最近の日記

神学という学問のレベル

神学によると宇宙は15の主権領域に分かれており、数的領域から始まって、物理的領域、生物的領域、・・・、審美的領域、信仰的領域へと展開するのだそうだ。私たちサイエンティストから見ると、何だか乱暴な意味不明の分類だなというのが実感ですね。数的領域と物理的領域を分ける???これはそもそも「数」を知らない人、また数学と物理の関係を知らない人の発想ですね(笑)

前にカルバンとアルミニウスの議論(決定論と偶然論)が無意味なものであることを指摘しましたが、やはり神学はニュートン以前と言わざるを得ないようです。これではとても自然科学者に対する弁証には成り得ません。もう少し人間の認識の限界や、認識と存在の関係などについて基礎的な勉強をしていただく必要がありましょう。

私たちからすると、神学者に、例えば原子力や医学などを任せることなどはとてもできないわけです。それはとてもコワイことであります。率直に申しまして・・・・。

Commented by 通りがかり 2006年02月05日(日)04:01

私は神学を全く知らないわけではありませんが、「神学によると宇宙は15の主権領域に分かれており」云々とは、初めて聞きました。
再建主義者をはじめ、LUKEさんの周りにいるのは、かなぁ〜り怪しい連中ばかりのような気がします。悪いウィルスに当たらないように、お祈りしてます。

Commented by Luke 2006年02月05日(日)08:04

はあ、お祈りをありがとうございます。私の「周りにいる」のではなくて、向こうから絡んでくるのですね(笑)。

そうなんですか、これって神学徒の皆様の間でも知られていないのですか?アブラハム・カイパーとか言う人の「領域主権」の概念だそうで、日本では稲垣久和氏が紹介しているようですが・・・。

私自身は神学はまったく素人でして、ただ、かじってみるとカルバンをはじめとして、相当に年代モノではあるな、と思うわけですね。人間の認識能力の性能を知らずに、自分の「思い込み」を体系化して主張しているだけのような。それでキリストの体を分裂させているわけですから。一方で高等批評とかリベラルになりますと、ほとんど霊的価値はありませんしね。

Dr.Lukeの一言映画評-ミュンヘン-

スティーブン・スピルバーグの社会派映画『ミュンヘン』。1972年9月5日、ミュンヘン・オリンピック開催中に、パレスチナゲリラによるイスラエル選手団襲撃事件が起こる。人質選手11名は全員死亡。激怒したイスラエル機密情報機関“モサド”は、秘密裏に暗殺チームを編成、首謀者11名の殺害を企てる。リーダーに任命されたアヴナーは、仲間4人とともに殺害を実行していくが、次第に自分たちの任務に疑問を感じ始めていく(以上チネッチッタの紹介文から)。

当初は娯楽ものが主体であったスピルバーグも、彼自身ユダヤ人らしいが『シンドラーのリスト』など、ユダヤ人問題による裏社会を映画化することが多くなった。ユダヤ問題はクリスチャンにとってもややこしいことになるようで、普段は理性的な人物もこのことになると感情先行型になるくらいに、ある種の霊が働くようだ。私的には関わらないほうが無難というのがこれまでの経験で得た結果。世には裏があるのだ。

ライブドアも集めた資金を手の込んだ方法であちこちに回してマネーロンダリングしていたようだが、当然に闇社会との絡みが出てくる。ホリエモンも知ってか知らずか、そのような世界と関係してしまったのだろう。あの野口氏の死も常軌を逸しているし、立花隆氏によると、地検特捜部が100名も動員する事件は10年に一度くらいのものであり、必ず政界とも絡み、かなり大掛かりな事件へと発展するであろうと予言している。

再建主義者によると国家はできる限り小さくあるべきなのだが、極論的に個人責任で犯罪などにも対応しなくてはならない世の中を考えてみてほしい。地検特捜部もなく、個人が、もっと言えば烏合の衆が、どうやってこれらの闇の犯罪に対応し得るのか。国家(たとえモーセ律法を司法適用していなくとも)があることによって、神は間接的にご自身の主権を行使しているのだ。私は大いに地検特捜部に活躍してもらいたい。

世の闇は深い。これは陰湿さと、妬みと、プライドと、自己欺瞞に満ちるニッポンキリスト教界にも言えること。あのクリスチャン議員木俣氏の事件などはかわいいものであり、現状はとてもではないが、聖なる神の霊が働ける状況ではない。霊的地検特捜部の働きがまず必要だろうと思う。

本日も・・・と思いきや

一般入試。午前2時間の試験監督。午後は16名の面接。いつもながらのワンパタン。中にはニートかつ引きこもりで、何とか自立したくて看護を志望した男性29歳という猛者も。だいたい、私たちが見ると、分裂病者や鬱病者はすぐ分かるし、対人恐怖症や引きこもりなども見当がつく。それなりの「におい」があるわけ。分かりにくいには、人格障害。これはしばらく付き合ってみないと病理が見えてこない。

その他は、まあ、いつもどおりかと思いきや、一人面白い女子がいた。看護を志望しているのだが、「その動機は」と尋ねると、「はい、祖父がむかし病気で入院して、そのときにお世話になった看護士の方が・・・」(小生の心の中で、まただよ、すばらしくって、それであこがれたんだろ・・・ところが)「祖父のことを、言うことを聞かないと張り手をしたんです。私はなんてひどい看護士なんだろって思って、こんな看護士だけにはなりたくないと思って、看護士を志望しました」。(小生心の中で、うん、座ぶとん1枚!と思いつつ・・・)「へえ、面白いね、そんな看護士がいたの?その人女性?」、「はい、そうです。」

まあね、これがネタかどうかは分かりませんが、たまにはずされるとホッとするわけで、こちらを読んでの回答だったら立派だし、真実だとしても面白いので、つい「A判定」をつけちゃいました。

キリスト業界と予備校業界

本日は一般入試。都内の某予備校を借りて、午前中2時間のテスト、午後は16名の面接と・・・。テストは丸2時間、手持ち無沙汰で、薬を飲んでいるので、ポカポカしてついうとうと。面接はいつもながらのワンパタン。試験されているのは実はこちらでして−そう忍耐のテスト・・・。

 * * *

BBSでは何だか物騒というか、「羊泥棒」なる言葉まで出てきていますが・・・。やっぱり大変ですね、このギョウカイ。自分の教会の教勢がどうのこうのとか、ごっそり引き抜いたとか、互いに相手の中傷をし合ったりとか、予備校の生徒争奪合戦みたいですよ。どうも似ているのです、ニッポンキリスト業界とニッポン予備校業界。牧師も予備校講師も共にホスト・ホステスなんですね。何とも寂しいことです。

私的には、主からの任務を下ろして、早く引退したいのですが。その日まではセルフレスな礼拝にとどまりたいわけです。しかしこれでDr.Lukeも「羊泥棒」のレッテルを貼られるのか知らん。ただでさえ、悪評判が多いというのに・・・涙。

Commented by 通りすがり 2006年02月02日(木)17:37

ニッポンキリスト教の輝かしい「VIPクラブ」の看板、「正義のモンスター」こと民主党木俣議員がホステスに暴力行為で書類送検だそうです。前の秘書給与疑惑事件では逃げたのですけどね(自分の奥様を秘書としていた)。

Commented by Luke 2006年02月02日(木)21:45

う〜ん、ニュースでもやっていましたね。まあ、VIPクラブもその参加活動の動機において、主の査定を受ける時が来ることでしょう。

長引いています

どうも気管の炎症が取れませんで,しゃべろうとすると咳き込むありさま。冷たい空気が沁みます。もともと気管支が弱く,ドッグでは必ずスバイロメーターでひっかかるのですね。要するに換気能が低いわけ。まあ,ぽつぽつといきましょう。

BBSでは「尋問された」とか,なんだかこわいことになっているようですね。一体信徒は誰のものなのでしょう。牧師先生の所有物?アブソリュートリー・ノー!イエスの羊でありましょう。そのあたりを勘違いしている御仁が多いのです。

私のメッセージを聞くと,ひとりひとりが目覚めてしまうので,そのような先生には都合が悪いのでしょう。「起こさず・眠らさず,(自分に対して)従順に・・・」の呼吸で牧するわけです。これから生まれる「リバイバル」って果たしてどんなものだと思いますか?どこか病んでいるのですね,このギョウカイ。

Commented by イザヤ・ベン・ハー 2006年02月01日(水)22:17

今度のインフルエンザは長引くようです。そうですね、一人一人が自立しないといけませんね。牧師ばかりが悪いのではなく、丸投げする信徒にも問題があるのでは?

Commented by 外科医 URL2006年02月01日(水)22:40

こんばんは.お見舞い申し上げます.長引く風邪には、西洋薬より、漢方の「竹筎温胆湯」(ちくじょうんたんとう)が良く効きます.騙す心算はありませんので是非お試し下さい.処方箋なしで購入出来ます.咽喉の違和感のみが続く場合は、「半夏厚朴湯」(はんげこうぼくとう)も悪くありません.

ようやく・・・

本日で試験も終わり。採点も終了して,あとは400名分の成績報告書を作成するのみ。これで実質的に2005年度は終了で,4月まではわりと時間が取れる。これが大学教師のいいところでして・・・。しかしインフルエンザがまだ気管に残っていて,冷たい風で狭窄を起こして苦しくなる。体力もまだ十分に戻っていない。今日も試験監督をしている間についうたた寝をしてしまった^^今晩は早く寝て,あすは少し寝ていよう。

時代の霊に逆らうこと

時代は英雄を求め、たてまつる器を拝し、強いリーダーを求めている。美しいもの、見栄えのするもの、力のあるもの、影響力のあるもの、言葉の立つもの・・・。時代のアイオーンが私たちに迫ってくる:「お前に何ができるか。この時代の霊に服し、私を拝するように。そうすれば、あなたは繁栄し、富を得、影響力を行使できるであろう」と。主イエスを誘惑したとおりに、語りかける存在がある。しかし孔子ですら言っている:

子曰、巧言令色、鮮矣仁。
(子の曰わく、巧言令色、鮮なし仁。)

先生がいわれた、「ことば上手の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、人の徳は。」

見栄えのしないもの、力のないもの、小さなもの、魅力のないもの、弱いもの−それらを顧みてくださる主の真実を求めたい。

Step Forward

一歩を踏み出すことは、もちろん、日常の生活でこれまでできないと思っていたことにチャレンジすることも、奉仕や伝道に踏み出すこともそうですが、もっとも本質的なことは、「自分から離れること」です。足りない、足りないと、求めてきた自分、傷ついて自己憐憫に閉じ篭っていた自分、その自分から一歩を出ることなのです。禅の天才道元もこう言っている:

仏道をならうとは、自己をならうなり。自己をならうとは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるいふとは、自己の身心、および侘己の身心をして脱落せしむるなり。−正法眼蔵・現成公案

この「万法」とは「自然の法則」であり、もちろん私たちの得ている「いのちの御霊の法則」ではありません。しかし私たちも自分を忘れて身心脱落するならば、いのちの御霊の法則に証せられるわけです。禅学の大家鈴木大拙は「わしはイエスが覚者であることは分かるが、聖霊と言うものはどうしても分からん」と言った。ここに禅者とキリスト者の違いがあります。

再建主義者はこのいのちを見ていないので、あくまでも廃棄されたモーセ律法の適用となるわけですが、私たちはこの法則に乗るのであれば、孔子も言っているとおり、

七十にして、心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず

となるわけです。手離しで自転車を走らせるようなものと私は喩えていますが・・・。

Commented by Sky URL2006年01月31日(火)23:51

>仏道をならうとは、自己をならうなり・・・脱落せしむるなり。
・・道元も、なかなか深いですね。

>インフルエンザがまだ気管に残っていて,冷たい風で狭窄を起こして・・。
どうぞ、ご自愛ください。お祈り致します。

One Desire

地上の幕屋に制限されている現在,その制限のゆえにパウロですらうめきをもっていたが,ひとつのことを願っている。それは一度でもいいから真に自己から離れた,セルフレスな礼拝を捧げる経験を得たいと言うこと。

Lord, I'd like to worship you solely for what You are, apart from and denying myself.

Commented by kawa 2006年01月29日(日)08:02

アーメン。真の礼拝は内から自然に湧き上がるキリストの叫びのような感があります。自分のことで精一杯の者が多い日常生活のなかで、地上で我々は既に小さな主の備え”I AM WHO I AM”を持っているから今在ることに誇りと勇気を持って今を生きていられるのではないかと思う。

真の礼拝

今のキリスト教界を見ていると、自分の必要の満たしのための礼拝、教会生活、学び、奉仕ばかりである。救世軍の山谷氏が指摘されていたが、米国のメガチャーチの成功の鍵は、あらゆる必要の満たしの設備とスタッフをそろえて置くことだ。

ここにあるのはまず神を拝する事ではなく、自分の問題解決や必要の満たしを得るために神を拝すること。つまり神を手段としている。すべての判断が「自分にとって」に基づいている。自分にとってやさしく、自分にとって益になり、自分にとって満足を与える者がGOOD。

これは特に心を病んでいる人たちに言えることであるが、彼らは自己の確立が不明確であるために、絶えず自分を受け入れ、自分を認め、自分を評価してくれる存在を求めている。この期待にこちらが沿っている間は、「Dr.Lukeは素晴らしい!」なのだが、いったんその期待をはずすならばエライことになる。お分かりになります?すべての基点が自分にあるわけ。

かくして教会ジプシーがあちこちをさまよい、様々の噂を流しつつ、このギョウカイを混乱させていく。本人自身も真の満足を得ることができないので、フラストレーションをさらに発散しつつ、悪循環に陥る。

真の満足や真の喜びは自己を離れる時に味わえる。礼拝を自己実現の手段とすることがないように。礼拝はただキリストにあって、キリストのため、キリストの満足のためのもの。自分にとってどうか―このような幼児性から一歩踏み出す必要がある。

しかしセルフ・オブセッション(自己がすべて)の今日このようなメッセージはあまり好かれないだろう。現代に主が地上におられたら、多分言われるであろう:「今人気がない者は幸いである。天において神の心を勝ち取るからだ。」

ホリエモンばかりでなく、私たちもすべてをゼロクリアして初めの一歩を踏み出す必要があるようだ。

Commented by emi 2006年01月26日(木)23:01

すべての礼拝は究極的に神とその御子の主権の認識である。それは敬虔な服従を持って生きるために御座の前に出て行き、また敬虔な服従の生活をするためにそこから出て行くという認識である。Colin Urquhart

これって、セルフ・オブセッションの全く逆ですね。

Commented by えすてる 2006年01月27日(金)19:22

セルフ・オプセッションを抜けつつある私にとって、この間のメッセージは何ともいえない腹の奥からのうめきを感じました(なんと表現していいかわからない)。1歩、踏み出さなくてはいけない何かを感じました。

Commented by kg 2006年01月28日(土)17:13

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれがまず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」。(ローマ11:33〜36)
私たちキリストのものが、ますますキリスト様だけを求め、心から自分を主に明け渡して、主に従っていけますように。ただ主だけがあがめられますように。

どうも東大出身者は・・・?

TVでかつての東大生山崎氏の光クラブ(高利貸業)、江副氏のリクルート、そして今回の堀江氏のライブドアと、歴史的な大経済犯罪事件を解説していた。キリスト教界でもある人が東大は偏差値教育で歪んだ連中が多いからだと言っていたが、ちょっと、ちょっと・・・と私などは思うのだ。確かに東大出身者が派手にして複雑な経済犯罪を起こすことはあったでしょう。が、彼らは東大出身者のごく一部の連中なのだ。統計的に見て、他の大学出身者と東大出身者の間に優位な差があるかどうか、きちんとサンプリング調査をしてから結論付けて欲しいもの。

どうも何でもかんでも偏差値教育の歪みとする人たちは、偏差値に代表される学歴に対して何か屈折したコンプレックスをいだいていますね。偏差値は実に便利なひとつの物差しなのだ。われわれはそれを利用するが、縛られてはいない。事実私などは偏差値から見たら東大合格可能性は40%だったのです。

牧師なども世の価値に縛られないとか言う人ほど、実は学歴とか社会的地位に対するコダワリを抱いているもの。実はわれわれから見るとこの手の人はすぐに分かってしまう。ニッポンキリスト教界の妬みや嫉妬などの陰湿さは、世で得られなかったものを補償的にこのギョウカイで得ようとすることによるのだろう。真に貧しくあることを喜こべないのであれば、世で大いに儲けたらよかろう。真に低くあることに満たされないのであれば、世で学歴も社会的地位も大いに得たらどうだろうか。このギョウカイでジメジメとくすぶっているよりはよほど健全であると思うのだが・・・。

Commented by 外科医 2006年01月25日(水)21:31

 医者が、脱税や青少年保護条例違反などを犯しても、面白可笑しく報道されてしまいます.
 東大の定員が何人かは知りませんが、大雑把に3000人と計算しても、10万人を遥かに超える東大生や東大卒業生が存在する筈です.同様に厚労省の資料によれば10万人以上の臨床医が存在しています.
 数人の例外的人々の逸脱行為のために、十羽一絡げに、東大は...、医者は...、国T公務員は...、先生は...、という意見が出て来ます.
「大多数の医者は、目の前の患者さんの事に汲々としているだけで、決して脱法行為の策略を思い巡らしているわけではありません.国T合格者が全員ノーパンしゃぶしゃぶで接待を受けているわけではありません.私の弟も含めて、大多数の官僚は真面目で、社会の公僕として、日々の仕事に誠実に取り組んでいます.一部の例外的な人々のために、酷い場合はN=1のケースであっても、その集団全体を代表しているかの如く言われるのは不本意です」
 ところで、以前研修医だったころ、派遣された病院近くの客員として礼拝出席していたある教会の牧師先生は、自分の教会に「外務省キャリア、東大卒の大企業の重役、弁護士、複数の医師が」いる事がご自慢でした.自己紹介した私に、自慢げに話す様子は滑稽でした.その牧師先生のアイデンティティはそんなところにあるのかなー?と話を聞いていて、何だか白けてしまった記憶があります.
 乱筆乱文をお許し下さい.

コリント後書10章15節〜 私たちは、自分の限度を越えてほかの人の働きを誇ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます。
 それは、私たちがあなたがたの向こうの地域にまで福音を宣べ伝えるためであって、決して他の人の領域でなされた働きを誇るためではないのです。
 誇る者は、主にあって誇りなさい。

Commented by ひろこ 2006年01月25日(水)22:46

品物にもピンからキリまであるように、人の中にもいろいろあり。
 10パ

Commented by ただ 2006年01月25日(水)23:01

ルークさんにあっては、牧師などは十把一絡げかと、いてみるテスト

Commented by ひろこ 2006年01月25日(水)23:31

先ほど書きかけたところでとんでどこかへいっちゃた。
コリャ困ったと驚いた。Newにはいっててまたびっくり。
心臓に悪いぞ。書くところ出てきたので
 つづきと思ったが(なくてもよいかな10ぱを消せば)
けしかたわからない。

Commented by Luke 2006年01月26日(木)08:09

コメントを書く時に、「削除キー」を設定しておいて下さい。で、上のメニュの「記事編集」で、そのキーを入れて、編集したい記事を選択してください。

堀江氏の逮捕

いざ実際になってみると、ちょっと虚脱感を覚えます。いい意味でも悪い意味でも、彼はお祭りを盛り立ててくれました。祭りの終わりの虚しさみたいな感覚を覚えております。PCゲームの目立つキャラが引っ込んでしまったような・・・。やや複雑ですね・・・。

祭りの終わりの大事な日に、イエスは立って叫んで言われた。誰でも渇いている者はわたしのもとに来て飲むが良い。

Commented by ICHIRO 2006年01月24日(火)21:12

確かに、、、(嘆息)
全裸にされて身体検査、3畳一間、暖房無し、便器丸見えの独居房、、、
あのバベルの塔の主にとって、さすがに気の毒とも思えて来ました。

お断り

堀江氏が逮捕される公算が強まりました。ここで彼の件についてイロイロ論じておりましたが、ここまで追い詰められた人物をさらに云々することは不適切な感覚を覚えますので、一連の関連カキコを削除しました。ご了承下さい。

彼がある意味で若者の希望の星であり、古い体質の日本経済に風穴を空けた功績は大いに認めたいと思います。彼はある意味で無邪気過ぎたというか、学生のノリでうまく行き過ぎてしまったのだと思います。多分、彼などよりもよほど悪を行なっている人々がいるのでしょう。この意味で私自身もきわめて残念です。

彼が償うべきものを償って、また復活する日を待ち望みたいと思います。

二宮金次郎再考

前に金次郎の徳政にふれたが、リバータリアニズムの長所(自立性)を生かし、その過酷さ(1か0か)を避ける絶妙のバランスを彼は見せたようですね。案外ややこしい政治哲学などではなく、人の情が鍵なのでは?