを花嫁として迎える。それはイエスが分けて下さったいのちを共有する存在であり、新エルサレムでは、神と人が共に住まう。

(6)主は現在もまだ贖われていない私たちの体が弱いことを知っていてくださる。この弱い人間性をイエスは経験され、大祭司として私たちの弱さを思いやり、私たちがチリにすぎないことを心に留めてくださる。

(7)私たちの責任は、アダムにある私の有様を守ることではなく(これが「ありのまま」的ヒューマニズム)、死と復活を経て、キリストのいのちを内に生かすこと。

(8)かくして人間性は神にとってきわめて尊いものである。そもそも敬虔の奥義とは、神が肉において現れることであり、キリストはそれを100%成就された。私たちもその幾分かに与るものである。神は人の中に住まい、人を通して栄光化される方である。

(9)人間性は神にとってとても大切な要素であり、人間性を慈しんでくださる方である。ただし、十字架の適用が必要。なぜなら御霊は十字架によって働くから。それは私にとっては痛みを覚えることもあるが、しかしその時こそ神は甘い。その十字架を経るならば、古いものを脱ぎ捨て、栄光のイエスの人間性を味わうことができる。再度繰り返します:

 内なるキリスト−栄光の望み!

世界の行方

また山谷氏のBBSに興味深い記事がありますね。再建主義のゲイリー・ノースは、再建主義社会が実現する条件は、一度現在の世がカタストロフ(破局)を経る必要があると言っているようです。これに対して財前二郎氏が質問しています:

再建主義はポスト・ミレ、つまり現在はすでに千年期・新天新地であり、これからの世界はあまねくモーセ律法を適用する神の統治による社会となり、この地上に神の国が成就して後、イエスが再臨されると信じます。

一方ディスペンセイションではプレ・ミレ、つまりこれからの世界はますます悪くなり、滅びがおとずれ、その悲惨の極みに主イエスが再臨され、サタンを千年間穴に閉じ込めて地上に王国を設立すると信じます。

再建主義はこの見方を悲観主義であると非難します。が、何とそのメインの論客自身が自分達の主義社会の確立のためには、一度今の世が滅びる必要があると語っているとは!?驚きです。

では、果たして聖書の預言はどちらなのでしょうか。素直に読めばプレ・ミレと読めるのですね、私的には。私の個人的立場はプレ・ミレですが、あえてこれをケンケンガクガクと主張するつもりはありません。その預言を成就されるのは神だからです。

私があえて主張するのは、今この時、いのちを阻害すること、いのちを抑圧する教えに対しては、かなり反応します。私たちは将来に生きる者ではなく、また過去に生きる者でもなく、今に生きる者だからです。この時にいのちを育て、生きることが私たちに課せられている責任だからです。再建主義はあきらかにこのいのちを阻害します。

Commented by 財前二郎 2005年12月07日(水)22:07

はじめまして。少々ふざけたHNですみません。外科医さんがおられましたので、つい。
再建主義についてはチラホラと知っておりましたし、山谷さまとの大論争も見てはおりましたが、こちらのハードコアの議論でその本質が見えました。
それまでは終末論が聖書預言解釈としてプレミレかポストミレかの違い程度にしか思っていなかったのです。Lukeさんとのディスカッションで再建主義の本質がどこにあるのかはっきりと分かったことは感謝でした。
こういった思想というか主義が現われて来て、再建主義を信じない者は悪魔に組する者であり、呪われよ、とする時代に入ってきているのですね。
改めて終わりは近いのかなと感じ入っております。

Commented by Luke 2005年12月07日(水)22:52

財前さんの質問に対して山谷氏が回答を与えていますね(→http://bbs.infoseek.co.jp/Board01?user=makotoyamaya-lj)。再建主義の重鎮ゲイリー・ノースの世界滅亡の「外れ預言」です。

しかし面白いですね、富井氏は世界がこれからモーセ律法による「神の国」化され、輝かしい栄光が待っていると力説しているのに、ゲイリー・ノースは世界の滅亡を待っていると・・・。

何と言うか再建主義の自己矛盾的性格が明確に現れている感じです。やや解離性人格障害か分裂病質的人格障害かと言う印象です。いずれにしろ少なからず病的ですね。

イエスの声

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

その声は威厳があり、しかし静かで安らかさを覚え、慕わしく、麗しい。これからの教界は騒がしい、派手な、人目を惹く声が多く聞かれるようになるだろう。その喧騒と混乱の中で、静まって、この方の声を聞き分けられる人は幸いである。

福音は誰に

委ねられているのでしょうか?メンツとプライドで凝り固まった野心家のボクシでも、一見知性的であるが実は知性と情緒が乖離した病的なシンガクシャでもありません。

普通の感性を大事に、普通の生活を淡々と生きている普通のオジサン・オバサンに委ねられているのです。福音とは生きることを共有すること、泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑うことから始まります。聖とは人になること。最も人であった方はイエス。

それはいのちの種である御言葉を、時期が良くても悪くても、倦むことなく、淡々とまき続けること。それを発芽させるのはいのちのパワー、それを育てるのは神ご自身。単純に信じましょう。

ただし、ボクシの眼鏡にかなった従順なニッポンキリスト教徒を作るのではありません。ややこしい狂気の入った神学を刷り込むのでもありません。それはビョウキを生むだけ。健やかさにあってイエスに従う者を生み出すのです。サタンはそのような健やかさとイエスに従う者を嫉妬する。

まず私たち自身が原点に戻るのです。主と出会った日の解放感と甘い愛で涙した時に・・・。その感動が人の心を動かします。原点とは、x軸とy軸の交点、つまり十字架です。

まあ、ガチンコするつもりはありませんが

ちょっといくつかのトピックについて問題提起しましたが、あまりニッポンキリスト教の神学者や牧師たちに回答を期待しているわけではありません。というか、ほとんどしていませんね。おそらく時間の無駄になるだけですから。ただ心ある皆さんにはちょっと考えてみていただければと思ってはいます・・・。

偶然と必然

山谷氏の掲示板で外科医さまの提起された刑法に関して、決定論か、非決定論かの議論が展開されており、なかなか面白い。

で、われわれ自然科学者からすると、実は、偶然と必然は区別ができないのだ。

例えば、コインを投げたとしよう:

 (※) 裏、表、表、裏、表、裏、裏、裏・・・

と続く時、皆さんはこれを見て、これは必然によって生み出されたか、偶然によるのか、お分かりになります?実は数学的には区別ができないのです!

今ここに非線形変換を

 (※※) a(n+1)=λa(n)(1-a(n))

と定義します。これはa(1)を与えれば、この規則(決定論)によって、a(2),a(3),a(4),...が一意に決まってしまいます。

一方で(※)の系列は実はコイン投げの結果です。さてここで(※※)のλをうまく取り、a(n)が0.5以上ならば裏、未満ならば表に対応させると、あーら不思議。(※)の系列を決定論的な上式(※※)によって作り出すことができるのです!

 つまり偶然を必然から作り出すことができるのです!

このような理論を「カオスの理論」と呼び、現代のひとつの大きなサイエンスの分野を構成しています。

私たちサイエンティストから見ると、神学は単なる言葉遊びにしか見えないが、果たして神学はこういった分野を取り扱うことができるのでしょうか?ニュートン以前と言ったらむくれてしまわれたようであるが、富井氏もぜひ謙虚さを身につけて、もう少し学んでほしいところです。

Commented by Luke 2005年12月06日(火)23:24

CGによる目で見るカオスについてはこちらをご覧下さい:
http://brain.cc.kogakuin.ac.jp/~kanamaru/Chaos/

私の上の非線形写像によるカオスは、「ロジスティック写像」のところでシミュレーションできます。

Commented by ICHIRO 2005年12月07日(水)16:39

へえ、これは面白い。
このCG、意味は分かりませんが、遊べました。
必然から偶然が作られ、無秩序から秩序が生まれる、、、
う〜ん、今晩、眠れなくなりそうです。

次の御言葉は・・・1ヨハネ2:26-29

私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。あなたがたのばあいは、キリストから受けた塗り油(原語)があなたがたのうちにとどまっています。

それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、―その教えは真理であって偽りではありません。―また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。

今となっては無理ですが、再建主義を代表する富井氏はこの御言葉をどのようにとらえるのだろうか?これも彼の言うTheonomyの一部なんですが。このような御言葉は彼の書き物にはまず触れられていません。

1)信者にはキリストの塗り油がある。

2)この油はすべての真理を教えるから、誰からも教えを受ける必要はない。

3)この油の教えるとおりにキリストにとどまる。

4)善を行なう者は神から生まれた者である。

どこにモーセ律法が出てくるでしょうか。生まれの問題、すなわちいのちの問題でしょう?

今日、確かに、惑わす者が多く現れていることは間違いありません。

自律と他律?

山谷氏のBBSにすごい投稿がありますね。日本を「目には目を、歯に歯を」の同害復讐法を採用する警察国家にせよ、検察よ、ガンバレと・・・。この方はここでも「ヒューマニズム」のところでレスを下さった方ですが、再建主義の方だったのかな?

再建主義では、人間は全的堕落で、意志すらも堕落していますから、すべては神によらないとダメなわけです。要するに自律性が一切排除されます。これはハードコア・セッションでも富井氏が、「聖書はすべて神の命令であって、一字一句服従するのだ」と言っておられるとおりです。かくしてこれを社会に適用すればモーセ律法を一字一句遵守することになるわけ。よって「目には目を、歯には歯を」です。要するに人は枠にはめないと獣姦を犯す存在なのですね、彼らにとっては。自律性はヒューマニズムなのです。

下にも書きましたが、いのちの御霊の法則によって働くいのちは内的な性質として神の義を好み、神の聖に従うことを欲求するいのちなのです。人のいのちは四足で歩くことを好まず、二足歩行を好みます。同様にキリストのいのちに従えば、自律的かつ内的に神の基準を生きるのです。なぜなら御霊は神の義をlustするからです。このlustという単語は普通は「情欲」と訳されていますが、ガラテヤ5:17にある「霊の願うところ」(新共同訳)の「願う」の原語もlustです。ですから、御霊に導かれているならば律法の下にはいないのです(18節)。

まあ、彼らはこの律法をパリサイ学者の律法主義の律法だとしているわけですから、これ以上議論になりませんが。素朴な疑問として、憲法にも制定のままの純粋な憲法と、憲法学者の憲法があるのかなと・・・(笑)

いやあ、これほどに深刻な福音理解の齟齬があるとは思いませんでしたね。しかしこれをとおしてますます聖書の真理が明確になったことは事実です。聖書にはこうあります(向こうさんも使うかもしれませんが):

あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。



補遺:刑罰の程度はモーセ律法とは別に考えたらいいと思いますけどね。

Commented by 外科医 2005年12月06日(火)20:05

 はじめに、私は再建主義ではありません.
 私は、昨今の連続する幼い命を奪う残酷な事件に心を痛めております.しかし、山谷師が、再建主義ウォッチング掲示板の968に於ける論述が、同害復讐を正しく理解しておられないと思いましたので、敢えて記しました.12族長の暴走は明らかに、同害復讐の原則を侵しています.本来なら、シェケムだけが罰せられるべきでした.『目には目を、歯には歯を、命には命を』とは、
同態復讐法(レクス・タリオニス)と呼ばれ、その根本思想は、人間の奥底にある無制限的報復(12族長の暴走のように)に対して制限を加え、同量の報復を以って満足すべきであることを想定したものです.
 江戸時代は「十両盗めば首が飛ぶ」と言われていました.また、茶母によれば、韓国ではかつて贋金作りは死罪だったそうです.こういうのは行き過ぎです.同害復讐ではなく、過剰報復です.
 さて、殺人事件の場合、加害者の弁護人は、生い立ちや環境を情状酌量として提示することが殆どであると思います.しかし、加害者と被害者に利害関係があり、例えば、「被害者が常習的に加害者を虐めていたので、加害者は止むに止まれず被害者の殺害に至った」というような事例は別として、被害者に何の落ち度も無い犯罪行為、特に殺人や強姦など、被害者に回復不可能は害を与えた場合は、被害者の数に係わり無く『死刑』を適応すべきであると考えます.また、麻薬や覚醒剤の密輸は、結果的に、末端利用者に回復不可能な障害を与えてしまいますので、シンガポールやタイなどのように、死刑を適応すべきだと考えます.
 いずれにしても、被害者に関係の無い情状酌量は認めるべきではありません.殺人事件や強姦事件、麻薬・覚醒剤の密輸事件の裁判は、事実認定を慎重に行う必要がありますが、事実認定が確定すれば、あとは、刑法の厳格な適応あるのみであると思います.刑法の改正(被害者が無過失の殺人・強姦、及び、麻薬・覚醒剤の密輸は死刑)を強く要望します.

Commented by Luke 2005年12月06日(火)21:39

あ、これはわざわざありがとうございます。確かに今回の事件などは、もし私が当事者であったら、同じ方法で処刑してやりたい、と感情的には思うでしょうね。

ですから刑法や刑罰の考え方は別にモーセ律法とは関わりなく論じればよいと思うわけです。これは自然法を成文化でいいのではないでしょうか?現在の少年法や加害者の人権は守られ、被害者は無視されている点などがおかしいと誰も感じているはずで、その自然な感覚に基づいて論じればよいわけです。その意味では外科医さまの見解はひとつのオプションとなり得るかと思います。

ところが再建主義ではこの自然な感覚(自然法)を否定して、あらゆる領域で司法律法の適用とするからおかしくなるわけですね。

Commented by Luke 2005年12月06日(火)23:39

ちなみに上で触れたカオス理論の一部に「自己組織化」の理論がありまして、モーセ律法はなくても自律的な秩序の構成が可能なのですね。神学では「自然は恩寵を駆逐する」とか言うのだそうですが、逆に秩序は自律的に構成されるのです。

念のため、わたしは進化論者ではありませんよ。かといって創造論でもないですね。私の信仰は「神が創造された」ピリオド

しかし無秩序から秩序は生まれるのです。クリスチャンの確率論による進化論批判は、残念ながらサイエンティストは相手にしません。なぜなら無限個存在するものの確率も0になり得るから。

これを「測度論」と言いますが、サイコロのレベルのパスカル的古典確率論で論じているのが今の教界です。ですからバカにされるだけなんですね。

みなさん、私たちはノンクリスチャンに対してもっとへりくだる必要があるのです!そう思いませんか?

普通であることの祝福

再建主義では「普通性」を極端に嫌い、その究極に獣姦があるという。これ自体ですでに彼らの病理性が分かるが、では聖書は何と言っているでしょうか。

1)人は神の形に造られた。しかし第一の人アダムはその実質である神のいのちの内住を得損なった。

2)神から断絶されて、いのちの木への道も封鎖された。かくして人は魂と体の生き方、つまり肉となった。

3)ローマ2:14-15にあるように、たとえ律法を持たない人あるいは生まれながらの人であっても、良心が善と悪をわきませさせる。これが私の言う「生まれながらの価値観」であり、自然法の根拠です。(再建主義はこれを一切認めない。)

4)人は善を行ないたいという意志はあるが、力がない。人は思いの中にある神の律法を行ないたいと言う法則と、体の中にある罪と死の法則のはざまで、神の律法を行なうことができない。つまりアダムのいのちには力がない。

5)キリストは最後のアダムとして旧創造を終わらせ、第二の人として復活の初穂となり、同時にいのちを与える霊として、御霊によって私たちに内住され、わたしたちのいのちとなられた。そのいのちはいのちの御霊の法則に従って働き、私たちを罪と死の法則から解放した。

6)御霊に従えば、このいのちの御霊の法則が自動的に働き、たとえ知識として律法を知らなくとも、律法の要求は私たちの内で満たされる。

7)ロマ書の語る私たちの生まれながらに持つ普通の感覚はいのちの実質を得るときに、実際に行なうことが可能とされる。つまり私たちはますます普通な人になるわけ。

8)カルトや異端はこの普通さをその教義や聖書解釈によって壊していく。もちろん私たちは自己中心で生きてきたから、例えば「得るためには捧げよ」と言う御言葉には当初は肉の抵抗を覚える。しかし自己をおろして従う(=自分の十字架を取る)ならば、むしろそれが解放であり、自由であり、喜びであることを味わう。

9)この自己を処理することは私たちの意志により、そのとき御霊は内なる業をして下さる。つまり「得るためには得よ」と言う価値観は、実は生まれながらのものではなく、世にある間に刷り込まれたもの、つまり普通ではなかったわけ。これを経験させてくださるのがキリストのいのちである。

10)かくして神の形である人の中に神のいのちの実体が満ちる時、そのいのちに従った行動やあり方を実現する。このいのちの性質に従った統治が行なわれ、御国は成長拡大する。これはモーセ律法よりはるかに上位互換のいのちの御霊の法則によるわけ。

注:ここで富井さんが言う「超民族化・普遍化されたモーセ律法」とは「いのちの御霊の法則」ではないかと問いましたら、明確に「違う!」とのことでした。これは致命的ですね。

11)かくして十字架と共に働く御霊の造り変えが私たちの内で進めば進むほど、私たちは普通になっていくのです。しかしそこにキリストの香りと何かが表現され、世の人とは異なるのです。普通ですが、何かが違うのです!

12)キリストの形が形づくられる(メタモルフォーシス)ならば、キリストは私たちを迎えに来て下さる。私たちの希望は神学のドグマや油注ぎの器ではなく、土の器の中の宝物、すなわち内にいますキリストである。このキリストを知るならば、失望することはないのです!

最も大切なもの

今回の議論に巻き込まれて一度確認しておきたいことが明らかになった。

神学の論争のルーツはどこにあるのか。

これは人間のレベルで生じる現象であり、一方で神が何を最も大切にされるか。その対比が明らかにされたと思う。ディスペンセイション主義は再建主義を受け入れることができず、逆もまたしかり。で、それぞれは自分が聖書に堅く立っていると「信じている」。だから一歩も譲れない。(まあ、私も今回の件で再建主義の創始者ラッシュドゥーニの文章などを読み、本質的な問題があると分かった、というより再建主義の究極には論理必然的に狂気的要素があるようだ。)

果たしてこのような状況を神はどのようにご覧になるのだろうか。古の昔から神学上の対立(つまりどちらが真理かと言う争い)でクリスチャン同士が殺戮を繰り返してきたことは歴史上の事実。が、ここで確認しておきたいが、真理は第一義的にキリスト御自身である。「わたしは真理である。」そしてキリストは神学のドグマのセットではなく、いのちである。「わたしはいのちである。」

しかし何とも虚しいことに言葉尻の取り合い、否、それ以前に互いの言葉の定義を確認する間もなく自分の教義の押し付けに堕している。こういったことはわれわれサイエンティストは議論以前のマナーの問題なのだ。相手の言葉の定義を理解してから議論は成立するのだから。例えば「ヒューマニズム」の意味がまったく異なっている!(11月30日参照)

聖書はその方(パースン)を紹介する書であり、履歴書である。エマオの途上で青年二人にイエスは聖書がご自分について証ししていることを説かれた。しかし彼らは目が開かれるまでイエスご自身に気がつかなかった。文字を理解しても、本人を理解し得なかった。これと同じことが神学の論争では起きるのだ。真理なる本人を離れて、文字面の対立。それはまさに自己(Self)の表現。自己だから一歩も譲ることができない。それはきわめて強烈な魂のパワーによる。

一方で聖書はもちろん神の息吹きであり、神の霊が塗りこまれている。それは何のためか。いのちのためである。内に誕生したキリストのいのちの養育のためである。再建主義者富井氏との対話は、彼が「モーセ律法=いのちの御霊の法則」と宣言された時点で、すべてが見えてしまい、後は無意味と分かった。

再建主義にはいのちの次元が完全に欠如している。神の国は第一義的にいのちの領域。そのいのちに応じた統治がある。彼らはこの統治をいのちを抜きにモーセ律法の適用のみで成就しようとする。つまり絵に書いた餅。いかにキレイに、実物にソックリ欠かれていても、それは所詮絵である。まことのいのちを忘れ去った神学はかくも虚しい。

いのちの次元に戻ること。その時いのちに応じた統治が実現する。これが神のご計画のすべてであるが、これが欠如しているのが現在の教界。神学の議論の森の中に迷い込むと一本一本の木は見えても、森全体の位置は見えなくなる。それと同じような迷子状態にある。再建主義に対してはある種の期待もあったのだが、残念ながら最も本質的な部分がすっぽりと抜け落ちていたことが分かった。

一方でヒューマニズムに落ちた人気取りの「働き」が見かけ上栄え、一方でいのちの欠如したやや狂気の入った神学が孤立化し、ますます今後のニッポンキリスト教は混迷を深めるであろう。その混迷の中で内なるキリストを知り、いのちに与ることを経験した人は幸いである。(こういった表現は再建主義者からも普通の先生たちからもほとんど聞かれないのが不思議なのだ・・・)

前に書いたことがさらに重要になるようだ。

もっとも本質的なこと

Commented by kawa 2005年12月06日(火)12:32

教団の特徴は牧師が神格化される点にある。礼拝は牧師の自慢話に終始、キリストはどこにいるのやら。良心を痛める者もいない。

Commented by Luke 2005年12月06日(火)23:37

>礼拝は牧師の自慢話に終始

そうですか。でも、それだけ自慢できるネタを持つセンセイは多分とてもエライ人なんだろうと思います。ハイ。

Spywareにご注意!

NHK「クローズアップ現代」でSpywareの実態をレポートしていた。私も一応気をつけており、そのスキャン・ソフトで確認はしていたのだが、今日別のソフトでスキャンすると、何と5つものSpywareが侵入していました。あわてて銀行の残高と証券会社、およびクレジットカードを調べたところです。

同番組によると3台に1台は侵入されているとか。ホームページやSpamメールを開いただけで感染するものもあるらしい。皆さんも確認された方がいいです。ウイルスのワクチンソフトだけでは危ないですね。ファイアウォールと、ワクチンと、Spyware検知ソフトは必需品ですね。しかし何とも気味が悪いこと。

Commented by まるふぁ 2005年12月06日(火)18:22

私も昨日の「クローズアップ現代」見ました。
私が導入しているのはフリーソフト(Ad-AwareとSpybot)ですが、ちゃんと有料の対策ソフトを入れたほうがいいかなぁと思いました。Lukeさんがご使用なさったソフトは何ですか?

自分のPCに入力した情報が相手のPCに筒抜けの様子が具体的に放映されて怖かったですね・・・。

Commented by Luke 2005年12月06日(火)21:43

私もSpybotを使っていたのですが、検出できなかったみたいです。今はこれです:
http://shop.vector.co.jp/service/catalogue/sr071522/

Commented by まるふぁ 2005年12月09日(金)18:54

ありがとうございます。
スキャンしてみたところ、7つのスパイウェアが検出されました。今まで巣食っていたのに気付かずにいたのか・・・とちょっと怖くなりました。

度々のお詫び

どうも月曜日はアクセスが集中し、回線とサーヴァーがパンクしてしまうようです。午前10時過ぎから午後4時半ごろまでダウンしておりました。そろそろADSLでは限界のようです。何かの工夫をと考えておりますが、ご寛容の程をお願いします。

ニッポンキリスト教界と付き合って

何だか不思議と言うか、ワケの分からない世界であるなあ〜、と最近とみに感じております。表は不自然にニコニコであるが、妬みと敵意とに満ち、互いのシマを守り、羊泥棒を警戒する先生たち。かと思うと、ヤクザの世界よろしくいきなり因縁を吹っかけられて、対話を試みると、捨て台詞を吐いて去っていってしまう「神学者」。モーセ律法を「守る」人たちがローマ2:14-15に反する振る舞いをする。聖書と言う共通の土台では話ができない。

他方で妄想を持つ人々、「ファイア」で倒れて床を転がる人々、自分の功績を目一杯誇る立派なセンセイたち、自分で物を考えることをせず、飼い慣らされて疑問を呈することもできなくなっている従順な羊のみなさん。人間的勲章を求めてのしていくセンセイたち。ビョウキの人が「まとも」で、まともな人がむしろ排除されるギョウカイ。何なのだろう、この世界は・・・と。

この4,5年見たり、聞いたり、否応なく巻き込まれたりする間に感じたこと。一言、まともではない。いずれにせよ、このギョウカイ特有のシキタリがあるようで、普通のセンスはどうも通じないようだ。ヤクザの世界に巻き込まれて、そのシキタリに目をパチクリしているような自分の位置づけを感じている次第。そのシキタリに従わないと異端とかカルトにされるようだ。

繰り返しなるが、このギョウカイにドップリは相当に危険なこと。単純さと喜びと健やかさを失い、いのちを消耗していくことはマチガイナイ。かくしてビョウキの人が再生産されていく・・・。このギョウカイの将来はいったい・・・嗚呼

Commented by ブヒ Eメール 2005年12月04日(日)21:52

こんばんは〜!!
ビョウキの世界にどっぷり浸かっていた人間にとって、ルークさんに教えて頂いた「普通の生活、当り前の生活が大事」は、本当に新鮮でした。
またその普通の道を主とともに歩くことに心から感謝を覚えてます。
そうですよね・・・イエス様も30年間普通の人として普通の生活をされてたんですものね。

「何かをしてなければならない!!」と云う強迫観念のようなものを纏ってた私ですが、その重い衣を少しづつ脱ぎ始め、軽くなって来ている事を実感しています。本当に主に感謝です!!

>自分で物を考えることをせず、飼い慣らされている疑問を呈することもできなくなっている従順な羊のみなさん

まさに飼い慣らされた羊たち・・・巧妙なMCもありますね。。。つい2〜3日前もその事を思わされてました。
飼い慣らされた羊たちが目を覚ますことができますように、心から祈りつつ!!

Commented by Luke 2005年12月04日(日)22:18

カエルはいきなり熱湯に入れると暴れて逃げ出しますが、水に入れておいて、徐々に熱していくとそのままゆだってしまいます。

専門用語で「認知的不協和最小化作用」と言いますが、何となく熱くなってきて違和感を覚えても、自分が悪いとして、「慣れ」て行こうとするのですね。

かくしてドップリはまると逃げるのが困難になります。ブヒさんのおっしゃった重い真綿で首を絞められる感覚ですね。外から見ると、はまってしまった人は大変だと思いますが、本人はその最中は感じないのですね。

センセイの側も信徒に自立されてはまずいわけで、生かさず殺さずじゃあないでしょうか。実に巧みですね。一流の牧師ともなりますと・・・。

でもね、この数年、本当に勉強になりましたよ。私の専門から見ても興味深い現象がゴロゴロありますから、このギョウカイ^^

今日の映画

午前中はいつもどおりプールとサウナ。サウナで知り合ったトラック運転手の話によると、自由競争のためにダンピングをしてまで仕事を確保するために、忙しくても収入にならないとのこと。この象徴が姉歯建築士の「ダンピング」。市場原理による自由競争の行き着くところはかくも悲惨。金のために自然の人間性を損なってしまう。姉歯氏もすでに心を病んでいますね。

同じように見せかけの「リバイバル」を追求して福音をダンピングするセンセイたちも病んでいます。「霊的」スーパースターを呼んで、派手なイベントを打って、金と人を集めて、大きな礼拝堂を建てて・・・そのあげくは一体どこに向かうつもりか?

一方でそのような風潮のリバウンドとして、再建主義のようなやや狂気の入った思想が徐々に侵入している。救世軍の山谷氏はついに「まったく馬鹿げている!」と宣言されるに至ったようだ。ここをご覧の方々はすでに再建主義の本質が見えていると思います。ただ私に対して心に一物持ちながら、病んでいる富井氏を煽るために覗いている方もいるようですが・・・。

まあ、人生イロイロ、会社もイロイロ、「クリスチャン」もイロイロと・・・(あえて括弧をつけておきます)。

 * * *

午後はカミさんと食事をして映画。食事は中華。ここの料理はカナリいける。ホットの紹興酒にザラメを入れるとこれがまた寒い日には格別。映画は「Mr.&Mrs.スミス」。ブラッド・ピットとアンジェーリナ・ジョリーの軽快な、ややコミカルなアクション物。ちょっとオトナの香りを醸して、軽妙なタッチで楽しめた。

ブラピは「アキレス」でマッチョになって以来、なかなかアクション物がフィット。アンジェーリナはその厚い唇がなかなかセクシーなのだ。ニッポンキリスト教の倒錯的世界に触れた後は、やはりバランスを取るために映画と温泉がピッタリ^^このキリスト教界という閉鎖的ギョウカイにドップリはかなり危険ですね。そう思いませんか、みなさん?当たり前を当たり前に、普通のオジサンとオバサンでいましょう、ネ。

Commented by Luke 2005年12月04日(日)08:59

来年の5月にアナコンディアとかが名古屋に来て聖会を開くそうです。名古屋はニッポンのリバイバルの中心となるそうで、皆さん燃えているようですけど。

しかし考えてみて下さい。日本人がみなこういった人物の周りに集まって、聖会で酔っている姿を。アフリカやインドではそういったこともあるのでしょうが、日本人はけっしてそのような方法は受け入れられないでしょう。

目に見えるそのような現象を求めるのではなく、淡々と草の根的にいのちをまき続けるべきです。

それにしても好きな人がいるのですね〜。