最近の日記

日本人の病理とITメディア-加虐性と被虐性-

昨日紹介したフィンランド人とケータイの関わり方と日本人のそれが本質的に相違している事実は極めて面白い。ネットにおいても日本人の匿名性が指摘されているが、これはアイデンティティの確立と無関係ではない。

実は自殺の社会的要因として、ドゥルケムは「匿名的自殺」と「自己中心的自殺」をあげている。前者は社会的拡散と共有する価値観の喪失を原因とする。これは現代の日本で言えば、中高年の自殺の要因と言える。後者は屈折した自己主張的自殺と言えるが、最近の子供たちのイジメを理由とした自殺が該当する。

日本人のITとの関わり方の特性として、実はこの匿名性と自己主張性が非常に巧妙に絡んでいる。すでに述べたように、希薄な自己(匿名性)の屈折した確認法(自己主張)としてネットが日本人の心性にピタリと適合する。日本人の精神病理の本質は強迫性である。いわゆるガンコ・マジメ・完全癖・意地を張る・こだわる・嫉妬深い・妬み深い・・・。

これがためにクルシチャンは自家製の律法(ねばならない・かくあるべし)を設けて自作自演的に苦しむわけ。ひどくなると強迫性障害(強迫観念・強迫行為)に陥るが、日本人の場合、強迫性人格障害者はかなり多いと推測される。前者は強迫神経症であるが、症状が苦痛で(自我疎外性)、治りたいと感じる人々なのだが、後者は症状については自我親和的で、この場合、本人は苦しまないが、他人がとばっちりを蒙る。

この強迫性は分析的には肛門期におけるリピドーの固着と退行として説明される。つまりは2-3歳位になると自我が芽生え、親との確執を経験するようになる。この時期に排便のしつけが行われるが、これが親との交渉の武器となり、自己主張の道具として用いられる。つまり日本人の湿ったネチネチした性格は、この時期における葛藤(これをエディプス葛藤と呼ぶが)に起因するわけ。他者と自己の境界線が曖昧なのは、いわば親子関係の再現であるから。よって無礼を良心の呵責を覚えずに行うことができる。日本人の公共心の欠如も世間は家庭の延長に過ぎないから。大人の人間関係のトラブルは実は親子関係の再現なのだ。

この時期にこじれた感情はエディプス・コンプレクスと呼ばれるが、実はこの葛藤と去勢不安(言うことを聞かないとオチンチンを切っちゃうわよ)によって、子供は超自我(良心)を分化させる。(実はトイレを観るとその国民性が分かるのだ。)この時期には親との葛藤で相当のせめぎ合いがなされ、親に屈する屈辱感と、親から受け入れられる安心感のアンビバレンツ(両義的)な複雑な感情を抱きつつそれらを抑圧する。この要素が強い性格を肛門性格と言う。これが他人あるいは自己に対する攻撃性(肛門加虐性)と逆に受身性(肛門被虐性)となる。

このリピドーが性的色彩を帯びたままダイレクトに表現されると、性的倒錯としてのサディズムとマゾヒズムとして、このリピドーが知性化あるいは合理化されて表現されると、言葉と論理による偏執的な攻撃性になる。最近のイジメの問題も、実は学校制度の問題などではなく、この精神病理によるのであって、制度をいじったところで決して解決しない。しかも加虐性と被虐性は何かの契機によって簡単に入れ替わる。しばしばいじめる側とられる側は同じ病理を有している(cf.「ユダヤ人と日本人」)。

ITメディアはまさにこの精神病理の表現・解消手段として、日本人には絶好のアイテムとなる。かくして肉の中にブロックされたコンプレクス(感情観念複合体)の発散を試みて、延々と掲示板の誹謗中傷・ケータイでの村八分・Blog炎上・晒しなどのITリンチが行われる。しかも見かけは冷静に、世間の常識に沿っているかのように、知的によそわれた形によって。このあたりの消息は昨日紹介しいたサイトを参照のこと。あるいは自殺サイトで一緒に逝ってくれる仲間を求め、互いに暖め合いながら、逝ってしまう。

昨日紹介した『他人を許せないサル』において著者は、ケータイなどのITメディアは進歩と言うよりは、日本人の心の根本的問題へとむしろ回帰させていると述べているが、まさにそのとおり。今後の日本はますます閉鎖性と倒錯性を高めることだろう。その倒錯した閉鎖世界で、病理が加虐性として現れるならば「2ちゃんねる」などに観られる現象が、被虐性として現れるならば、自殺サイトで知り合った見知らぬ者たちが一緒に練炭自殺するような現象となる。

キリスト教界においても、例えば見かけの神学論争なども、実はこの病理と密接に関係しているわけで、キリスト教界で起きている事象なども、霊的真理の探求と言うよりは、ほとんどは精神病理の表現に過ぎない。つまり魂の現象。メインラインは福音派を見下し、福音派は聖霊派を見下し・・・と言う「入れ子構造」も、まさに上の病理の現われに過ぎない。神学の立場は異なるとしても、実はいずれの病理も同じなのだ。

しかし真に聖なる神にわずかでも触れ、神に対する正常な畏れをいただいているならば、表現形はもっと変わるだろう。少なくとも現在の状況とは異なるはず。論争の開始はいわゆるこだわりの感覚が惹起され、粘着現象として開始されるが、この粘着性はまさに肛門性格の偏執性そのもの。表面はきわめて知的に装われていても、根底にあるのは同じ。キリスト教界の病理とは実は日本人の病理そのものなのだ。(→閉鎖社会の共同幻想

今回のCT問題で絡まれついでにちょっと考えてみる機会がもてたのだが、これでストーカーの病理を論じる準備もできました。また、後ほど。

温泉までT-27Days

存在の薄い自己の病理

以前にも書いたが、現代は自己の病理の時代。元々埋没型アイデンティティの日本人は他者の関係性の中でのみ、自己を維持し得る。ここで自己と他者の境界線が曖昧になるわけ。このようなアイデンティティにおいてケータイやネットが入ると、それらをチャネルとしてのみ関係性を確認するようになる。これがニッポン人のケータイ文化。

アップロードファイル 5KB同じ事を『他人を許せないサル-IT世間につながれた現代人-』において正高氏が述べていた。ケータイの技術はフィンランドで開発され、フィンランドが最も普及率が高いらしいが、日本とはまるで違った様相を呈しているとか。そのライフスタイルはケータイ普及前と後ではまったく変わっていない。正高氏はこれは日本人とフィンランド人の精神構造の違いにあると指摘する。このITを通して世間と通じるニッポン人の精神構造として、「自分は特別」、「IT引きこもり」、「自分が損している」といった歪んだ自己意識があると指摘する。ちなみに本書でも日本人はサル的であり、サルに鏡を見せる実験を紹介していたのが面白かった。

アップロードファイル 2KBまた『他人を見下す若者たち-自分以外はバカの時代-』において、速水氏は「仮想的有能感」がキーワードであるとし、それは「他者軽視感」と比例すると指摘する。実際、「2ちゃんねる」あたりに書き込みする者ほど、根拠のない「全能感」を抱いていると言う調査報告をしている。現代の若者(ばかりではないのがヤバイのだが・・・)のパーソナリティのディメンジョンとして、「仮想的有能感(他者軽視感)」のx軸と「自尊感情」のy軸を取って、4つの象限に分類する場合、

アップロードファイル 8KB@x>0、y>0の象限は「全能型」であり、自己の能力を過信して、他者に対する優越感を覚えるタイプ。

Ax<0、y>0の象限は「自尊型」で、他者の存在を認めつつ、正当な自尊心を持つタイプ、

Bx<0、y<0の象限は「萎縮型」で、自尊心欠如にして、他者につぶされそうに感じるタイプ、

Cx>0,y<0の象限は「仮想型」で、正常な自尊心を持ち得ず、しかし他者を貶めることで自分を確認するタイプ、

となる。

元々自他の分化がない乳児では泣けばミルクをもらえると言う「ナルチシズム的全能感」の満ちた仮想的世界に生きている(これを「1次過程」と言う)。成長するにつれ、人間はこのような全能感を喪失し、他者との区別の中で自分を確立していく(「2次過程」)。つまり「全能感」は幼児性の特質であり、成長とは何が可能で何が不可能かの見極めをなすこと、つまり「全能感」の喪失と言える。しかし「2ちゃんねる」あたりのキャラを観察していると、このCの象限に属する者が多いと感じられる。

彼らは知性はほどほど高いが、情緒が未熟と言うか、何か傷ついている部分を感じるのだ。この実現されなかった自己を、現在の自我に統合することができず、疎外したままでいる。この疎外された自己が疼く何らかの刺激を受けると、昨日述べた粘着が始まり、他者を貶めることで仮想的満足を得つつ仮想的全能感を味わう。しかも本人も自分のしている事が虚しいことを知っているのだが、止めることはできないか、あえてしない。加えて疎外された自己は、ある意味で「被害者」なので、その自己の主張はすべて正当化され、良心の痛みを覚えない。これがために罵詈雑言何でもありの無法地帯の様相を呈する。

しかしその批判の内容は他者との正常な関係性においてではなく、その本人の中における空回り的葛藤に起因する。すなわち客観的にはその対象が言ってもいないのに、自分の中で疎外された自己から生じる「内容」に対して憤り、批判を加え、貶める。つまり昨日指摘したように、他者を貶めているようだが、実は鏡に映った自分を相手にしているだけの自作自演となる。よって双方向の対話は成立しないし、まともな発言に対しては「イタイ発言」と無視し、結局は「言った者勝ち」の様相となる。

彼らの精神病理的特徴は、自分に甘く他人に厳しく、努力せず成果を求め、すぐにいらつきキレる、無気力と欝に陥り易く、謝ることをしない、とまとめられる。このような自我構造は現代の特徴であり、ITにつながれることによって、仮想的共同体において、集合無意識的に共有される。実際、特殊用語を用いつつ「2ちゃねらー」と称する一種の仲間意識を生み出す。すべてをおちゃらかす管理人ひろゆき氏なる人物の病理が、ITを媒体として広く仮想空間で共有されているのだ。

かくしてこの現象の根底にあるのはきわめて存在感の薄く、強迫的に「何か」を騒ぎ立てていないと消えてしまう様な自我なのだ。内面の空虚さに比例して、表現は過激になり、他者を貶めることによって補償的に仮想的全能感を持つようになる。人は自己像に従って他者をも扱うもの。何とも虚しく、あまりにも虚しい時代の病理ではある。なお、大脳生理学的にはこちらをどうぞ。

というわけで、良心が麻痺した者が跋扈する「2ちゃんねる」なるものが蔓延るならば日本は滅びの道を歩むと感じられる方は、こちらをぜひバックアップしてあげて下さい。貴重な情報が満載のBlogです。大規模な組織的攻撃も受けるようですね。

2ちゃんねるから子供たちを守ろう

温泉までT-28Days

粘着の精神病理

人はなぜ人に粘着するのか。粘着とは拘りである。拘りとは力動精神病理的には、リピドーのカセクトが解消されていない問題。つまりそこにはエネルギーが蓄積され、緊張感が持続しており、これが不快感として意識される。そしてしばしばそれを本人は認めたくない。これが自己欺瞞。そこを人から指摘されると、これが粘着を生む。

つまり粘着する部分とは、すでに自分で変だ、と前意識的には分かっているのに、その事実に直面することを避けている領域。自分を自分で裁いているのだ。だからこちらが問うてもいないのに、自分から弁明を始める。ウソを隠している人が「自分はウソをついてない」と言い出すのと同じ。すなわち人の意見や主張に対して論じる形を取るものの、実は自分の内の真実の声に対して戦いをいどんでおり、いきおいその葛藤は自作自演的となる。なぜなら自分の心の声と戦っているだけだから。サルが鏡に映った自分に戦いを挑むと同じ。

かくして以前にも書いたが、いわゆる議論においては相手を論駁する必要はない。相手のその葛藤・病理性をあぶり出せばよいわけ。

しばしば「クリスチャン」と称する人々は、聖書の御言葉に躓いており、御言葉をそのまま受け入れることができない場合、自分を否むのではなく、自分を助けるために、神学や特定の解釈の形を取って、その葛藤をカモフラージュする。よって彼らの批判は、自分の心の声に対する批判であり、御言葉に対する批判となるので、こちらとは無関係となる。かくして彼らは神の言葉と延々と論じ争う。これが閉鎖的倒錯空間「2ちゃんねる」あたりで見られる精神エネルギーの大いなる空転の病理である。いずれにしろ、ニッポンキリスト教界はついの住処にあらざるなり。

なお、ストーカーについてはもう少し別の要素が入るので、これは後ほど(あの学生大丈夫かな・・・)。

水谷はかく訴える

アップロードファイル 27KB「夜回り先生」こと水谷修氏なる人物がいる。子供たちの訴えを全身で受け止めるが、説教じみた事は一切言わない。常に一人称で、「水谷は・・・」と訴えかける。やや「矢沢」が入っているが、中々渋くてエエことを言っていた。

曰く、「問題児の根本には自己評価の低さがある」(まったくそのとおり)。「シンナー、ドラッグ、売春、リストカット、何でもやりたけりゃやってみろ。しかしその結果は自分で刈り取れ!甘えんじゃねえ」。「教育基本法改正とか言っているが、アレは生徒を信じられないから法とするんだろ。信じることができなきゃ、何やっても無意味だ。結局は何を信じるかだよ」。「今日まじめさが馬鹿にされ、おちゃらけているが、人間はまじめさを失ったらおしまい。最後はまじめに生きた者が勝つ」・・・。

実は、私はこういった「臭み」を持つ人物はどっちかと言うと嫌いなわけ。「うっとおしい」と感じる方なのだ。が、この人中々イイ。第一に一人称で語っている。昨今の匿名の陰に隠れる屈折した自己主張とは大違い。第二に自己責任を求めている。人は撒いたタネの実を刈り取るもの。テレビコメンテータの某氏も言っていた、「人から相手にされないと自己憐憫する前に、まず人を愛することを学びなさい」と。これは法則。このことをキチンと教えないから自殺などに逃げるのだ。

昨今の世も教界も倒錯した時代にあって、中々貴重な人物である。ただし、ご本人の精神と体の消耗がやや心配であるが・・・(ご自分でも体調不良とおっしゃっているが)。病んだ人々のネガティヴなエネルギーを受け止めるのは、相当に汚され傷つけられるし、芯から消耗させられるものだから。

 * * *

学生が来て、「先生、オレ、告られちゃったんだけど、どうしたらいいっすか?」。小生「いいジャン、愛を告白されたんだろ^^」。「ええ、・・・でも・・・、男からなんすけど・・・。まとわりつかれて・・・」。小生「ええっ、・・・でもさ、君にもその気ないの?類友かも・・・(笑)」。「ぜ、ぜ、ぜったい、ソレはありませんっ!」。小生「じゃあ、逃げるしかないよな。でも下手するとストーカー化するから、気をつけてな」。・・・今日(ルビ:きょうび)、この手の相談がやや多いかな・・・。私自身「2ちゃんねる」あたりでやや「気」のある人たちに粘着されているわけで、誰かに相談したいんだけど、と言いたくもなるのだが・・・涙。

 * * *

再建主義の富井さん(11月28日)もイイことをおっしゃっている。彼からは「ヒューマニストのリベラル異端」と宣告されているのだが、私の言いたいことを的確に言って下さるのです。

温泉までT-29Days(宿が決まりました^^)

総会屋の講義

今年はホームルーム的クラスを担当しており、一般教養を授ける講義をしている。日経記事などを通して会社の財務諸表の読み方、株価形成、さらに経済の動きなどを解説しているのだ。

で、本日は日本社会の闇の部分と裏情報をいかに得るかの話で、総会屋について。会社に入り、総務部などに配属されると、彼らの対策で1冊1万円もする経済誌を数百冊も購入する羽目になったり、さもなくば剃刀入りの手紙を受け取る話をしてやると、これがけっこう学生に受ける。彼らの目が輝くのだ。普通の講義では眠たそうなのに・・・。いかに彼らの関心を引き出すか、これがこっちにとっても楽しい講義になるかどうかの分かれ目。

さてさて、本日紹介した総会屋さんは論壇同友会様です(直リンはコワイので、頭にhをつけて下さい・・・汗→ttp://www.rondan.co.jp/html/home/index.html)。なかなか筋の通ったところで、貴重な情報が集まっています^^(実はココ、前に裁判やった時私たちをバックアップしてくれたのだ。その節はお世話になりました。)

神はニューロン・ネットワークの中に?

先に紹介した『文藝春秋』の「般若心経いのちの対話」と称する仏教者と生命科学者の対話が面白い。共に「いのち」とは何ぞやと問い掛けており、「いのち」の鍵は「wholeness(統合性)」にあると主張される。なんだよ、私の論と同じだぞ、と思って読んでいると、ムムム。何とこうおっしゃっている、「神とはいわゆる一神教の神ではなく、大脳の中のニューロンのネットワークとドーパミンやセロトニンなどの神経伝達物質の作用として存在する」と。・・・肉体となった神を告白するのはきわめて困難な事―否、知性では不可能なのです。

イエスはペテロに言われた、「わたしを誰と思うか」。ペテロは答えて言った、「あなたは神の子、キリストです」。イエスは言われた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これを啓示したのは血肉ではなく、天の父である」。

今話題のID理論やクリスチャン・トゥデイがらみの問題も、まさにこの告白が焦点なのです。

人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。

終わった安倍氏

平沼氏は最後まで貫いてくれた。うれしいです。が、他は総崩れ。特に野田聖子氏は、あの涙の絶叫はどうなったのか・・・。ゆかり氏に盗られるでしょう。そんなに自民党とは魅力があるのかいな?自民党は、以前「ダッチロール」なる単語が流行したが、いささかそんな感じ。前に書いたとおり、イエスとノーが明確に語れない人にはしばしば自己欺瞞が潜んでいるもの。どうもこの現象はキリスト教界ばかりでなく、人間普遍の問題のようだ。今回も安倍氏は汚れ役は平沼氏と因縁関係にある中川氏に任して、自分は手を汚さなかったようだが、国民の期待値が高かった分、彼らが裏切られたと感じるならば、払うべきツケはけっこう大きいものとなるだろう。

温泉までT-30Days

CDのご紹介

アップロードファイル 26KBSalt氏のCDができました。題して『おはボン』。実に楽しい音楽です。Salt氏のBlogはこちらをどうぞ。

業務連絡→Saltさん、12月はぜひヨロシク^^

ロシアの不気味さ

湾岸高速の事故渋滞で、何と4時間。ようやくたどり着いた次第。注目の自民復党問題は中川vs平沼の因縁でこじれそうですね。平沼さんは譲らないでしょうが、他の人たちも株を上げるチャンスなのに、何ゆえにスリスリと・・・(→記事)。

と、思ってたら12人全員で出しちゃったとか・・・(→記事)。

ロシアのスパイは脅迫状を受け取っていたようです(→記事)。KGB改めのFSBは本質がソ連時代と何も変わっていないようで、むしろプーチンへの権力集中が進んでいるようですね。前にプーチン・ロシアは不気味だと書きましたが、そのとおりのようです。

ちなみに彼は99年のモスクワのアパート爆破事件は政府の自作自演であったと告発していたようです。これを理由にチェチェンに進攻したようです。やっぱりあるんですね、国家による自作自演。

しかし1/1000万gが致死量のポロニウムとかをどうやって盛ったのか?寿司屋で犯行が行われたそうだが、私も寿司食うときは注意するとしよう。

温泉までT-31Days

モロモロ・・・

自民党の復党問題は安倍さんの優柔不断振りを露呈すると共に、平沼さんだけが男を上げている感じ。安倍さんも支持率が58%程度に落ちているらしいが、これで足をすくわれるかも知れません。安倍さんはこういった問題には弱いでしょう。育ちが良過ぎますから。

 * * *

元ソ連のKGBのスパイがその裏の真実を暴露し出したところ、毒、しかも放射性物質を盛られて死亡とか。恐ろしいものだ。プーチンはそれを全面否定しているが、過去においても10名以上のスパイが毒殺されているらしい。私の大学にも例の『悪魔の詩』を翻訳して殺害されたI先生の親族の方がおられるが、真実を語ることにはそれ相応のリスクが伴うのだ。私は大丈夫と思うけど・・・。

で、クリスチャン・トゥデイと山谷さんの問題は依然として「2ちゃんねる」あたりでくすぶっているようです。山谷さんと救世軍に対する中傷的非難が高まる共に、ついに私にまで矛先が向いてきたようです。まあ、これがあそこに顕われたニンゲンの本質です。まさかクリスチャン・トゥデイの関係者ではないと思いますが、参考までにリンクをかけておきます。

ChristianTodayと救世軍山谷少佐のガチンコ対決5
わがKFCスレ

これでほくそえんでいるのは1億円プレイヤーの管理人のひろゆき氏なんでしょうけどね。皆さんはいかがお感じになるでしょうか?

次女が成人・・・!?

$FILE1_l参りましたね。彼女がついに成人。で、それ用の写真を撮ったのですが・・・。私も176cmあるのですけどね・・・。けっこうモデル並みの体形なんですね。親バカか・・・。しかしマジで老後を考えなくては(汗)。引退の日を夢見ております^^




温泉までT-33Days

Blogのイロイロ

以前に書きましたが、私が唯一属しているSNSが『東大OB.NET』です。たまに覗いているのですが、これが結構オモシロイ。特にBlogの紹介リストがあるのですが、これに掘り出し物があるわけ。面白いところを2,3紹介しておきましょう:

出来高を制する者は、デイトレを制す!―東大卒の株式プログラマー

身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌―文系出身の医療の研究者

こころの辞典by SMaPGat湘南心療内科 ―何でも開業していたそうですが、つぶれて今は無職とか!?

ところでこのBlogはfreeでご提供下さっているのをありがたく使わせてもらっているのです。で、昨日ちょっとスキンを変えたのですが、不思議なことに自宅で見えるのと、大学の研究室で見えるのが違っているのです!?何ゆえ・・・?皆さんにはどう見えていますか?ブラウン系ならばOKなんですが。そしてこのソフトもVersionがすでに古くなり、メンテしてもらえないので、新年からは新しいBlogに移行する予定です。すでに設置は終わっているのですが、まだ空っぽ。Podcastは中々仕掛けがややこしいそうで、先になりそうです。

 * * *

しかしネットは面白い。「地方教会」のある姉妹と「再会」しております。私は彼女のことを記憶していないのですが、彼女は覚えていて下さって、親しくメールを下さるのですね。Aさん、お祈りを感謝致します。リーに逆らっても神に裁かれませんから安心して下さいね^^God bless you!

・・・と言うわけで、温泉までT-34Days

コリン・アーカートのVideo Blog

アップロードファイル 5KB英国KFCのコリンのVideo Blogを紹介しておきます。彼のEnglishはきわめてBritishでして、クリアですから、容易に理解できると思います。

イエスは40日間、誘惑の山において、人間として神の御心を行う準備をされたことを現地で説明しています。

生の共有

NHK『今日までそして明日から〜吉田拓郎・35000人の同窓会』―今終わったところ、余韻が消えないうちに。

何なのでしょうね、この魂がゆれる感覚。泣けます。客層は(人のことは棚において)、見事なまでにオジサン&オバサン。彼らと同世代か・・・やや・・・。しかし彼ら(incld.ME)も昔は若者だったのだ。あの頃の拓郎は教祖みたいな存在だった。当時はいわゆるカルト宗教などは必要なかった。私もギター片手に『結婚しようよ』なんてジャカジャカやったもんだ。

アップロードファイル 12KBその教祖的な彼も確実に老い(失礼)、肺がんを患って、死にたくないと涙を流した。インタビューでも言っていたが、ここで私たちの拓郎像は脆くも崩れ落ちた。「何だよ・・・」と。いわば彼は敗北者として「人間宣言」をしたのだ。しかし等身大の「拓郎オジサン」としてよみがえった。私たちと生身の生を共有する存在として。私たちの魂の叫びの代弁者として。実はこれで拓郎の魅力がさらに増大した。それは等身大の人間吉田拓郎。

同様にイエスも生身の人間として、私たちと生を共有して下さる。生の共有がなしえない神学だの、ミニストリーなどは何も生み出さない。

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。

ラストの曲が染みた。若い頃とは違った受け止め方で・・・。

わたしはきょうまで生きてみました。・・・そして今、わたしは思っています。明日からも、そうして、生きてゆくだろうと・・・

→温泉までT-35Days