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キリスト者とインターネット
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TODAY'S CELEBRATION 【Apr 19, 2015】

UPしました。

タイトル偽りを拒絶し広いところに立つ

聖書箇所:2コリント3:15-18;6:11-13;詩篇18:19など

4月26日のセレブ

参加ご希望の方はこちらまでどうぞ:info@kingdomfellowship.com

お知らせ
現在、NTTサーバーの仕様が変わり、このブログのスクリプトが対応できなくなっております。そこでここはそのまま残して、移転いたします。よろしくお願いします。

・新しいブログ(2015.04-2017.03)⇒Dr.LUKE'S iDLE UTTERANCE
・最新のブログ(2017.03- present)⇒Dr.LUKE'S iDLE UTTERANCE

信仰の本質

最近、何度も繰り返しているが、信仰とは願うことのサブスタンスとその立証(Heb 11:1)。けっしてオツムの中で「使徒信条を信じます、信じます」とやることではない。サブスタンスを得たらそれで終わり。Dr.Kさんがこの部分を強調されている

Reckoning(徹底的にかつ完璧に理解する)とは、「信じる」ことではない。

ポケットに12シリングあれば、12シリングと記帳すること。これだけ。12シリングというサブスタンスをそのまま受け止めて立証することだ。オツムでいくら強く念じても12シリングは15シリングにはならない。信仰はサブスタンスをそのまま見て、受け取るのみ。実に単純なのだ。

現在、NTTサーバーの仕様変更により、記事の投稿ができない状態となっております。そこでここはそのまま残して、引越しを致します。まだ整っていませんが、おいおい、です。よろしくお願いします。

新しいブログ⇒DR.LUKE'S iDLE UTTERANCE

「当たり前」が崩れる時代

はあ~

「もらい事故」でも賠償責任負う訳 無過失証明できなければ責任あり

福井新聞ONLINE 4月19日(日)7時57分配信

 車同士が衝突し、センターラインをはみ出した側の助手席の男性が死亡した事故について、直進してきた対向車側にも責任があるとして、遺族が対向車側を相手に損害賠償を求めた訴訟の判決言い渡しが13日、福井地裁であった。原島麻由裁判官は「対向車側に過失がないともあるとも認められない」とした上で、無過失が証明されなければ賠償責任があると定める自動車損害賠償保障法(自賠法)に基づき「賠償する義務を負う」と認定。対向車側に4千万円余りの損害賠償を命じた。

 一般的な感覚では責任の配分が一方的となりそうな事故。はみ出した車は家族以外が運転していたため任意保険が使えず、この車に乗り死亡した男性の遺族補償が困難視されたケースだった。判決は遺族を救済する形となった。

 原告側の代理人を務めた宮本健治弁護士によると、自賠法では「人身事故が起これば、自動車同士なら互いに共同不法行為となる。少しでも過失があるとなれば賠償責任が生じる」という。一見、「もらい事故」という形でも、無過失の証明ができなければ責任があるというわけだ。

 一般的に責任の配分が「10対0」といわれる事故もあるが、「10」ならすべての責任を負うというイメージだった。“常識”を覆す判決といえる。

 自分に過失がなくても、相手が任意保険に加入しておらず、十分な補償がしてもらえない場合がある。今回の判決のほか、他者運転危険担保特約や人身傷害保険など、さまざまなケースを救済できる仕組みがあることを知らない人も多いという。宮本弁護士は「なんとかなる場合が大変多い。諦めず検討してほしい」と話していた。

福井新聞社

春のおわり

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桜の花びらも塵と化し、朝の光も弱いこんな日はちょっと寂しい。2015年春、そろそろおわりだ。

クリスチャンのスペクトル

ここでいろいろなミニストリーを紹介しているが、そのスペクトル(多様性・広がり)は実に興味深い。ここでアメリカの代表的な3名を改めてCLIPしておこう。

●Bill Johnson

●Joel Osteen

●Paul Washer

極私的には、この3人、はたして誰が神の地上における御心を、今、この時に、行っているのだろうか?天に御心がなるとおり、地にもなるとは?このテーマにどう答えるかがすべてであると感じている次第*1。あなたはどう答えますか?

*1:この「主の祈り」の意味、単純なようで、実はきわめて深いと思う昨今だ。現代のクリスチャンは、「自分の目に正しいと見える道」をそれぞれが歩んでいるのが偽らざる霊的状況。私もそうだったし、今もそうかもしれない。が、それはもう十分だ。大石内蔵助ではないが、十分に世は楽しんだ。彼の「思いははるる」は単に主君の無念を晴らしたことだけではないと思う。彼はもう地上に思い残すことはなかったのだ。私も主の再臨が迫っていることを思いつつ、自分がどう生きるのか、改めて自分に問い直す必要を覚えているところなのだ。それが地上をいかに去るかという究極的問いになるわけ。

出版への状況

午前中はGYMにてプールとサウナ。しかし、朝の公園もそうだが、GYMも団塊の世代ばかりだ。ロッカールームは加齢臭が・・・ニッポンの将来、やっぱりやばいかもだ。

さて、出版社3社から原稿の内容に対する評価と出版費用の見積もりが出てきた。評価はいずれもかなり高い(営業かもしれないが)。

A社:聖書の解説本はいろいろあるが、結局はどれもよく分からない。日本人には「神との契約」とか「イエスの十字架」の意味も不明であり、表面的にイスラムとの対立とか中東の問題を見るにつけ、やや聖書的世界観には食傷気味で、ある意味諦めてしまっている。しかし、本書は"スーパーナチュラル"という一見スピリチュアル系を連想させるアプローチであるが、とても論理的かつ哲学的に構成されており、聖書全体が鳥瞰図的に見えるようになっている。聖書にまったく馴染みのない日本人にも十分理解できる内容だ。

B社:イエスの十字架による死と復活の意味がよく理解できる。最後のアダムとして古いものを終わらせ、第二の人として新しい創造を生み出す場が十字架であるとわかった。また律法はそもそも守るためにではなく、破るためにあり、それによりメシアに導く養育係であるとは、まことに目が開かれた思いだ。これまでの聖書の解説本とは一線を画した、聖書に新しい光を当てた作品である。

C社:聖書に記述されている奇跡などのメカニズムを解き明かす試みの本書はとても新しい試みであり、読者にもアピールすると考える。ぜひ共同で出版したい。

さて、見積もりだが、A社、B社は完全自費出版の形で1000部で230-260万。C社は共同出版の形で1000部で130万。販路や営業力を考えると話題性のある書籍を次々に出しているA社が一番。そこで、Anything you ask!主に5つのパンを増やす業を祈り求めているところだ。とにかく業界だけに聖書を閉じ込めておいてはならない。御言葉をキリスト教から解放すること。これが今回の私の動機なのだ。冒頭だけpdfにて紹介しておきます。

サイコーに気持ちイイ-辞世の句を・・・

なんとも爽やかな朝の風。ジョッグする足も軽くなる。しかし、この公園も熟年者が多くなった。望遠レンズをつけた高級カメラを持った集団が何かを狙っている。聞いてみると、"うそ"なる鳥を撮っているとのこと。初めて聞いた名前だ。すでに65歳以上が25%、国民の四人にひとり。いずれ45%までに至る。膨大なる空虚な時間が残されるのだ。

まあ、年金は確保されるにしても、残された膨大な時間をどう使うか。これ、ひじょうに具体的な課題。いつまでも六本木でフラフラもできないし、Jazz Liveでももたないし・・・と。賭けるならば神のみだ。最近、ヒシヒシとそれを感じている。ウォッチマン・ニーのような最期が理想ではあるが、そこまでの恵みに与れるかどうか*1。人間生活は一通り終わった小生としては、いかに地上を去るか、これが大きな人生の課題なのだ。この点でも大石内蔵助には惹かれるところ・・・。

ファイル 4874-1.jpg


あら楽や 思ひははるる 身は捨つる

        浮世の月に かかる雲なし

*1:イエスのために自分を無駄に注ぎ出すこと。これは若い頃からの彼のセルフ預言だった。そのとおり、彼は52歳から72歳までの20年間を無駄にしたのだ。もちろん、これは人の目にとって、神の目には極めて尊いものであったからこそ、秘されているのだ。

40年間の彷徨

出エジプトした後のイスラエル。たった1週間の道を40年間彷徨った。ついに良き地に入れた当初の者はヨシュアとカレブのふたり。みな途上でつぶやき、次々に荒野に屍と化した。今のキリスト教を見ているとまことにこの光景が思い浮かぶ。聖書の啓示の本質は実に単純。アダムにある私が死んで、キリストにある私が復活し、新しい創造とされた。That's IT!!!

良き地は乳と蜜の流れる地、あらゆる良き物を産出し、私たちを飽かしてくださる。この地にあって神の資源を楽しむこと。これがクリスチャンのライフ。これはすべて信仰による。実に単純。まことに

神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。-Heb 3:17-19

聖書をキリスト教から解放せよ!

本の出版について出版社と交渉しているが、キリスト教の出版社からは出したくない。この業界を相手にすることはもはやまったく考えていない。ニッポンという閉鎖社会の中の閉鎖社会がニッポンキリスト教だ。

編集部の反応はかなり好評。聖書に新しい光を当てた貴重な作品と評された。極私的には聖書の内容を分かりやすく書いただけだが、これまでいわゆるキリスト教の教義や神学によって真理が隠されていたのだ。聖書はキリスト教の教典ではない!全人類に対する神のメッセージである。イエスはキリスト教の教祖でもない!全人類の罪のために、またアダムにある私たちを負って死なれ、復活し、新しい人類を生み出されたのだ。ニュークリーチャーを。

今、Dr.Kさんがウォッチマン・ニーの証を掲載されている。いわく、1920年に救われてから7年間、自分が死んでいることを確認しようともがいたと。しかし、もがけばもがくほど自分が生きていることを感じ、苦しんだ。が、ある日、見た、自分は死んだ!、と。いわゆる自我を砕きぃ~とか、自己を十字架につけてぇ~とやるクルシチャンはこの十字架におけるキリストと共なる死を見ていないのだ。われわはすでに死んだ、ピリオド。そして復活して、新人類とされた、ピリオド。何も改善したり、矯正する必要もない。すべてはすでになされたのだ!

ニッポンキリスト教の悲惨さはもはや述べるまでもないが、ポイントは聖書をこの業界から解放すること。万人にその真理をストレートに届けること。「繁栄の神学」がどうのこうのは嫉妬と妬みから生まれる*1。聖書の原則はこうだ:

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。-Matt 13:12

本心に立ち返った者は幸いだ。御父の大歓迎を受ける。御父の資産をすべて受け継ぐのだ。まさに繁栄する。それが神の御心なのだから。

SO BE IT!!!

*1:その筆頭にあるJoel Osteenは言っている、そのような者たちを相手にしているほど人生は長くない、と。けだし名言だ。

本心は?御心は?

私が昨年12月に経験したあの件より変わってしまったと感じられる向きがあるようだ。確かに、自分でも変わったと思うところだ。聖書が3Dになった;神を手で感じる;栄光が文字通り重さとして迫るetc.そして難聴の癒し、足の麻痺の癒し、をここでも書いたが、読者諸氏もセレブの仲間も、花粉症がどうなるかけっこう関心を持っておられたようだ。いや、これは自分自身がどうなるのか、と思っていたのだが、結果は見事に消えた。30年来薬を手放したことがないが、まったく不要だった。なんだ、これ?・・・と自分でも思う。

ある人は私が異端に走ったと言われ、ある人は悪霊に騙されていると言われる。「繁栄の神学」なるものは最近意識を持ち出した。これが異端、カルト、ニューエイジとニッポンキリスト教ではある意味袋叩きの状況なのだ。極私的には、こうしてラベルを貼るところがすでに問題であると感じる次第。ラベル貼りは自分のマインドあるいは認知のフレームに収めるための作業なのだが、こうするとその対象と離れて、ラベルとその概念がひとり歩きし出す。マインドの空転が起きるのだ。こうして自分で作った幻影を延々と攻撃することになる。

しかしここで批判者たちに聞いてみたい。あなたは癒しを受けたくはないのですか?あなたは豊かになりたくないのですか?あなたは神の祝福を溢れるほどに経験したくないのですか?あなたは平安と喜びにあって生きたくないのですか?あらゆる環境や状況を支配したくないのですか?・・・と。私は「たい」と主に求めたいのだ。彼らに逆に聞きたい。神のみ心はどこにあるのだろうか?イエスのしたことは父の御心ではなかったのか?何よりも、御心が天になるとおり、地にもなるように、の意味は?・・・と。

どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように。-Deut 1:11

あなたがたは、この契約のことばを守り、行ないなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。-Deut 29:9

なによりもイエスが来られた目的は、悪魔のわざを滅ぼし、アバンダント・ライフを与えるためなのだ(John 10:10)。アバンダント・ライフ!あなたは欲しくないのですか?

参考:私が「繁栄の神学」を擁護していると取られるとやや心外なので(私は、そのようなラベルを貼ることなく、御言葉にある神の約束に素直に同意し、受け取るスタンスなのだ)、その批判の急先鋒であるPaul Washerの主張を紹介しておこう。ジョエルの信者は神の厳しい裁きを受けるであろう!と・・・。

New Man Thinking

なんと気持ちのいい朝だ。爽快な空気の中、桜の花びらの絨毯を走ってきた。

さて、最近FBでフォローしているGraham Cookeの言にまことに鋭い指摘があった。

"Whatever you focus on, you empower. So all the time we are talking about the old nature and trying to change people's behavior, then we are giving life to something that Jesus has already killed."

From THE PORTLAND SESSIONS: SCHOOL OF PROPHECY

一応訳しておくと、

「何でもあなたが注意を置けば、それは力を得る。だから、常に古い性質を語り続け、人々の行動を変化させようとするならば、すでにイエスが殺してしまった存在にいのちを与えてしまうことになる。」

まことに至言。自分は罪ゆるされた罪人に過ぎません;もっと自分の罪深さを探ります;もっともっと肉の性質が十字架で砕かれる必要があります・・・。あたかもそれは敬虔であるようだが、実は自己欺瞞だ。あるいは自分の病気であることに安住し、イエスは病者を招くために来られたと、それを正当化する。三浦綾子メンタリティーだ。それは亡霊を蘇らせることだ。

さらにCookeは言う:

"Our perception of something can put our thinking into a place where we can't have a breakthrough. Only the new man thinking can cause us to encounter the Lord effectively, and if our thinking is still a stronghold for the enemy, how do we take it down and experience the mind of Christ? Transformation comes when our current thinking is consistently and powerfully changed by the Holy Spirit."

From MIND OF A SAINT

「私たちが何か意識すると、思いを自分ではブレクスルーできないところに置くことになる。ただ新しい人の思いのみが主と効果的な出会いをなし得る。またもし私たちの思いが敵の要塞であるならば、どうやってそれを落とし、キリストの思いを経験できるだろうか?私たちの今の考え方が聖霊によって絶えずまた力強く変えられる時、トランスフォーメーションが起こるのだ。」

アダムにある私は死んだ。今やニュークリーチャー。キリストにあって造られた神の傑作なのだ。

For we are his workmanship, created in Christ Jesus-Eph 2:10

ニュークリーチャーとか、繁栄とか、癒しとか、こういった単語によって神に期待が高まり、大いなる喜びを覚えるならば、霊的に健やかだ。が、何か反論したくなったり、抵抗を感じたり、認めたくない印象があったりするならば、それはマインドの中に敵の要塞がある証拠かもしれない。自己憐憫や恨み、裏切られた傷などの形で。神の言葉に同意できない要素をマインドから駆逐すること。神に同意しなければ、敵の偽りに同意するのだから。

本日の一冊:How to Operate in the Gifts of the Spirit

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