* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
モーグルの上村が5位、里谷は15位。原田は勘違いで200g重量が足りず失格。ああ、なんと・・・。後はフィギュアとスピードくらいか。メダルを5つと控えめの目標だったが、どうも妥当な線かもしれない。
選手のインタビューを聞いていると、大体勝てるかどうか分かってしまう。「勝つよりも楽しみたい」とか、「今回はプレッシャーもあまりない」とか言っている人はたいていうまくない。自分を見てしまっているから。フィギャアの真央ちゃんなどはただ滑るのが楽しいと言う雰囲気。自分から意識が離れている。
美空ひばりの『柔』に「勝つと思うな、思えば負けよ〜」とあるが、ポイントは自分に意識が向かないこと。心のエネルギーが自己に集中すると、体の動きのコントロールに配分されるエネルギーが損なわれる。勝負の鍵は自分から離れているかどうか。ムカデが自分の足の一本一本を気にし出したらどうなるだろうか。彼らはいのちのままに生きているから足がもつれないのだ。人間は緊張すると右手と右足を同時に出してしまうというちぐはぐに陥る。
その意味で見栄えの良い選手をクローズアップしたり、CMに起用したり、脚光を浴びせるのはまことに気の毒と思う。雅子さまと同じように、むしろ萎縮させてしまうからだ。かくしてニッポンは互いに縛りあってしまうわけ。ただ、楽しむことを許してあげたいと思うのだが。
(しかし、原田よお〜、何でだよ〜、と言いたくなった・・・)
今月号はなかなか面白い記事が目白押し。
・愚かなり、市場原理信奉者:市場至上主義者の愚かさを論じた、数学者藤原正彦氏の論考。彼は、このサイトでも紹介したことがあるが、(数学者なのに!?)論理よりも情緒を大切にする。美しい1%の情緒が99%の論理を決めると主張されるが、市場原理至上主義も情緒を置き忘れ、獣化していると批判する。これにはまったくアーメン。ジャーヘッド化した神学オツムによる論争も同じ。口角泡を飛ばすのは、内面性の空疎さの兆候。(氏は新田次郎氏の子息であり、私は新田氏とは高校は違うが同郷。)
・雅子妃、その悲痛なる決意:雅子様の病状の深刻さのレポート。これは予想を超えて深刻なようです。数日前にも指摘しましたが、秋篠宮家のオメデタは限りなく彼女の繊細な神経を傷つけますね。それにしてもマスコミの卑しい批判記事には腹が立つ。ネットで匿名に隠れて誹謗中傷が当たり前になったニッポン。人間はどこまで卑しくなれるのだろう。クリスチャンも例外ではない。
・米国vsモンゴル帝国、どっちが強い:米国とモンゴルの類似性を論じた堺屋太一氏の論考。両国は徹底した報復策と物量主義と貨幣の統一によって大帝国を打ち立てるという共通性があるが、モンゴルは膨大な財政赤字とその徳の欠如によって滅びた。果たして米国の行方は?
その他:
・堀江貴文、お子様資本主義の破綻
・日本の常識44
・辛光洙「取調べ捜査官」独占手記
などなど・・・・。760円は安いです(ちょっとCMでした)
朝起きると枕元にタオルが置いてあったので、何気に顔を洗って、そのタオルで顔を拭いた。ところがカミさんが、これで顔拭いたの?とあわてているので、どうして、と聞くと、やだ〜、これ、雑巾に使っていたのに・・・、と笑いこけている。小生、???、言葉を失い・・・参りました。
* * *
90年の対イラク戦に従軍した兵士のドキュメンタリーの映画化。大学を続けることに迷った主人公がマリーンに志願し、上官のシゴキに耐えて、狙撃兵として訓練を受けてイラクに派兵される。敵の上官を狙撃する任務を帯びて、ここぞとばかり照準を定めたときに、別の隊の上官から爆撃のために狙撃の中止命令を受ける。相棒は、なぜ撃たせてくれない!と半狂乱になって抗議するも、受け入れられず、彼らは敵を一人も殺すことなく、4ヶ月の従軍で終戦。
入れ込んだことが、目的を達成することなく無駄になり、不完全燃焼の虚無感だけが残った。まあ、人を殺さなくてすんだのであるから、普通であればそれは幸いなのだが、戦争という虚無の極致では、「目的」の達成がなされないことは、さらなる虚無を生むわけ。いや、人は正否を超えて、自分が打ち込んだものを無にしたくないわけ。そこに自己の根拠があるから。いったん入れ込めば、人は間違ったことでも、むしろ空虚であればあるほど突き進む。
現在のイラクにいる兵士たちは、果たして何のために、何を守るために、自分たちがそこにいるのか、その充実感を覚えているのだろうか、と考えた。彼らばかりでなく、人は何か実質で充実していなくては、つまり生きる手ごたえを覚えないと、生きてはいけないものなのだ。昨今のオタク文化などはまさにその空虚感を埋めるためにヴァーチャルな形で補償行為なのである。戦争などはその極致であるが、人が死ぬことは悲惨なリアリティである。
しかしクリスチャンは内にキリストがいて下さる、ただそのことのゆえに生きることができる(はず)。この方が手ごたえを下さるから。
注:「ジャーヘッド」とはマリーンの独特の丸刈りヘアスタイルのことであると同時に、「空っぽのオツム」の意味もある。空疎さの象徴。
何気なくサイトを開いてすでに丸7年。この3月で8年目に入る。この間、クリスチャンと称するいろいろな人と出会い、いろいろな意見や聖書解釈や実行を見聞きした。その印象を一言。病んでいる!健やかで満ち足りた自立的な信仰生活を送っている人があまりにも少ない。私にとって当たり前のことが、彼我にとっては当たり前ではなく、その逆も言える。
BBSで誰の声に聞くべきかとの問いかけがあるが、これは現在そして今後きわめて本質的な課題となる。イエスは言われた、「私の羊は私の声を聞き分けて、私に従う」と。また「何をどう聞くかによくよく注意せよ」とも。
現代の霊(アイオーン)の流れが、ひとつはメガチャーチに象徴される「パワー崇拝」と、ひとつは今回のイスラムの騒動に象徴される「狂信志向」(その対象が聖書であれ、コーランであれ、病理的には同じこと)である。そのどちらにも強烈なエネルギーを秘めた魂(自己・セルフ)が息づいている。前者には増長した自己、後者には傷ついた自己。心を病む人々は、弱いからではなく、強すぎるためであると前から指摘しているが、彼らは苦悩するほどの魂の鬱屈したエネルギーを蓄積しているのだ。傷つきやすい人は強烈な自己を秘めている。しかも自分の病の中に逃げ込んでいる。真に弱くされた人は、苦悩するエネルギーもない。
お分かりになります?「パワー崇拝」は自己を喜ばせ、自己を満足させるものであり、「狂信志向」は病んでいる自己が何かに自己のアイデンティティを置こうとする(すがりつきの病理)である。前者はアメリカを、後者はイスラムをあおる。この二つは自己の裏表、ネガとポジとも言える。世界が主の十字架によって真に弱くされるとき、真の平和(=キリストによる統治)が実現するが、世界は自己を低くし、自己を否む十字架を排除しようとする。<アメリカvsイスラム>対立の本質的なルーツは自己にある。いわゆる<勝ち組vs負け組>も同じこと。
キリスト教界でも、ヒューマニズム的キリスト教会は自分が負うべき十字架を語らない。なぜなら信徒が減るからである。彼らは信徒をつなぎとめておくためにきれいに飾られたキャンディボックスを提供する。ヒューマニズムを徹底的に批判する再建主義者も十字架を語らない。なぜなら彼らの統治は霊的パワーによるものだからだ。見かけは正反対であるが、実は共に自己に仕えている。
現在、われわれが直面している本質的な問題は、<自己vs十字架>と言える。もっと具体的にいえば、真のリバイバルは、教会が強くなることによるのではなく、真に弱くされる時、究極的には「死」を経るときに成就する。十字架は自己にとっては過酷なのだ。(自分の病の中に逃げている人をあえて十字架に導く必要もないとも最近は感じている。)
現代において聖霊が語るとき、それはイエスの声であり、主はこう言われる:
わたしに従いたい者は、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい。
【蛇足】霊的弁証法として、「自己をテーゼ、十字架をアンチテーゼとし、それらをアウフヘーベンするとキリスト」って言ったら、これもバルトが論じているのか知らん(笑)
長女が管理栄養士の国試に向けて準備中なのだが、実習で学校や保健所などを回っている。で、本日は老人ホーム。帰ってきた彼女、疲労感と脱力感をにじませて一言:「へこんだあ、人間って、あんなになっちゃうんだ・・・。」
私も老人ホームの現状は知っているが、普通の神経ではちょっとまいってしまう。これは精神科病棟なども同じ。大学の福祉系の学生が1,2週間の実習から帰ってくると、たいていは自分の適性と進路について考え込んでしまう。「福祉」という単語のイメージと裏腹に、現実の厳しさに参ってしまうわけ。そんな彼らに私は「それは君が普通の人だからだよ」と声をかける。
すでに25%が60歳以上のニッポン。私たちもそろそろ老後に備え、死に際に備えなくてはならない時期に入っている。発つ鳥、後を濁さず。大勢の人を呼んでの葬儀などはまっぴら。インド像のようにひっそりと自分の死に場所を用意したいと感じている。家族だけに見取られたい。
ハマスの政権に対して、ロシアはハマスの代表者に自国を訪問するように呼びかけているようだ。イスラエルはこれに反発。英米の反ハマス姿勢に対して、ロシアは独自の姿勢をとって、存在感と影響力を保とうとしている。どうもプーチンは元KGBだけあって、何を考えているか不気味だ。エゼキエル書のディスペンセイション的預言解釈によれば、ロシアはリビア、エチオピヤなどと同盟して、イスラエルに攻め込むわけ。今後の世界のキーワードは、イスラムに加えて、ロシアも入れる必要があろう。
【参考】バイブルカレッジ/真理の探究コース:「預言とその成就」をご参照下さい。
どうも咳が止まらない。気管に炎症が残っているようだ。私の義兄も医師であるが、同じ症状で1ヶ月きているようで、診察の時も患者さんに気を遣って大変らしい。で、気管支を拡張するクスリを処方されたのですが、これは動悸の副作用とともに、どうも筋肉弛緩効果もあるようで、手足が震える(筋肉が疲れた時のように「笑う」)のですね。年寄りみたいに、足腰がふらつき、手の細かいコントロールができないのです。キーボードも打ち間違えてばかり・・・(パーキンソンの人たちの苦しみが少し分かるか・・・)
* * *
ムハンマドを風刺した漫画の掲載をめぐって、デンマークにはじまったイスラムの暴動は、世界的に広がりを見せている。彼らにとっては、人間の作った憲法に基づく「表現の自由」などは一切認められず、あくまでも最高の預言者ムハンマドによる神の言葉であるコーランがすべての法律に優先するわけ。つまりムハンマドへの批判は神への冒涜となる。
信仰のない人々でも殺人や盗みは悪いことと知っているわけだが、これはローマ2:14-15にあるとおり、生まれつきの人の中にも良心として律法が書き付けられているからに他ならない。これがいわゆる自然法の根拠であり、これを明文化する時に法律ができる。対してイスラムでは、殺人や盗みが悪いのは、神の命令であるコーランが禁じているからである。が、ムハンマドを冒涜する者は、(私の大学にもそのご夫人がおられるが)、『悪魔の詩』を翻訳しただけで首を切られたI助教授のような運命を辿る。
このあたりは自然法を一切認めない再建主義と酷似している(まあ、彼らが殺人を実行することはないであろうが)。再建主義でも殺人や盗みが悪いのは、良心の問題と言うよりは、モーセ律法が禁じているからである。今、再建主義の富井氏の掲示板に、「再建主義に批判的な人の閲覧を禁じる」と大書されてあるが(自分が金を払って再建主義啓蒙のために主催しているサイトだからだそうが、ネットでこう主張されるのもいかがなものか・・・。IDの必要なClosedなBBSにでもしたらよかろうと思うが)、そう、彼の反応とイスラムの反応はそっくりである。
一方でパレスチナでは、テロ活動をしていたハマスが政権を取りそうな気配で、パレスチナ自治政府のアッバス議長と緊張関係が生まれた。イスラム勢力のパレスチナの中でも分裂が始まるようで、中東和平は危ういことになってきた。NHK「クローズアップ現代」でもレポートされていたが、ハマスは、互いに意地の張り合いになっていることは認めつつ、あくまでも問題はイスラエルの側にあると主張している。対してイスラエルは車椅子の老人であるヤシン師をミサイルで暗殺する(!)というパラノイドに陥っている。
お分かりになりますか?いずれもビョウキなのですね。これからの世界のキーワードはイスラムである。
イスラムも再建主義も、ルークさんがよく言われる自然さを損なっているわけですね。
どちらもどんなに言葉上正しいことを主張しても、何か受け入れ難い違和感があります。
でも聖霊派あたりもベニー・ヒンだの、チョウ・ヨンギだのを、モーセ律法やコーランにしているような、、、笑
こんにちは。(もう回復されたかもしれませんが・・・。)長引く咳の場合、次の漢方薬が良く効くことがあります。効く人には、かなり良く効きます。
@咳にタン(痰)を伴う場合には→「小青竜湯:ショウセイリュウトウ」
A咳にタンを伴わない場合には→「麦門冬湯:バクモンドウトウ」
私も時々処方しますが、一般にあまり副作用はありません。(漢方なので、効果が現れるまでに何日間か要することもあります。)ご回復をお祈りします。
2月6日(月)から7日(火)においてFaith03のDVDを注文された姉妹へお願いがあります。PCの不調にてメールが飛んでしまいました。住所などが不明となりましたので、再度ご注文をいただけませんでしょうか?よろしくお願いいたします。
Commented by (匿名にします) 2006年02月09日(木)20:22お知らせありがとうございます、
再度、メールフォームから注文しました。
紀子さまが懐妊したのは、まさか避妊の失敗ではないでしょうから、秋篠宮は天皇制のあり方を意識してのことではないかと推測されますね。まして紀子さまも39歳とギリギリの線なわけですから。
で、もしこれが男児だったとすると、いや、そうではくても、雅子さまの立場はますます厳しいものとなってしまうでしょう。彼女はアイデンティティ・クライシス(私っていったい何なの?)による鬱病と推測されますから、ますます追い詰めることになります。下手をすると人前に出られなくなりますね。
カインとアベルに始まった兄弟間の確執はあの兄弟にもそれなりのものがあるようですから、なかなかこれは一筋縄ではいかない事態に立ち入りそうな感じがしております。
秋篠宮家にコウノトリが飛来したとのこと。このタイミングで実におめでたい。男だったらこれはグッドタイミング(なんだかそんな予感がするが・・・)。天皇は万系一世、つまり男系できたわけで、私的にはぜひ守ってもらいたいと感じている。つまりY遺伝子を連綿とつなげて来たわけ。おいおい、クリスチャンが天皇制を擁護するのかと、一部の過激な人々はおっしゃるでしょうが、私たちは良心と信仰に反することを強要されない限り、どのような国体の下でも生きることができる。
一方で、一部では万系一世の天皇家にはユダヤの血が流れており、大いなる神のご計画が封印されていると説く方々もいる。確かにロマンがあるが、仮に天皇家にユダヤの血があっても、霊的にはなんら変わりはない。私たちは淡々と今得ているいのちの道を歩むだけ。もし女系を許せば、Y遺伝子が断絶するわけで、彼らにとっても困ることであろう。
Y遺伝子ははたしてどこへ向かうのだろうか?
ジョン・ウー監督、ジョン・トラボルタ(刑事)、ニコラス・ケイジ(凶悪犯)主演の映画『フェイス・オフ』は、二人が顔を交換すると言う奇想天外な話なのだが、このたびフランスで、飼い犬に顔を食いちぎられた女性が他人の顔を移植する手術を受けたとか!?
驚きました。まさに映画そのもの。しかし顔の筋肉は顔面神経の複雑な支配を受けていますから、その神経を新しい他人の顔の筋肉に植え込むことができるのでしょうか?テレビでは現在のところ表情がないですが、リハビリをするとのこと。
再生医学の分野では、コーンからつくったコラーゲンの土台に細胞を植え込んで、骨とか、皮膚を人工的に合成できるようになっていますが、それに比例していよいよ人間の肉体も単なるモノとみなされていくのでしょう。なんとも複雑なニュースではありました。
昨日の独り言にいろいろなメールによるご意見や証をいただきました。そのひとつに「魂を否む」とはどういう意味ですか、とありました。これはよく勘違いされるところで、下手をするとクルシチャンを生み出します。「自我を十字架につけて〜」というエキセントリックな説教になるわけです。
みなさんは風邪の引き始めの状態をご存知ですね。体がかったるく、ほわ〜っとして、ある種気持ちがいいのです。この時って、普段よりも心が穏やかになりませんか?これが魂を否むことです。この時には内的精神的エネルギー(たぶん生理的現象と関係しています)が風邪のために弱くされているのです。そこで魂の中に注ぎ込まれるエネルギーのレベルが落ちているのです。これが独特の平安と安らぎを生み出します。でも魂の機能は損なわれていません。私は私ですし、好みもありますし、物事も考えていますし。パウロとヨハネの文書の味わいが違うように、それぞれの魂の形は違ってよいのです。
お分かりになりますか?魂のエネルギーが落ちること、そのときに御霊の霊のエネルギーが魂を駆動するのです。魂の機能そのものは壊れることもありませんし、むしろもっと豊かに機能します。知性はクリアにされ、感情は豊かに、意志はやわらかくなります。魂を否むとは、私がなくなったり、別人格になるわけではありません。だからパウロは、
もはや生きているのは私ではなく、キリストである。今、肉にあって生きている私は、神の子の信仰によって生きている(ガラテヤ2:20)
と証しています。生きているのは私ではないのに、肉にあって私も生きているのです!御言葉を勝手に読み込んで、勝手な解釈(特に日本人は儒教あたりの匂いが強いです)で、自ら苦しめて、ビョウキに落ちているケースがあまりにも多いのです。その一方で、その反動かのように「ありのままのあなたでよい。すべては受け入れられている」式の砂糖まぶし的ヒーリング・ミニストリーがはやっています。そこには真の十字架がありません。十字架は魂のエネルギーを霊のエネルギーに切り替える働きをするのです。
ニッポンキリスト教という業界と関わるようになって、すでに丸7年が経過した。で、よくよく分かったことは、心に病を持つ人が実に多いと言うこと。彼らは心が弱いのではなく、実は魂の力が強すぎるわけ。欝病者なども、実に落ち込んで自己評価が低いときと、逆に増長して自己肥大を起こすときを繰り返すが、彼らの魂の中には鬱屈したエネルギーが充満している。自分でもそれを持て余すわけ。自分のことが自分で処理できない。
それから人格障害。特に自己愛性や境界領域性、そして妄想性の障害が実に多い。いわゆる教役者で、預言だの、悪霊追い出しだのに入れ込む人は、妄想性+虚言症の人が多い。信徒あたりでも、変に神学に入れ込んでいたり、霊的知識があったりすると、妄想と知識が渾然一体となってくる。
前にもちょっと書いたが、彼らはだいたい一目見ればその風貌や表情や物腰から容易に判断がつくが、彼らの特徴のひとつがすべてを自己を基準とすること。自分にとってどうか、自分をどう扱うか、自分をどう評価するか。
彼らに対して十字架を取ることや、魂を否むことを期待することはほとんど無理のようだ。ここでいわゆるヒーリングが繁盛するわけ。この業界でいかがわしい商売をしようとすれば、いくらでもできることも分かった。人は幼稚なことや馬鹿げたことにけっこう金を惜しまないからだ。自分を救うためには。
一方で見栄えのするもの、力のあるものなどの、肉を喜ばすパン種で空虚に膨れただけのところもある。いやはや、現状はリバイバルどころではありません、サバイバルなのです。ニッポンキリスト教は。
かくして私たちは、古いパン種や悪意および邪悪のパン種をもってではなく、むしろパン種の入っていない純粋さと真理とのパンでもって、祭りを祝おうではないか。
老子でしたか、荘子でしたか、「自分を知り、敵を知れば、百戦危からず」と言ったのは。私たちサイエンティストはつねに自分の認識し得る能力と射程を意識しながら、物事に当たるのですね。
「学」とは、「何か」を客観的に対象化して説明することなのですが、実は物理の最前線では、この客観化がなし得ないわけです。すでに主観と客観の線引きができない領域に立ち至っているわけです。ここで前に述べたような、カオス理論や、量子力学における観測の限界を与える不完全性原理や、論理自体の限界を与えるゲーデルの不完全性公理などが発見されているわけです。
ところが神学では、すべての創造主なる神を客観化して説明しようとする!?われわれからすると何と大胆と言うか、無理なことをするものぞ、と感じるわけです。もっと言えば、ドン・キホーテ。時空間を超え、われわれの知性のフレームを超えている存在を、われわれの認識の中に収めようとしている。
神学の最も根源的な問題はですね、人間を知らないこと、なのです。デジカメで画素数がいくらかを知ることは、デジカメがリアリティをどれだけ正確に写し取ることができるか、つまりその性能を決定する最も本質的な要素でしょう?ちなみに私たちの視覚だって、すでに相当に騙されているわけ。だからマリックさんやセロさんたちが商売できるわけです。
自分を省みることができない人、自分を知らない人は、病んでいる人です。人から批判を受ける時、私は「ああ、この人の心にはこう写っているのだな」と見るわけです。つまりその人の心の平面が平面ではなく、相当に歪んでいるわけ。で、このような心から生まれる「学」ははたしてどのようなものになることでしょう。神学オツムの方々にはぜひその辺を再考していただきたいと感じている次第です。
(ちょっと話が逸れますが)「自分を知ること」の重要性必要性を、私も痛感しております。自己評価がある程度できているならば、結果的に自分と他者の良心を守ることができるのではないかと思います。(もちろん主にあってですが)
また、自己評価ができるようになると、同時に他人に対しても「この人はどういう人なのか」を深く考えられるようになるのではないかと思っています。
ルークさんは、一貫して「自己の魂を否む(自己の十字架を背負う)」ことを伝えておられます。評価ができるということは、視点を多く持っているということだと思います。自分を降ろしているかどうかということは、人を鋭く見抜く視点であり真理だと思います。
ただ・・・自分を知る時っていうのは、大失敗したり大恥をかいたりする時が多くないですか?(^^;)
>自分を知る時っていうのは、大失敗したり大恥をかいたりする時が多くないですか?(^^;)
おっしゃるとおりですね。私たちは自分の気になる何かには敏感でも、自分の本質的な部分については、ある意味できわめて鈍感ですから。
ご指摘をいただきました。これは孫子の言葉ですね。ありがとうございました。