* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
N兄弟の娘さんの個展に招待されてきました。イイですね、家族でこういった企画ができることは。十何年ぶりで息子さんにも会えて、分かりませんでした。しかし面影があって、ふとあの時代にまたまたタイムスリップ。ややウルウルでした。時はまさに芸術家です。
会場は目白にあるジャズ喫茶ですが、ここにはヒロノミヤさまもお忍びで来られるとか。何しろ学習院大の真ん前ですから。毛糸で作るジオラマですね。夢のある世界です。サイトがまだないのでご紹介できないのですが、いずれ。
主は私の不信仰を超えて、真実です!
下に書いたディスペンと再建主義のコメントが、またまたえらく富井さんの不興を買ってしまったようですね(汗)。どうも彼らは他人の文章を読めないようです。言ってもないことを勝手に「理解」する人たちのようです。私は神学は知りませんと言っていますし、だから彼を理解したかったのですけどね・・・。
それにしてもここの文章を部分的に勝手にコピペして批判すると言った普通の常識的礼儀に反することを、モーセ律法を守れという人たちがなぜするのでしょうね。富井さんに対する根本的な疑問です。
本質的に「モーセ律法=いのちの御霊の法則」とする人とは超えられない溝があるようで、Dr.Lukeは「リベラルでクリスチャンではない」と断罪されております、やれやれ。
すでに論点が見えてしまっていますので、あえてこれ以上は争うつもりはないですが、それにしても偏執気質です。私などが何を言っても、再建主義が真理ならば、何も動じないでしょうに?
ちなみに再建主義では、「神の敵(=自分たちに従わない人々)を呪う務めを礼拝の中で回復せよ」と言っているそうです。再建主義だけが真理ですから、それを受け入れなければ神の敵となります!コワイことです。
なお、再建主義について詳しく知りたい方は救世軍の山谷氏のBBSをご覧下さい。いろいろな情報と学びが得られます:
http://bbs.infoseek.co.jp/Board01?user=makotoyamaya-lj
山谷氏がここで再建主義者のために祝福を祈ろうと提言していることに大いに賛同します。私も再建主義に対しては警鐘を鳴らすと同時に、彼らが呪いを祈るならば、私は彼らのために祝福ととりなしの祈りをしたいと思います。
神学論争って接待カラオケの世界のように思えてきました(汗)。
そもそも他人の歌なんて始めから聞く気など無く、他人が歌っている間は次に「自分が」歌いたい曲を歌集をめくりつつ探す時間に過ぎない。(聞いてるふりをしながら「コイツのウタ、はやく終わらないかナ〜」なんて思っている)
そのくせ、「自分が」歌っている時に他人にはタンバリン・マラカスによる「セッション」であったり、「フイフ〜イ♪」等を要求する。(汗汗・・でも仕事のため)
再建主義者の「のど」対して、LUKEさんは上手にマラカスを振っていたという印象が個人的にはあるのですが、それでもダメとは・・・世の接待カラオケよりも複雑な世界ですね(冷汗)。う〜〜む。
まあ、今回は論争ではないと思いますね。富井さんも利用されている可能性もあります。私に対して一物持っている人が、富井さんを煽っていることもあり得ます。彼はああいった一途な性格ですから、ある意味でマニュピレートすることは簡単です。山谷氏と論争の時も裏で煽っているキャラがあったでしょう。でも、時には罠と分かっていても敵地に入る必要がある場合もありますけどね。今回はその必要はないですね。
素朴な疑問:神を知るのに理系とか文系とか関係あるのか知らん^^
Salt氏が紹介してくれている人形作家の作品です。感動しました。何だかウルウルしますね:
故郷のたからもの−高橋まゆみ創作人形の世界-
また前にも紹介しましたが、私の義姉がお世話している人形作家の与勇輝氏の作品も紹介します。高橋氏が老人ならば、与氏は子供たちです:
河口湖ミューズ館−与勇輝館−
そしてBBSにも出て下さるアイルランドの夢見さんのサイトもご紹介しましょう:
The Baby Fairies
サラ・ジェインちゃんの奇跡の証しはこちらをどうぞ。
いのちの温もりって何だか感動しますね。歳取ったせいか、やたらとウルウルするようになってしまいました。
午前中はプールとサウナ。午後はカミさんとチネチッタで映画。街頭販売で実に美味いチーズとワインをgetする。このチーズ、発酵が強くて、ワインと一緒に口の中で溶かすと最高。
映画は"Big Comic Original" 連載の西岸良平氏の『三丁目の夕日』。一言、よかったあ〜。前半は間伸びしている感じでしたが、後半はウルウルでして、とても純粋なカタルシスを味わえます。原作は私が学生時代から連載されているコミックです。
背景は東京タワーができつつあった昭和33年。売れない作家と、借金のカタに身を売る娘の不器用な切ない恋愛に、孤児をはさんで、頑固一徹の鈴木モーター一家のどたばたを交えての、貧しい中での温かい人情があふれる、ちょっと甘酸っぱく、切ない物語。見えない婚約指輪が泣けた。
セットが当時の物を実によく再現しており、あまりの懐かしさにタイムスリップした感じ。私が幼少期を過ごした東京大森の下町もあんな感じだったかなと。鈴木モーターが自動車の修理工場で、ミゼットの三輪車で仕事しているわけで、私の親父も同じ仕事をしていたので、やや感傷が入り込んでしまいました。
当時はタリウムを母親に飲ます女子高生も、ストーカー的に相手の喉を切る男子高生も、女子小学生を殺してダンボールに入れる人間も、援助交際も、出会い系サイトも、一切なかったわけで・・・。品はなく、粗暴で、金も地位もなくても、人間として最も大切な「何か」、「素」というか、「純朴さ」というか、ヴォキャブラリーが不足でイイ単語を思いつかないが、少なくとも今のニッポンが失った"something"があったのだ。そう、生きている、だ!
そしてそれはジメっと陰湿なニッポンキリスト教でもすでに失われて久しいモノ。正しい神学に、壮麗な教会で、リッパなセンセイの元にいて、日曜日ごとにニコニコ作り笑顔しながら、「何かが変」、「何かが違う」とお感じの、ニッポンキリスト教にあって違和感を覚えている兄弟姉妹方に100%お薦めできます。
おおっ、これは奇遇。私も観ました。
漫画の連載も知っていますが、映像がよかった。
青春時代から読んでいたおじさんも泣けました。
周りでもティッシュでクシュクシュしていましたし。
客層もなるほどの人たちでしたが、若い人もけっこう、、。
ラストの「明日も明後日も、50年後の夕日も、ずっと綺麗だよ」、、、
ジーンとして、終わっても余韻に浸りました。
山崎豊子の「大地の子」と共におじさんたちが泣ける映画ですね。
それはジーザスのみ。人から裏切られた、傷つけられた、失望したなどなどは、自身の心の置き所を探られるチャンス。自らを省みて、これができるのが大人の兆候。
この岩に拠り頼む者は失望に終わることはない。
しかし、今のリッパな先生たちは、人々を自分や自分のミニストリーへと引き寄せようとしてる。で、信徒たちも目に見えるものに拠りかかりたい。Co-Dependence。これが諸問題のルーツ。
Dr.Lukeに期待する者は間違いなく失望します。というか、私はそういった感覚を寄せられることはたまらなくうっとおしいのですね。とにかく自由でいたいのです。
今回の事件は他人事ではないですね。文春の今週号によると、この姉歯という建築士はちょっとオツムがおかしいとの当事者の証言がある。あの髪の毛も偽造らしいが、それはともかくとして、強度を6-70%程度にするのはまだ理解できるが(イイと言っているのではないですよ)、30%で自然崩壊もあり得るとは、インチキをするにしても尋常ではない。確かにTVで観るアノ現実感と当事者意識の欠如は、何となくベールの向うにいる人の感じがする。それに一級建築士の自宅にしては、破れた窓がビニールで、ゴミも散乱しているらしい。
多分構造設計という分野は下積みのパッとしない役割で、コストダウンを迫られて、かなり抑圧されているのかもしれない。人は希望もなく、そのような環境に置かれると、やはり心を病む。本当は最も大切な役割なのだが、人はデザインとか、内装とか、衆目の注がれる部分の仕事を優先するのだろう。文春の記事では、エントランスが大理石で立派な物件は危ないと警鐘を鳴らしていた。キリスト教界も同じ。人の目に見える部分を大事にするセンセイは多いが、見えない土台にはあまり関心を払わない。偽造教会設計書に基づいた教会建造がなされていないといいのだが・・・。
ど根性野菜がアチコチで話題になっているが、植物の魅力は人が見ていようと、見ていまいと、そのいのちに従って、いのちの表現を発揮すること。いのちのポテンシャルに従った自然な生き方ができれば幸い。私たちはそのような自然ないのちを生きるために、絶えずキリストと言うまことの希望に目を置き続ける必要がある。
と言う懐かしい作品がありましたね。私的には、「キョウカイの中の懲りない面々」と言いたいかな?よくやってますよ、このニッポンキリスト教という閉塞したギョウカイで。「リバイバル」なる幻想を追い求めて。もうビョウキの人の相手も、立派なセンセイとの関わりもご遠慮したいところがホンネ。勝手にやって下さい、と。(ニッポンキリスト教からエクソダスしたい方には援助を惜しみませんが。)
BBSでタバコとアルコールの話が出てきましたが、よく電話をいただくのですね。くら〜い声で、「私、実は酒が止められなくて、教会に行くと責められるようで、苦しくて仕方ないんですが・・・」と。有名な教会の方々です。
まことにお気の毒ですが、アディクションは止めようとして、挫折して、自分を責めるほどに深くはまるもの。根底に満足がないのです。クリスチャンにとってタバコやアルコールがOKかNOかは本質ではありません。本質は渇くことのないキリストの水を飲むこと、満足すること、です。
* * *
しかし、早いもの。あと1ヶ月で今年も終わり。そろそろ体も疲れが溜まってきて、温泉がチラチラとし出しました。そう、Dr.Lukeは温泉がないとやっていけません。おいおい、キリストで満たされたら、そんなもの不要になるんじゃないの?・・・こう思った方、ニッポンキリスト教にマインドコントロールされていますよ。それは宗教です。この肉体は旧創造のもの。適切なメンテが要るのです。
とにかく何を言われようとも、自分とキリストとの関係を維持しつつ、楽しく生きることですね。かくして迫害で殺されることも究極のエクスタシーなのでしょう。妄想を持っている人には殺されたくありませんが(笑)
あースミマセン、また共感してしまいました(笑)
リバイバルのことも、お酒のことも、温泉のことも、全部に。
私たちにとって神の言葉である聖書が最も大切なのは言うまでもありませんが、もっとこう人間の理性や、世の中の常識に照らし合わせて、健全か不健全か、という見方をしていく必要もあると思います。それができなくなってしまっているニッポンキリスト教の方々がおかしいわけで・・・歪んでますよね、本当に。極端な言い方をすれば、ニッポンキリスト教なんてどーでもいい、と開き直って悩むことをやめたとき、本当に生きたイエス様と出会っていけると思います。無理して彼らと関わろうとするとき、こちらも負のエネルギーを背負い込んでしまうような、そんな体験を私自身もしたことがあります。でもそれは常識的に考えて、健全なことではない。だからやめました。ビョーキになって当たり前の世界に身を置きながら、大騒ぎして「癒し」のために祈ることも、やめた方がいいんでしょうねー。
お酒も温泉も大好きですが、イエス様が一番好きです。もうそれだけで十分。
そうですね、シンプルがイイ。
実はこの常識と律法の関係が、ディスペンセイションと再建主義の論争の本質なんですね。普通クリスチャンの私たちも、いわゆる常識とか当たり前の価値観を元に何気に生きているわけです。まあ、これを自然法と言うわけで、この最低限を明文化すると法律となるわけです。私たちもこの世の常識や法律を信頼しているわけです。
ところが再建主義者は人間は徹底的に堕落しているから、それらを信用することはできない、だから旧約の律法をそのまま司法律法(=普通の法律)として現代社会に対しても適用せよと言うわけです。人間に対する基本的信頼が欠如しています。彼らは逆に人間性に信頼することはヒューマニズムと言って批判するわけですね。ま、一言で言えば、人間性疎外です。
お分かりになります?別に再建主義ではなくても、こういった普通の常識や価値観を無視して、教会的な価値観で物事を判断する人たちがいるわけですね。医者も駄目、薬も駄目といった超霊的な人々が。しばしばそれが御言葉を超えた自分達の霊的価値観なわけです。
こうして人間として生まれつき持っている価値観を壊して、自分達の価値観を植え込んでいくわけです。これがカルトの出発点です。人間は元々神の形に作られた者。神的な価値観を持ち、自律して判断し、行動できる存在なわけです。こういった人間と神の関わりを一般恩恵と言うわけですが、ノンクリスチャンもそれに与ることができるわけです。だから社会が一応正常に機能するわけですね。対して特殊恩恵は信仰によるクリスチャンだけのものです(=永遠のいのちを得ること)。
かくして教界の諸問題は、先に繰り広げられたディスペンと再建主義の論争と本質的には同じわけです。で、そのような重苦しい雰囲気を人に媚びる笑いで打破しようとする先生たちもいるわけです。でもね、それは吉本に任せたほうが、と思うんですけど・・・^^。
私的には多かれ少なかれ、ニッポンキリスト教は閉じた特殊な世界であると判断しています。もっと言えば、とても健やかさとか健全さからは離れてしまっています。関わるとそのビョウキの影響を少なからず受けてしまいますね。
聖とは人になることです。当たり前を当たり前に、普通のおじさんとおばさんとして生きること。神は人になってくださったのですから。
どうもありがとうございます。
おっしゃってること、よーく分かります。何もあえて付け加える必要もありません。分かりすぎるくらいに、分かります。
本来なら信仰を持つことによって、失われた自分を取り戻すことができるはず、というかそうでなけれなならない。なのに、現実はその逆で、より深いところに迷い込んでいく人が多い。本来ノンクリスチャンでも持っているような判断力さえ失ってしまう。そう、普通でなくなってしまうのですよね。
これ以上書くと切なくなってくるのでやめましょう。
でも非常に分かりやすいご説明を、どうもありがとうございました。感動しました!
はつえさま、はじめまして。
>切なくなってくる
と伺って、ずいぶん大変なところを通られたのかな?と。
どうぞ、イエスにあって、休んでくださいね。
ありがとうございます。
私は大丈夫ですよ。
ただ大丈夫ではない人が多くいる現状が切ないな、と感じるだけです。
昨晩、N兄弟から直接に電話をいただいたとき、回復が順調なのももちろんのこと、彼の心が実に柔らかくほぐされていることがすぐに分かった。この瞬間、主をほめたたえることができた。
彼の娘さんが編み物の個展を開くので、今度の日曜日の午前中に行って来ることになった。アノのび太君の森永卓郎氏もラジオで「天才少女だ」と宣伝してくれているらしい。
福島で山篭中のS兄弟とも電話で交わり共に主を賛美した。12月に温泉の前に彼の元に泊まりに出かける予定。来年50を迎えて、もう人生の秋かなとも感じているが、どんな実を刈り取ることになるだろうか。健やかな死に備えた歩みをしたいと願う。
(写真は福島県裏磐梯)
皆さんにお祈りに覚えていただいたN兄弟ですが、その後順調に回復していると電話をもらいました。47`だった体重も61`まで戻っているとのこと。奇跡的です。主に感謝です。後は再発と転移に注意して行くことですが、引き続き覚えて下さると感謝です。
Commented by 愛知県のさっちゃん Eメール 2005年11月23日(水)07:41ハレルヤ!!!主の御名はほむべきかな!
主は祈りを聞かれるお方!アーメン!!
すごく嬉しいヾ(^▽^*)ノ
ルークさん、お証を感謝いたします。
わたしの大切な姉妹も今、転移した癌と闘っています。
化学療法による治療の、激しいほどの吐き気の中で、深い平安に支えられていることを証ししてくださいました。
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」ヨハネ1:5
どんなに闇が深くても、なお輝く光が与えられていること、このお方のいのちが私たちの内に与えられた光。その素晴らしさを思う時、胸がいっぱいになります。
Y姉のためにもお祈りくださると幸いです。
はい、感謝します。その方のこと覚えておりますよ^^
God IS GOOD!!!
が間もなく終了らしい。今日は再放送で、日産に吸収される前のプリンスのドラマ。零戦を創った男たちが翼をもがれて、地上の星となるまで苦闘。私はなぜかこの手のものは好きでして、ついジーンとするわけです。
昨今の、何も創ることなく、金に物を言わせて、買収だの、乗っ取りだのは好きではありません。また巨人のように人が育てた選手を金で取ってきてメンツだけはそろえても、いざとなると清原みたいな仕打ちをするのも気分が悪い。
野村やヴァレンタインみたいにボロ選手を育ててチームを盛り上げるタイプに惹かれるわけです。何を隠そう、神もわれわれのようなボロを拾い上げてくださり、御子の栄光に与る日まで大切に叱咤激励して育てて下さるのです。
今MSGで話している幕屋は神の御心の模型で、実に良く設計されている。それも当然で、宇宙のデザイナーである神が心を込めたものであるから。強度についてもしっかりと計算されており、その土台も2つの銀の台座、つまり神の約束と誓いによる贖いであり、この土台を崩すことはできない。チャペルではコンピューター・グラフィクスを用いてヴィジュアルに解説している。
ところが昨今一級建築士ともあろう人が強度計算書を偽造して、求められる強度の30%程度のマンションが十数棟も建っているとのこと。実に背筋が寒くなる話である。ちなみにわが家は13階建てマンションの1階であると同時に、10階なのだ。分かります?何となく心配にもなってきたが、まあ、この構造ならば倒壊することはあり得ないので、大丈夫だろうと。
くれぐれも設計・施工者を選ばないと。民営化が叫ばれている折、何とも何をよすがにすればよいのか。韓国でデパートが一瞬で崩壊した事故があったが、あれは他人事ではないわけ。いかにニッポンはあぶなかっしい土台の上に建てられていることか・・・。
この機会に私たちの信仰もその土台を再点検する必要があろう。油注ぎの器だの、立派なセンセイや、特定の教えや実行、あるいは主義や神学の上に建てているならば、いつか崩壊する。私たちの土台はただひとつ、キリストのみ。また神が家を建てるのでなければ虚しいともある。人の浅知恵で建てた木・草・藁の家は焼かれてしまう。
今回の被害者には気の毒だが、幕屋の話をしていて、何ともタイムリーなニュースではある。
もうダメかと思っていました。年齢も33歳。引き際をわきわまえた方が・・・と今朝まで思っていました。
立派ですね。2年前に負けた坂の前からスパートをかけると。「あの坂に負けたくないという気持ちは持っていた。自分自身の思い出との戦いだった」と。
女々しいクリチャンたち特有の自己憐憫の一片もない。人が悪い、人が自分に何した、あの人に傷つけられ、あの人に裏切られ・・・。自分を省みることができず、自分から脱することができない人々の群れ。
このジメジメ感がキョウカイの現状だが、Qちゃんの清々しさにホッとする感覚をいただいた。次のオリンピックでもう一度勝たせてあげたいと期待も膨らむ・・・。
先日掲示板に書き込みした、はるえです。こんにちは。
>女々しいクリチャンたち特有の自己憐憫の一片もない。
私も彼女のインタビューをテレビで見て、同じことを感じました!ああいう女性が(男性でも)教会いると、それこそ「ここに救いがある」とノンクリスチャンも直感的に感じられるんではないですかねー。現状は、もっと暗くてジメジメして、顔が引きつってる人も多いですから、なんだかいるだけで血流が悪くなりそうですが・・・。
みなさん、「リバイバル」のためにアレコレ試行錯誤して信徒を増やそうとしていますが、なんだか無理してヘッドカウントを増やそうとしているだけに見えてしまいます。その前に、もうすでにクリスチャンになっている人たちが、本当に「救われる」信仰をもっているか、喜びを内側にもっているか、ということをよく吟味してみる必要があると思えてなりません。ヘッドカウントを増やすことがリバイバルだなんて、思えません。
きゃーすみません、また発散してしまいました♪
あまりにも共感してしまったので、つい(笑)
こんにちわ。
おっしゃるとおりですね。「リバイバル」の意味をはきちがえているわけで・・・。私的には牧師の野心としか見えないのです。ああ、またこれで異端だ・カルトだと言われるなあ〜。
私たちの歩みは、結局は人が云々ではなく、キリストと自分にどれだけ向き合うかなんですね。で、キリストは増加し、自分は減少するのが信仰です。ところが自分を肥大化したいセンセイたち、自分を憐れむ信徒たちの縺れ合い、右を向いても、左を見ても、と。いずれも幼児性の方々がかなり多いわけでして・・・。一般社会の率を超えますね。
いつもながらSalt氏がピッタリ表現して下さっています:
「長距離ランナーの孤独」
http://sakura.huua.com/cgi-bin/diary04/cdiary.cgi?room=ikemoto7
新宿は歌舞伎町のホストクラブや飲食店のドキュメンタリーを見た。まさに生き馬の目を抜く世界。実はウチの娘たちもヨコハマあたりではスカウトから度々声をかけられるらしい。そして何と息子まで、川崎に参考書を買いに出かけたら、ホストクラブのスカウトから声をかけられたとか!?
それにしても彼らの悲喜こもごもを見ると、何かおかしさを覚える。あのギョウカイでNo.1を取って、成功して、いったい何なかと。しかしそのギョウカイの人にとっては死活問題なのだ。ギョウカイとはどこもそんなもの。自分の価値をそのギョウカイの物差しで測るわけ。
で、実はニッポンキリスト教も同じ。多額の借金をして立派な礼拝堂を建て、信徒数云千名が勲章となる。「十分ごとに笑いを取る説教を学ぶセミナー」に200人もの先生が集まるとか。日曜日の参加者数をオペラグラスでカウントしている先生もおられるとか。聖会の動員数が何千人とか、どこの施設で開いたとか、礼拝堂をいくつ献堂したとかが牧師の価値となるキョウカイと言うギョウカイ。かくして外型を作り、それを維持することで窮々とし、煽られる信徒たち。ボクシと言うホスト家業。
礼拝とは何なのか。主イエスだけを求め、主と交わる聖別された時間。そこでは求めることはただ真理と霊による礼拝であって、人のことなどはどこかへいってしまう。その時間を捧げた後、内に爽やかないのちの息がそよぐ時、それだけで満足を知る。かくして疲れた体にも油塗りと共にいのちが与えられる。
外観を飾っていのちが消耗するあり方と、外観はどうでも内がいのちで満たされるのと、どちらが本質的であろうか。主と交わることだけを求めて、なるべく無駄な経費や労力は消耗したくないと、グータラな私などはまず第一に考えているのだが。確かにこれではニッポンキリスト教では成功しないなあ〜^^
どこぞにアスファルトを破って生えてきたど根性大根があるそうな。えろう評判になって、めげている民を励ましたそうな。ところが、どこぞの不届きモンが、大根のクビを切り取ってしまったとか。
で、近所のオバチャン、「誰がこんなかわいそうな事をするんかねぇ。情けないねぇ、涙が出てくる。かわいそうにねぇ・・・」。
ところが犯人、心が責めたのか、大根の頭を元に戻したとか。そこでマスコミのお兄ちゃん、東京農工大の先生に「元に戻りますかぁ〜!?」。先生「いやあ〜、それは無理でしょう。でもかろうじて花を咲かすことはできるかも知れませんよ」。マスコミのお兄ちゃん、「ああ、よかった〜♪」。
たかが大根、されど大根。ど根性大根ともなると、人の心に感動を与えるのでありまして。おでんを食する際、永遠に語り継がれることでしょう。殺伐とした昨今、ホッと一息つけるお話。お後がよろしいようで。