* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
三国志。横山光輝の漫画ヴァージョンですが、何と60巻あった!同僚の漢文の先生(中国語もペラペラの方)に聞いたところ、入門用としてはグッドだと。1年くらいは楽しめるかな・・・。これでイメージができたら、吉川英治あたりに、そしてハードボイルドタッチの北方謙三あたりに行こうかと考えている。
漢文は引き締まってカッコイイので高校時代結構好きだった。また漢文の影響を受けた作品を多く残した中島敦の『山月記』も好きだった。
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった・・・
と始まり、虎に身を窶して後、友人に会い、 と告白する。当時、自分の心を見透かされているようで実に怖かったが、一方でこの文章を声を出して読んでいると、何とも言えない甘美な味わいがあった。そう一種のナルシシズムの世界。人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。・・・我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。
それから10年後主に出会うことができたが、主に出会っていなかったらおそらくこのままを実演していたことであろう。
BBSの月光仮面さんは、そのHNから察しますところ、結構お歳なんでしょうか。昭和30年以前でしょうか。私は白馬童子はよく覚えていますが、月光仮面はウル覚えなんです。当時は東京は大森に住んでいまして、あの頃の光景がいつくか思い浮かびます。
「人生は短い」とのテーマでして、私などもすでに50一歩手前。そろそろ引退の用意をと考えてもいるわけです。まあ、あまり地上で何かを達成したいとは思っていないのですが、それでも今日のメッセージでも語りましたが、ノーベル賞を辞退してみたいですね^^
極私的にはつねにマイペースで来れたことは感謝です。カミさんにも言われますが、どうも学生気分が抜けなくて、フラフラといまだに浪人生活しているような感じです。家でも大学でもチャペルでもGパンですから。あの中村雅俊の『俺たちの旅』を引きずっているわけ。人からは、よく言えば若いとかあまり生活臭がないとか、悪く言えばガキっぽいとか言われておりますが。
ちなみにあの小泉チルドレンの筆頭頭の元財務省キャリア官僚で舛添氏の元奥様だった方(最近名前がよく飛ぶのだ)。もしかしたらキャンパスですれ違ったことがあるかも、完全に時代が重なっていますから。えらく貫禄があって、舛添氏も彼女の前では何も言えないとか。ところがドン小西氏が彼女のファッションを80年代で時間がストップしていると酷評してました。確かにあのヘアスタイルも、スーツもね。バブル前後です。引きずるのです、ニンゲンは。
しかし霊的には私たちはこの世では寄留者なわけでして、まさに旅路の途中なわけです。あまりここで何かを達成して未練を残すと、その時にレフト・ビハインドとなりかねないわけでして・・・。その辺のバランスが鍵かなと。
イロイロ思い巡らす秋なわけです。
(つぶやき:しかしココへ来てまた体重が戻ってしまいそう・・・)
富井さんに対してWindows(いのちの御霊の法則)を持っているのに、何ゆえにMS-DOS(石に書かれた律法)を主張するか問いかけましたが、実際の話(喩えではなく)として、私はMS-DOSに対する愛着はけっこうあるのです。
どこかでも書きましたが、Windowsを始めたのは97年からですから。95年にお祭りのごとくにWindows95が発売になっても、かたくなに真っ黒な画面でやっていたのです!それもクロックが10MのPCで・・・。昔CP/Mをやってた頃は8ビットのZ-80で、メモリ空間はたったの64KB。ですから内部をほとんど把握していたのですね。
しかしWindowsはメモリ空間は膨大で、内部で何が起きているのか分からない。自分でやる主義の私は人の作った仕組みの中でやらされるのが嫌だったわけ。かくして世の流れに後れること2年。頑張ったのでありますが、やっぱりWindowsは便利だ。
それでも、現在なお、Windows版のFDというソフトで、中のファイルをすべて見ながら使っているわけ。皆さんはエクスプローラーでしょうが、これは見えるものが限られるのですね。
こんな次第で、再建主義も心情的にはかなり理解できるわけです。
ちなみにソフトウェア工学はかなり霊的なんですよ。特に最近のオブジェクト指向言語はね。こちらをどうぞ⇒JAVAと信仰
BBSではかなりハードな議論が展開されており、話に入れない〜とのお声をいただきました。そこで「何でもお話しましょう」はライトな話題を、神学や哲学や科学などのヘヴィーな話題は「ハードコア・セッション」でやろうと思います。ライトかヘヴィーかはどこで分けるのだ、との質問もあるでしょうが、まあそれは個人の判断に委ねると致します。
では、そこんとこ、ヨ☆ロ☆シ☆ク。
実は小生も、疲れるから・・・と言いつつも、こういった込み入った話もけっこう好きなんですね^^やり出すと相当にハマリますので、あえて避けているといった感じですかね。けっこう一応インテリなんですが、それが何か?
前に展開された山谷氏と富井氏の議論をまとめておきましょう:Keywordは「中間(間接)」と「直接」です。
■ディスペン側■
・統治の形態:神→天使的勢力(ストイケア)を介しての間接的統治(中間領域)→人類
・教会の役割:この中間層にいる天使勢力が悪鬼化することもあるから、教会が監視する
・律法の評価:律法自体も天使を介して与えられた。モーセ律法は型・影・養育係だから、キリストの出現によって廃された(富井さん的には第3の意義も)
・この世の評価:再生されていない(=特別恩恵を受けていない)この世も、司法や科学など15つの領域においても一般恩恵によって御霊の照明を得ている。
・時代の評価:現ディスペンセイションはキリストの初臨と再臨の間の中間的時代→キリストは現在霊的には王であるが、再臨によって実際的王となり、御国が地上に出現する
⇒再建主義大論争を回顧する
■再建主義側■
・統治の形態:神→律法による直接的統治→人類
・教会の役割:律法を自らに適用し、さらにこの世にも適用して、宣教によって「地を従わせる」ことにより、神の御国を出現させる
・律法の評価:人類を祝福へともたらす神の手段であり、聖霊の力によって守れば祝福された「生活」を送れる
・この世の評価:世は神を排除し、律法を組み込んでいないので闇の状態にあり、その結果人間中心のヒューマニズなどが蔓延っている。
・時代の評価:キリストはすでにあらゆる領域で王とされたので、地はその主権に服するべきで、それは律法をあらゆる領域に適用することによる。今はすでに千年王国であり、全人類が福音を受け入れるとき、その確立によってキリストは再臨される
⇒キリスト教再建運動とは
つまり互いに相容れない本質的な相克があるわけです。「御国の建設」と「キリストの再臨」をめぐってですね。まあ、泥を掛け合うのも分かる気もしますが、ゲームには泥をかぶらない観客もいますからね^^。
単純な思考実験をしましょう。
■質問1:エデンの園でアダムが善悪の木の実を取らず、いのち(Zoe)の木の実を取っていたら(仮定法)、律法は必要だったでしょうか?
■回答:必要なかった。
■理由:律法はまことのいのちの実体であるキリストへと導く養育係だから。すでにいのちを得たのだから養育係は不要。
■質問2:アダムとエバがいのちの木の実を取っていたら、神が送ったと考えらえる聖霊によって律法を行なって得られるいのちと、ただ信じることによって得られる義認としてのいのち(Zoe)を区別する必要があったか?
■回答:ない。
■理由:いのち(Zoe)はすべてを包含する。つまり律法の第1,2の機能(影としての祭儀的意味)は排されたが、残っている第3の機能(律法の趣旨)もいのちの御霊の法則によってまっとうされるから。
■質問3:「救済」には、善悪の路線上のものと、いのちの路線のものがあるのか?
■回答:ない。
■理由:もしアダムがいのちの木の実を取っていたら、「救済」という概念自身が不要となるから、契約神学とか、ディスペンセイション神学とかも不要だった。つまりいのちの木の実を取りそこなったから「救済」が必要なのだから、「救済」とはいのちの木の実を提供すること。私の理解はこちら。
【結論】:要するに、人類がアダムの得損なったいのちの木の実を取れば神のご計画は成就する。アダムの失敗があったので、キリストは贖いのプロセスを経る必要があった(救済)。それが完成されている現在、いのちを得るためには私たちがキリストの死と復活に結合されること、それはすなわち信仰による。
※注意※モーセ律法の趣旨である富井さんの言われる第3の機能(人を神の標準に導き祝福された生活を送らせる)を排除してはない。なぜなら、それはいのちの御霊の法則に含まれるから(上位互換)。
【神の御心】わたしはあなたがたのいのちとしてあなたがたの内に生きたいのです。神と人が共に住まうこと、父と子として、また夫婦として。だからわたしの独り子をいのちとしてあなたがたに与えたのです。このギフトをただ信じることによって得てください。
もう少しまとめておきましょう:富井さんは、<永遠のいのちを得ること=義認>として、<神の基準に沿った祝された生活を送ること>とは別のものとしていますね。これも大きな驚きです。
なぜなら、私たち自然科学者からすれば「いのちと生活はひとつ」だからです。犬は犬のいのちによる生活、人は人のいのちによる生活。で、律法を行なうにはソレを行なえるいのちを得ればよいわけです。自動的に生活もそれを反映します。
今回の議論、なかなか面白いです。私たちが最終的に重んじることは、神はシンプルであること。自然の法則はきわめてシンプルかつビューティフルなのです。たとえば、
E=mc^2
などね。
■富井さんの構図は
聖霊
↓(神が送られたと考えられる)
旧約の民→律法を行なう→いのちを得る(祝された生活を送る)
よって、律法は力はないが、いのち(Zoeではない)を与える
■私の構図は
律法はいのち(Zoe)を与えないから、キリストが死と復活を通していのちを与える霊となって
御霊の内住
||
いのち(Zoe)なるキリストの内住→律法(それ以上)を全うする
||
力を得る(いのちの御霊の法則)
よって、いのちの御霊の法則はモーセ律法の上位互換である。(律法の第3の機能を排除していない!)
BBSでの再建主義者の富井さんとのディカッションは有意義ですね。私との一番大きな違いは、彼は
「律法はいのちを与える」
と言われる。パウロは(Dr.Lukeも)
「律法はいのちを与えない」
と言う。この違いはなんでだろう、と思うわけです。御言葉に明らかに反している。(ここで相手を理解しようと努めるわけです)で、続けて読むと
「律法を行なうことによって得られるいのちと信仰によって得られるいのちは違う」
というわけ。なるほどとうなづいた次第。
しかし「律法を行なうことは聖霊に拠らなければ無理」なので、「旧約でも神は聖霊を送られてユダヤ人たちに律法を行なうことを可能とさせたと考えられる」と言うのです。また「律法は道であり、歩ませる原動力は霊であるが、それを行なわせる力がないことをもっていのちを与えないと結論づけることはできない。車が故障していてもマップは捨てるな。なぜなら車と言う原動力があればマップは役に立つ。」と・・・?この論理展開、分かりますか、みなさんは。
かくして「救済」の意味も違ってくるのですね。私の理解は「いのち(Zoe)を得ること」、すなわち「善悪の道からいのちの道への回復」なんですが、彼は善悪の道の上でもいのち(Zoeとは違う)を経験し、救済を得ることができるらしい。クリスチャンも実にイロイロなんだと感慨です・・・。
ただ感想を言えば、彼の議論は私たち客観性を最も重要視するサイエンティストから見ると、とても主観的ですね。なにしろ私の言っていないことをもって、私を「・・・とみなす」わけですから。してもいない犯罪を問われるようなものです(笑)他にも「と言った方が正当なのです」とか、「総じて言えば」とか、「・・・と考えることは可能です」とか。まあ、個人がどのように、総じて、考えるかは自由なのですが、サイエンティストは明確なエヴィデンスを求めるのです。
しかし一応冷静な噛み合う議論ができたことは収穫でした。議論のやり方のポイントは単純です。同意する部分と、不同意の部分を明らかにするわけ。別に相手を折伏する必要はありません。それは疲れますから。
で、私たちは神学者の学説や著書ではなく、御言葉によってジャッジするわけです。御言葉を認めないのであれば、それは相手の責任でして、これはもう別にディスカッションする必要もありませんから。
映画の台詞がほとんど聴き取れるようになって来ました。うれしいですね。前にも書きましたが、内容のあるニュースやメッセージやレクチャーなどは比較的簡単に理解できるのですが、たわいもないことがむしろ難しかったわけ。単語自体は簡単ですが、発音がね、ブリティッシュは割りとピックアップしやすいのですが、特にアメリッシュがね・・・。
で、「速聴(R)」の訓練をしたわけ。これは田中さんというちょっとニューエイジ系の人の発案ですが、普通の会話を3倍速で聴くのです。ちょうど高速道路での速度に慣れると、一般道が遅く感じられるのと同じです。通勤の車の中で繰り返しやっていたのですが、何とここへきて、映画の会話がやけに遅く聴こえるようになって来ました。もちろんスラングとかは意味が分かりませんが(文脈から推測)、単語は聞こえる♪
この速聴をすると脳の活動度が上がるのですね。ボケにもいいそうです。昔巨人の川上が球が止まって見えると言ったそうですが、そこまでは無理としてもね^^。外の時間の流れと内的時間の流れがビミョウにずれるようです。お薦めします。
(ニューエイジだからアブナイとか言わないでね。それは聖霊派のパラノイド。生理的効果は切り分けて下さい。ヨガなどもです。私はストレッチでヨガのポーズを取っていますから)
株が300円の大幅安。米ダウが下がったのと、外人が手を引いたとの噂。でも当面の基調は変わらないでしょう。郵貯350兆の行く先もココしかないわけ。原油で潤った資本は行く先を探しています。自民大勝で改革が進み、ニッポンの金を巻き上げるチャンスが増えているのです。しかし私的には信用で買ポジションにあるヤツが来週期限なのです。どうも損が出てしまいそう・・・涙。う〜ん、株は人生だ!!!
* * *
子供たちや、何とカミさんからも言われる:パパって仕事いつやっているの?まあ、いわゆるサラリーマン的には追われていませんし、講座制ではないので上司もありませんし、自分の時間は持てますし、個室はありますし、講義は学生と楽しんでいますし、メッセージも楽しい間だけやるつもりですし・・・そう遊びと仕事の区別はあまりないですね。ただし、今日だけはシンドイ。予備校の講義・・・。われわれはいわば「高等遊民」といった感じかな(おい、勝手に「高等」を名乗るなとの声も・・・)。青筋立てるのは、年に1,2度でいいかなと。
それにしても「一億総福音伝道」とか・・・、ちょっと敬して遠ざけたい。「今は終わりの時代だ、そんな生ぬるいことやっててどうする。滅び行く同胞のために己の十字架を負い、己を投げ打って、家族や仕事も捨てて伝道せよ・・・」とか、「祈って、祈って、祈り抜け!!!」とかね。この臭いはかつての一億玉砕の大和魂と同じ。あるいは現代の使徒預言者による宗教改革とか・・・。コワイですから、この世の人は逃げますよ。マチガイナイ!
ニッポンキリスト教の本質的問題は、神学の問題ではなく、この強迫性(ねばならない・かくあるべし)という精神病理にあるのだ。これが自家製の律法をご苦労様にも作り上げる。で、ネバネバ、ギスギス、トゲトゲ、ネチネチ、イライラ、そしてウツウツと。互いに粘着し合いますから疲れます。サラサラとパウダー感覚がイイのです、が。
アダムとエバはエデンの園でどんな生活を送っていたと思いますか?ちょとだけ想像して下さい。イエスはご自分のlifeを私たちに豊かに分与(ディスペンス)し、そのlifeを楽しむようにと、エデンの園以上を回復して下さったのです。イエスが地上におられた時、どんな内面生活を送っていたと思います?それを私たちに下さると言うのです!祈りもその主との親しいプライベートな会話でしょう?一言、「主よ〜」と呼べば、内側が甘く満たされるでしょう?涙、出ませんか?
聖(holiness)とはいのちの健やかさ(wholeness)。あのね、再建主義者が批判するような、「恵みとは自分勝手ができること」なんてやってごらんなさい。このいのちがたちまちシュンとしてしまうでしょう。いのちは神の基準を喜ぶのです。で、それを生きる時、ますますいのちは成長・増殖するのです。喜びがあればそれはいのちによって律法を行なっている証拠。律法を守ろうと自分で意識しなくてもね。このとき律法はむしろ慕わしく思えますよ。神の愛の表現ですから。バロメーターはJOYです!
神の御心はいのちを楽しむこと。イロイロな困難や苦難は避けられないでしょうが、その中でも楽しむことができるいのちです。楽しむクリスチャンを神は求めておられるのです!
わたしが来たのはひつじがいのちを得、しかも豊かに得るためである。
人生イロイロ、男もイロイロ、会社もイロイロ、議員もイロイロ、で、クリスチャンもイロイロ・・・と。いやあ、本当にイロイロですよ。最近はもう体力気力が衰えていますので、それぞれに対応することはできなくなっております(汗)。ひたすら失格者にならないように、自分自身の救いの達成に努めるばかりです。人を自分の神学で折伏する余裕などはとてもとても・・・。
しかし不思議なことに、ここのアクセス数は1日に350を超え、メッセージを聴いてくださっている方もどんどん増えている(これはサーヴァーのログを見ると分かるのです)。私の語っていることは高等神学でもないし、お金になるわけでもないし、祝福を語っているわけでもないし、愛を説いているわけでもない。
ただ皆さんから受ける感想は「元気になる」とか、「自由を得る」と言うもの。疲れていてもいのちが満ちるのだと言われる。ある方は鬱でどうしようもなかったのに、シャキっと立てるようになったとか・・・。
あまり人のお役に立とうなどと大それたことは考えてもいないわけで、ただ楽しくやれるうちだけやろうと思っているわけ。楽しくなくなって、歯を食いしばるようになったらすぐにたたみます。しゃべっている方が楽しくないメッセージなど、聴かされる方はたまらないでしょうからね。
改めて、皆さんからの励ましのメールをありがとうございます。ここでまとめてお返事いたします。
Every blessing!
ある方からメールが来た:「自分はルークさんをこれまでずっと恨んできました。でも分かりました。恨んでしまってすみません。」と。「う〜ん、何だ、これ???」
TVでもよく見る上智大の福島先生も、かつて患者のストーカーに粘着され、当時はストーカー規制法もなかったので、エライ目にあった、と著書にあった。先生はあまりのストレスでPTSDになったとか・・・。
私もしばしばこういったことは経験する。アメリカなどでは治療で虐待を受けたとかで、セラピストを訴える訴訟妄想患者も多い。大学でも学生と自室で話すときのために、ドアのガラスは素通しになっている。密室でのことを訴えられたらこちらは弁護のしようがなくなるため。
私たちのような立場は、ある種の映画のスクリーンみたいなもので、それぞれの理想像とか、父親像とか、期待像を映し込まれるわけ。これを投影と言う。その像に沿っているうちは"すばらしい人"となるのだが、ちょっとでもそのイメージに外れると、期待値が高いほど、裏切られたと感じ、失望から憎悪に変わる。分析用語で言えば、陽転移から陰転移になる。
(陰の声:ニッポンキリスト教の名牧師は、この投影を実にうまく受けることができる人なんですね。つまりはアイドル。永遠のアイドルの役柄を続けることができる御仁なのです。その点、私などはキャンディーズ、いや都はるみなわけ・・・わっかるかなあ〜?)
この豹変振りはある意味で驚くべきほどであって、私たちはつねにこのようなリスクを負っているわけ。つまり「Dr.ルーク」がリアルな私から分離して、勝手な投影されたイメージが一人歩きするのだ。
私の精神科医をしている義兄もつねにある種の危険を感じていると言う。昨今では妄想が即実行に移される率が高まっている。実際対応を誤って刺されてしまう医師もいるのだ。彼らとは決してガチンコをしてはならない。彼らの内に蓄積されたネガティヴなエネルギーを抜く必要がある。これがうまく抜けると実にコロっと変わって、穏やかになる。この豹変振りも驚くほど。
まことに人は一体は何故に・・・。またこのような人を神は何故に・・・と。ニ・ン・ゲ・ン−この不可解なモノ。
もの思ふ秋だなあ・・・はあ〜。
昨日の記事に何と見知らぬ方からTB(トラックバック)がついているではないか。驚きました。こんなマイナーなBlogにどうして?
で、さっそく飛んで見るとかなりややこしい議論が展開されている。筆者は生化学の専門家のようで、クリスチャンではなさそう。進化論がすでに公認された、現在にあって生命の起源を説明し得る最も合理的な理論であって、いわゆるキリスト教原理主義者の唱える創造科学はトンデモ系の疑似科学であると言っているのだと思う。
私の論考もけっこう進化論と創造論を論じるサイトの創造論側にリンクされている。が、実は私もまったくその通りと考えている次第。創造主を考慮しなければ、進化論が最も合理的な説明になる。BBSでも述べましたが、サイエンスは神の存在を否定するものでも、肯定するものでもない。現在与えられた証拠(エヴィデンス)と事実(ファクト)に基づいて、現在なし得る説明を加えるだけ。
おいおい、Dr.Lukeは聖書を信じているのではないのか?ハイ、聖書を信じ、自然は神が創造されたと信じ、イエスを信じておりますが、いわゆるクリスチャンたちの唱える「創造科学」は、一サイエンティストとして、ちとゴメンなのです^^
上の筆者も言われるとおり、第一に進化論をあまりにも理解していない。だから進化論に対する批判が見当ハズレ。下でも述べたが、相手を理解しようとしないで、批判がオツムの中での一人相撲。せめて木村資生の中立説を確率微分方程式を解いて説明できるくらいにしてから批判して欲しいもの。
次に批判の姿勢があまりにもエキセントリックで幼稚。これも下で述べたが、大人として相手に敬意を払いつつすべきであって、創造論を認めない者は人にあらずみたいな態度はいただけない。まして人格攻撃などは論外。
結局のところ創造科学の素人ぽっさを露呈し、専門家はのけぞってもう誰も相手にしなくなる。あのね、忙しいのだ、みんな。どうもクリスチャンたちが血肉に(霊にではなく)燃え、熱心になればなるほど、人々はむしろ引いてしまって、遠巻きにご苦労様なこととなるわけ。
人々は私たちの神学や聖書解釈の正しさを見ているのではなく、私たちの態度や行動、つまり人となりを見ているわけ。目一杯の自己主張だけで見られている意識があまりにも希薄なのが幼児性のひとつの特徴。このTB先の論からはクリスチャンの論からよりも多くを学ぶことができると思うのだが・・・。