* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
真に人を救う存在はひとりのお方−Jesus。この方との出会いが救いなのであって、「イエシュア」とは「神は救い」と言う意味。神学なるものが「学」としてもあまり程度の高いものではないと分かったが、そもそも人を救うのは神学ではない。それはいのちの抜け殻。救いとはいのちの主であり、いのちを与える方を知ることである!
あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。
Dr.Lukeは:普通さ(健やかさ)が壊れているため。アダムが失った神のいのちによる癒しと回復が必要。なぜなら人は自ずと聖を求めるものだから。
再建主義者は:普通さの行き着くところ。だからモーセ律法を普及させ、例えば中絶した女性などは見せしめとして公開処刑にせよ。そうすれば犯罪はなくなる。
ちなみに今回の犯人の専攻は刑法、しかも「犯罪と刑罰」のゼミでトップの10%に入っていたようですね。オツムはよくても、あまりにも幼いのです。小児性があり、多分被害女児にある種のロリコン的愛情をいだいており、その彼女から自分のアイデンティティを傷つけられたのでしょう。
予備校(特にYゼミあたり)や塾などでは普通ではない、ちょっとアブナサのある人物の方が人気があります。小児性が生徒と共鳴して、受けるのです。元ヤンキーとか、「族」だったとか。大人は人気が出ませんね。
なぜかニッポンキリスト教界も同じ。もとヤクザだとか、ヤクをやっていたとか、フーゾクにいたとか、これがウリになるのです。共通する要素は小児性。牧師と塾講師の価値観も同じ。信徒と生徒の動員数がすべて。立派な箱物を作りたがるとか・・・。実によく似ていますよ。
ルークさんの言われるとおり、犯人の学生はこの女子に
好意を持っていたようですね。
デートをしたいと、彼女の友人に話していたようです。
被害女児は気持ち悪がっていたとのこと。
新しいCDが今税関を通過中です。今週中には入荷します。いましらばくお待ち下さい。BGMはFaith05の中のGlorifyです。
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配色を冬ヴァージョンにしました。ちょっと寒げですね^^
オカルト的な猟奇的事件の後、すぐまた塾で講師によって女児が刺されて死亡とのこと。二人の娘を持つ父親としては何ともやり切れない。航空機事故などもそうなのだが、この手の事故や事件は続くのです。
確率論的には、こういった稀な事象はポアッソン確率過程に従います。この場合、待ち時間分布は指数分布となり、一度起きると比較的短期間で続くことは確率法則なのですね。ちなみに地震等も同じ。
しかし流行なども言えることですが、ある種の霊的な流れがあると感じています。空中の権を持つ霊たちが時々にこういった事件や事故に関わっている印象を持っています。確率法則の裏に霊的因果関係があるのか、ないのか、残念ながら現在のサイエンスでは実証できませんが、聖書的にはあり得ることでしょう。
サタンは人の、特に健やかさとか健康とか満ち足りることや安息など、そういった人間的要素を嫉妬し、破壊しようとするのです。被害者の方々が神の責任を問い、神を恨み、神の慰めを拒むことがないように祈ります。
悪魔の目的は盗み、殺し、破壊することですが、イエスは癒し、回復し、建て上げる方です。
わたしが来たのは羊がいのちを得、しかも豊かに得るためである。
Commented by Luke 2005年12月11日(日)12:04
この事件は町田の事件と同じ臭いがしますね。加害者は被害者にある種の好意をいただいていたが、それが裏切られたのでしょう。衝動的と言うよりも計画性がありますから。
余剰価値的一日でした。じつにまったりと・・・。
で、何気に山谷氏のBBSを見たら、まだ富井さんが私に対して訴えておられるとのこと。私が「神学の素人」で「クリスチャンでない」と結論されたのだから、もう十分ではなかろうかと思うのですけどね・・・。私的には大切な論点は網羅してしまいましたので。
何しろ私は神学書などは一冊も読んだことはありませんし、独学したこともない。高校の世界史レベルの知識、否、それすらもないなあ〜。何しろ高校時代は赤点すれすれ。入試では、当時は共通一次はなく、東大は独自の一次試験があって、理系も社会二科目を科せられていた。でもね、英数国理でほとんど100%取れるので、社会は0点でも通るわけ(イイ時代でした)。でも最終合否判定を考えてなるべく点を取っておこうと言うことで、過去問調べたら、四択で「2」の正解数が高い。で、・・・、と言うわけ^^まあその程度です。
かくして、<カルバンvsアルミニウス>なる議論も最近知った次第。で、ちょっとかじってみると、私たちサイエンティストから見ると決定論と偶然論をめぐる議論で、すでに述べたとおり、ill-posedな問題(無意味な論争)であることが分かってしまった。光は波動だ、いや粒子だ、とケンケンガクガクやっているようなもの。かなり脱力。ここでバルトがどうのと言われても、「へえ〜」としか・・・。そもそもこんなことで互いに異端のラベルを張り合っている神学者たちって・・・と。
再建主義者を見ていると、何だか(かつての)自分を見ているような感じがすると先に述べたが、これは本当です。手塚治虫の『火の鳥』に猿田博士と言う孤高の天才科学者がいて、自らの手で生命を創ろうしているわけ。しかし彼の創った生命体はガラスの中でしか生きることができない。彼は必死になって神に祈るのです、「神よ、私に生命の秘密を教えたまえぇっ!」と。
彼は自らの醜貌を恥じて人を遠ざけているが、実は温かい愛に飢えている。人の温もりに渇いている。それで自分を賛美するだけの美しい女性型ロボットを周りにはべらせるのだけど、心の空虚さが埋まらない。かくして、彼は・・・、と言う物語です。
再建主義者がヒューマニズムと断罪し、律法をもって埋めようとしている真空領域は、実はモーセ律法では満たされない。いのちではないから。モーセ律法はその型は持っているが、実質ではない。彼らはその真空領域を懸命に「学」の追求で埋めようとしているが、ガラスの外では生きることができない。彼らが求めるのは自分を認めてくれる人々。富井氏も私にある種の期待を抱いていおられたのかもしれない。残念ながら私はそれに応えることはできない。
再建主義者たちには、猿田博士の渇いた絶望的な追求の人生の道程を思ってしまうのですね。彼らは「イエスは主」と告白する以上、論敵ではなく、主にある兄弟なのです。
Lukeさんが何気に言われることは、実は神学者にとって死活問題ではありませんか?カオス理論からカルバンvsアルミニウスが無意味な議論であるならば、カルバンを基礎とすると言っている再建主義も無意味になりますからね。彼らにとってはパラダイムの根幹を揺るがしかねません。富井さんにとってはLukeさんを無視できないのです。だから徹底的にLukeさんを否定しないと、自分のアイデンティティを否定される危機なんですよ、多分。
Commented by Luke 2005年12月10日(土)23:11はあ〜、そんなものなんですかねぇ?だって、エライ神学者が何百年も前に論じてきたと富井さんも言ってますよ。私ごとき素人など問題ではないと思いますけどね。私的にはこういった話で労力と時間の無駄は避けたいだけでして・・・ハイ。
明日は入試の当番で、またまた面接で受験生のワンパタンの答えを聞かなくてはと、ちょっと気を張っていたのですが、何と無罪放免。小市民Dr.Lukeとしては、こういったささやかなことに無上の喜びを覚える次第^^さあて、どう過ごそうか、と・・・。るんるん♪
Commented by ICHIRO 2005年12月10日(土)12:19ややこしいカオスの話の後は「るんるん」ですか?
ルークさんはどこまで本気で、どこまでが遊びなのか、、、
人生はカオスであると書きましたら、「カオスは混乱と言う意味ではないか」とお尋ねをいただきました。あの〜ですね、私たちが使うカオスの定義をまずはご理解いただきたい。
下(12月6日参照)に書いたとおり、「決定論から生じる系列と、さいころを振ってできる系列が区別ができない」と言うことが私たちの言うカオスです。このカオスにはイロイロと面白い性質があるのですが、私たちクリスチャンの人生はまったくカオスなんですね。
ちなみに物質ですら、量子力学によれば、粒子なのか、波動なのか、区別ができないのです。私たちの知性の中に実存のモデルを構築する場合の制限であり、ヨブに対して「お前に創造の神秘が理解できるか」と問いかけた神の人間知性に対する訴えなのです。
例えば、私たちの選び。エペソ書によれば、「天地の基が置かれる前から私たちは選ばれていた」とあります。で、カルバン主義では、運命論的に選ばれてない人は救われないとなり、修正アルミニアン主義では、選ばれていても自由意志で拒否できるとなるわけです。「カルバンvsアルミニウス」―勝敗はどっち?
われわれからしますと、「分からない」のです。つまり私たちの人生の時系列は決定論によるのか、偶然性によるのか、カオスの理論によれば区別できないのです!私たちの自由意志は神の選びを無効にできるか、できないか。あるいは私たちの救いは神の選びによる(決定論)のか、私の自由意志によるの(偶然論)か。「区別できない」とするのが私たちサイエンティストの立場です。
聖書に書いてあるとおり、「神はすべての人が救われることを願われる」とあり、また「私たちはすでに選ばれていた」とあるとおり、そのままに「アーメン」と神に栄光を帰するのみです。「選ばれていない人はどうなるの?」と言う質問自体がすでに"ill-posed"(不適切な問題設定)なのです。このふたつの命題をどう矛盾なく神学の体系に組み込むのか、私たちからすると元々無意味な作業であると思うわけ。
私たちの自由意志が神の定めを無効にできるのか(=偶然論:これは神の全能性に反する)、できないのか(=決定論:これでは人の自由意志の働く余地はない)、判断できないのです!
そもそも私たちは物理的な時空連続体に閉じ込められていますが、神はそれを超えた存在です。ですから神にとって私たちの人生の系列はすでに全工程が見えているのです!で、聖書はあなたがたは聖とされ、完成されたと告げています。
私たちはその地点から現在を逆算するだけなのです。行き着くところはすでに決定している。その間を埋めるのが私たちの自由意志です。別に再建主義に反対しようが、その神の決定を覆すことはできません。私たちの罪や失敗も神の決定を覆すことはできません。神はすでに私たちを完成された者として見ておられるのです。
その視点に立てば、私たちの人生は運命論的に決定しているからとして自由意志を放棄するものでもなく、何でも自由に振舞うべきものでもないと分かります。神の定めと私たちの自由意志とが綾なされて私たちの地上の行程は刻まれます。そこを目指して歩めばよいのです。
・神の予定と人間の自由意志について
それは生きることはキリスト。キリストは道。人生の成功とか、失敗とかで振り回されるのではなく、キリスト御自身が目標。キリストから外れないことを自由意志で選ぶのです。またキリストを獲得することが私たちの動機なのです。大切なのは、決定論か偶然かと考えて立ち止まることなく、どこにおいても、どんな状況でも、神と共に歩くこと。これで十分ではないですか?神はインマヌエルなのです!
<決定論(テーゼ)vs偶然論(アンチテーゼ)>を止揚して、<キリスト(ジンテーゼ)>
これって「霊的弁証法」と言えるのだろうか?
まさにこのキリストにおける霊的弁証法を、カール・バルトがやったわけですね。
霊的レベルを忘れたdialectは平板化して命を失ってしまうということを、予定論の議論は示していましたが、バルトはキリスト論的に、予定論をdinamicに乗り越えたのだと思います。
弁証法がどうのこうのって、ルークさんらしくないですね(笑)結局いつも言われる、カルバンさんでもなく、アルミさんでもなく、キリストだけってことじゃあないですか?
Commented by Luke 2005年12月09日(金)21:53はい、ちょっと遊んでしまいました^^
そうですね、キリストと御言葉−これで十分だと・・・。御言葉に書いてあれば「アーメン」、書いてなければ語らないと。シンプルです。
いわゆる笑いは「間」のリズム感から生まれる。人の精神はこの緊張と解放のリズムがないと病む。退屈しない話や映画はこの緊張感と解放感のリズムが絶妙なのだ(専門用語では「カセクシス」と「カタルシス」と呼ぶ)。能では「序・破・急」と言う。
そのリズムのスペクトルを見ると1/f型。これは自然界の快適な音、例えば小川のせせらぎや、そよぐ風などのパタン。あるいは快適なクラシックなどの音楽。これは前に述べたカオスとも関係する。
私の最近のここのカキコを心配気に読んでくださっている方々が多いようだが、実はこのリズムがかなり密になっているため。ハラハラ感はこの密度の高さから生まれる。私的には内側から沸いてくるものを忘れないように書き留めているわけ。
神との関係、つまり霊的領域においても同じようなリズム感がないと人は霊的に窒息する。ある本に霊はkinkすると言う表現があったが、まさにそのとおり。糸がもつれて玉ができるのだ。これがほぐれないといのちの流動性がなくなり、内的生活は新鮮さを失うし、時には圧迫を受けることになる。
神は私たちの人生において絶妙に「緊」と「放」を配剤して下さる。かくして人生は縞模様を生み出す。この配剤に信頼して委ね、いのちが流れている時、サラサラと生きることができる。多分私たちの健全な霊的歩みはカオスであり、スペクトルは1/f型であろうと夢想している。
いつも楽しく拝見しています。再建主義との論争には大して興味はありませんが、ウインドウズの上位互換の話は、律法の役割を実にわかりやすく説明していると感じます。
今回の「間」のお話、共感できます。音楽でも音のない部分が、リズムを作っているわけです。リズムは不正確で音楽にならないのですが、規則正しいだけでは感情は揺れません。いわゆるノリやタメ、ツッコミといった絶妙な間が音楽を豊かにします。
再生と新生の話もおもしろいです。そういう「しきたり」がことば使いまで支配するところがあって、やくさ社会と一緒です。昔こういうことをネタに小説を書いたことがあります。日の丸町という町に松・竹・梅という三つの中学校があって、竹中学に通っていた主人公が、梅中学に転校してきたために、混乱する話です。くだらないローカルなルールを普遍の真理だと思い込むのは病的なことです。
山奥の渓流のようにサラサラ生きたいですね。紅葉でも浮かべながら、岩魚や虹鱒を泳がせてやりましょう。川には県境はありません。山から海へ流れるだけです。
サイトを開いて以来実にイロイロな人に出会いましたし、ニッポンキリスト教界を垣間見ることができたわけですが、このギョウカイをみていると一言、クリスチャンって何なの?と。1%なのは確かに理由があります。神が守っているのですね。再建主義との「対話」はまあひとつのエキササイズでした。
しかしこのギョウカイ、実にイロイロ。日本の村、例えば白川郷などは、それなりの調和があって、心が休まりますが、ニッポンキリスト教村には、遊園地の観覧車があったり、やたらド派手なビルがあったり、アメリカ式の家に、ロシア式の家があるみたいな、で、それぞれの家の前で派手な呼び込みが大声を上げていると。
家の中はというと、ホスト的に不自然な笑顔でベットリと迎えるセンセイと、そう、やくざ屋さんの家の調度品みたいなある種の違和感と緊張感を覚えさせますね。何ともバラバラ、まさに分裂病的。
そうですね、「川の流れのように〜♪」と生きたいですね。
分裂病の精神病理の専門家木村敏氏の著書に『間の病理』がある。要するに精神分裂病は人間関係の病理であり、「間」の取り方が狂っているというわけ。病んでいる人はこちらにその意図がなくとも、自分の「間」を犯されると感じると、恐れや妄想や幻覚を生じるのだ。私たちの「間」とはかなり食い違う。
私たちも対人関係で混乱を覚える場面は、下にも指摘したように、「間」の取り方を侵食される時なのだ。私の著書でも「間」とはある霊的な何かを指しているかもしれないと述べたおいたが、これはあまり見当はずれではなさそうだ。魂と霊が相互作用する緩衝領域のような印象を受ける。神学では「中間領域」と言い、私たちは「間」と言うわけだが、どうも同じ何かを指しているようだ。
山本七平氏が日本を「空気の社会」と呼んでいたが、「空気」も「間」と同一視できるかもしれない。さらに『甘えの構造』の土居健郎氏は、自身もクリスチャンであるが、「気」の精神病理を論じていた。この「間」とか「空気」とか「気」とか言う対象は、何か同一の「霊と魂の緩衝地帯」を指しているのだろう。
日本文化はすべからく「間の文化」と言える。和室や日本庭園は無駄な空間が実は何かを表現している。武道なども同じ。自分の「間」で、「気」を入れるとき、勝負が決する。
ニッポンキリスト教はこの「間」に対するデリカシーがほとんどない感じなのだ。もちろん信仰は、究極には「自分か、キリストか」の排他的選択を迫られる。これは一種のクライスである。が、それを超えた後はまたある種の「間」ができる。ところが教界ではこの「間」が何か人工的な作為的なものになっている。これがクリスチャンや、特に牧師たちから受ける違和感なのだ。
同じように、私の「間」にフィットする方は私のメッセージを受け入れて下さるようだが、私の「間」を嫌う人はまったく受けつけないようだ。ここにはある種の霊と魂の相互作用から生じる感受性が大いに関係するようだ。
いずれにしろ教界は「間が病んでいる」と言え、木村氏の理論によれば一種の分裂病状態と言える。
ある方がメールを下さって、このサイトでは英語の"born-again"を「再生」と直訳しているが、これはあまりにも初歩的なミスで、日本の神学では「新生」が正しい用語だから訂正されたし、とご忠告をいただいた。「はあっ?」と一瞬思いましたが、「はい、ありがとうございます」と、丁重にお返事をした。ちなみに岩波訳では「再生」と訳しているのですね。(本音:どっちでもいいじゃん)
ちなみにうちのカミさんも薬剤師として薬局で働いているのだが、「お勘定をお預かりします」と答えたら、「それは預かるじゃなくて、・・・だろ!」とマジに"クレーム"をつけた客がいたそうで・・・、こわかったと。
まあ、このキリスト教と言うギョウカイ、どうもそれぞれにシマと申しますか、一定の「何か」を共有できる領域に分かれておりまして、それぞれに方言があり、しきたりがあり、村長(むらおさ)がいて、村民の言動に目を光らせておられるようです。
ある地域には「ありのままでよい」と人気を博している村長、別の地域には「すべてはモーセ律法だ」と叫ぶ戦士、また他の地域には「クリスチャン天皇を擁立したキリスト教国家ニッポンの建国を」と旗を振る元気な衆、はたまた「日本民族一億総伝道福音化運動」を提唱する長老さんたち、これでもかと「現代の使徒・預言者による現代の宗教改革を」と旗を振る革命家たち・・・と。で、普通のオジサン・オバサンたちは何だか物も言えず、ひたすらじっと息をひそめ、窒息していると言うか、霊の息を深呼吸できないでいる。
以前から「このギョウカイは要塞化している」と感じていたが、どうもこれはマチガイナイ。モラトリアムで遊びの多い私などはとても属するところがないというか、入り込めないというか、コワイなあ、と感じるのだ。ちょうど踏み絵を踏まされる感じ。私が言う「遊び」は神学用語では「中間領域」と言うのだそうだが、ここは「普通の感覚」が支配している領域。どうもキリスト教ギョウカイから受けるコワサはこの領域を侵犯される時に生じるもののようだ。
閉鎖社会ニッポンの中の閉鎖社会ニッポン・キリスト教界。ここに属することは私的には主イエスが来られる日まで、いやその日でもできそうもないなあ〜。
山谷さんのBBSではコモン・ローの問題が再提示されてきました。で、過去ログを紹介しているので、読んでみましたが、これが実に面白い。自然科学と人文科学は一応カバーできていると思っている私ですが、社会科学はまったくの音痴です(経済学だけは数学の言語で語られますので少しは分かりますが)。が、その私にとってもかなり面白い。
ゲイリー・ノースの「Y2K世界崩壊」の外れ預言はコンピュータ・オタクの私にとっても一大記憶として鮮明に残っている。同僚の先生がエラク心配して、質問を受けたことがあったし、クランシーの小説もありましたね。しかしその背後にこれだけの思想体系が横たわっているとは・・・。
アメリカの政治システムについては鹿嶋春平太氏の『聖書が分かると世界が読める』において、共和党と民主党の本質が論じられており、けっこう面白かったが、さらに再建主義による国家建設を目指している人々があることはごく最近知った。
しかし日本においても、かつてレーガンがフリードマンのサプライサイド・エコノミクスと共に目指した「小さな政府」を志向するようになっているが、このレーガンを選出した一大勢力が新右翼思想と言われる再建主義勢力なんだとか。
こう見てくると、日本はアメリカの見える部分だけを真似しているだけとも思えてきますね。教界も、社会も。まあ、ベニー・ヒンがニッポンキリスト教の総帥となり、再建主義社会が実現するようなことはないと思いますし、そうならないことを祈りますが・・・。(考えただけでも震えます。)
カルバン主義とアルミニアン主義はプロテスタントでの大きな分裂要因であるそうだが、実はその違いは紙一重であるらしい。私自身はどちらに属すかは分からないのだが、Dr.Lukeと富井氏の差も実は紙一重。両主義についてはこちらがよくまとまっている。
・カルヴァン主義、アルミニウス主義、神のみことば
こういった議論をするのが神学だというわけだが、御言葉をこのようにニンゲンの頭に入る形で定式化した時点ですでに御言葉から離れてしまっている。ヴィトゲンシュタインは「言語は世界の映像である」と言ったが、「論」はまさに実体ではなく、映像なのだ。ところがいったん神学の定式化ができてしまうと、今度はその映像のレベルでの齟齬をめぐって議論が生じる。その際、御言葉(と主ご自身)はどこかに置き忘れられている。郡盲像をなでるが如し。対してチャック・スミスは御言葉をそのままに述べているだけ。私的には一番フィットすることは前にも述べた。
同じように、私たちの神への信仰と唯物論的共産主義は致命的に異なり、その間には絶望的なギャップがあるかのように見えるが、実はその違いは紙一重なのかもしれない。共産主義も「すべては唯一物論的に展開する」という一種の信仰だからだ。進化論も同じ。誰も見たことのない進化を、彼らは見ないで確信している。それはまさに信仰。世界を説明する映像の違いに過ぎない。
かくして私たちとの違いはその信仰の対象。だからこちらサイドからどれほどに合理的な説明をして進化論の矛盾を突いても、彼らにとっては無意味。彼ら自身が進化論には不十分な点があることは十分承知だから。日々彼らは進化のメカニズムの解明を試みているわけ。それぞれの神学の派の人たちも同じ。その枠の中で日々精進に励んでいる。
つまり進化論を選び取った時点で彼らのコースは決まっている。これは私たちの側も同じ。神を選び取った時点で私たちのコースは決まっている。神学の派も同じ。それぞれのコースに入れ込めば入れ込むほど軌道修正は困難となる。そしてそれぞれの実を結ぶに至る。しかし選び取るその瞬間にどちらを選ぶかは紙一重なのだ。ここに働くファクターは一体何なのだろう?なぜ私は神を選んだのだろうか?
ここまで来ると、私の頭はキャパを超える。一般恩寵によるのか、特殊恩寵によるのか、どうもそういった人間の言葉による"説明"はピンと来ない。ただ願うのは、時々において私が何を選ぶか、神の目から見て誤ることがないことを祈るだけ。ある人が言った:信仰とは選択である、と。
このところ再建主義の富井氏のBBSとかつて彼と激論を交わされた山谷氏のBBSを行ったり来たりしていたが、かなり面白い、そして重要な論点を拾えたと思う。
再建主義の自己矛盾的分裂病的性質はすでに明らかであるが、彼らが触れている論点はとても大切なもの。そしてニッポンキリスト教がほとんど抜けている部分である。
実は私自身も再建主義のこれほどに深刻な病理は知らなかった。人をどう理解するか、神は人に対して何をしてくださったか、また下さるのか−ここがすべての出発点。これが狂うと、聖書を用いながら、人を忘れた「神学」はある種の狂気へと走るのだ。
すでにゲイリー・ノースは「外れ預言」の前科者であるわけだが、果たして他の再建主義者たちはどのような実を刈り取り、どのような人生を送るのだろうか。これが今の私の最大の興味の中心である。
「このところ再建主義の富井氏のBBSとかつて彼と激論を交わされた山谷氏のBBSを行ったり来たりしていたが、かなり面白い、そして重要な論点を拾えたと思う」
私も、無責任ながら、面白く読ませていただいています。LUKEさんと同じように、私も再建主義には、一理あるとおもいながら(富井さんには引きながらも)、ウオッチはしていました。
ただ、行ったり来たりしていますと、山谷さんの発言は落ち着いて読めるのですが、最近のLUKEさんは、富井さんに引き倒されそうになっているのではないかと、内心ちょっとはらはらしています。LUKEさんと富井さんが何か似たもの同士のように思われるのです。
そろそろ、再建主義(というか富井さん)の病理も見えてきたことですし、LUKEさんもあまり萌えすぎないようになさった方がよいのではと、ゆったりとしたいのちの恵みへと傾いていただきたいと思います。
はい、ありがとうございます。その時期かもしれませんね。おっしゃるとおり、私が彼のことが気にかかるのは、「私」を彼の中に見るからです。ある種の親近感を覚えますし、同時に反発を覚えるアンビバレンツがあります。当初ハードコアで「対話」をはじめた時点では、共有できる期待も持っていたのです。もしかすると向こうもそうだったかも知れません。その残念さがくすぶっているのです。
正直に申しますと、これは山谷氏にも申し上げたのですが、何とか彼を再建主義からこちらサイドに戻して上げたいという気持ちがある(あった)のです。しかし現段階ではますます彼の確信を強めてしまうようです。距離のとり方は意識しているつもりです。
再建主義はある種の知的性向をもつ人々にはかなり魅力があります。生まれながらの正義感にジャストフィットし、一種の爽快感があります。現状の教会と世のあり方に不完全燃焼をして、もだえている人々には大きな魅力です。多分ニッポンでは広まることはないでしょうが、一部の人々に支持され続けるでしょうね。
山谷氏のBBSで刑法を論じるには人間理解が不可欠とのべておられます。これはとても大切なポイントです。現代科学では、霊の次元はまったく考慮されていません。つまり魂(=精神)と体の関わりまでです(精神身体医学)。
ですから今のサイエンスは霊的要素については形而上学の問題となり、その研究対象としません。ただし97年にWHOが「霊的健康」と言う概念を提示しましたから、今後は分かりません。霊まで考慮した医学が、私の提唱する「霊精神身体医学」です。
クリスチャンは霊的領域と接触を始めた存在ですから、世のサイエンティストの語る形而上学は、形而上学ではなく、十分に実体験できる領域なのです。
そして大切なのは、神は物理の次元でも法則によって、魂の次元でも法則によって(ノンクリスチャンはここまで)、そして霊の次元でも法則によって人と関わりを持たれ、人を治めます。クリスチャンにとってはこれがいのちの御霊の法則であり、モーセ律法にはなかったものです。だからモーセ律法は欠けがあり(ヘブル書)、新たにメルキゼデク系律法−いのちの御霊の法則−が導入される必要があったのです。これは十字架によります。
つまり旧約と新約では致命的な霊的相転移が起きているのです。今私たちクリスチャンを支配するのは、モーセ律法ではなく、いのちの御霊の法則であり、それは自由の律法、いのちを与えて生かす法則、キリストを私たちの内に実体化する法則なのです。あなたはどのような法則に委ねて生きていますか?
御霊に従うならばあなた方は律法の下にはいない。