No.976の記事

御茶ノ水模様

木曜日は駿台でのバイトがあって、最近車での出校が禁止され、テクテクと電車でお茶の水まで通っている。日ごろ慣れていないので、満員電車ではかなりシンドイ思いをしています。

御茶ノ水と言えばクリスチャンの本拠地OCCビルもあるわけで、何と今日、前方からアーサー・ホーランド様が歩いてくるではないか。いつもどおりの革ジャンと鎖ジャラジャラで・・・。「このオッサン、いつまでこれでやるのかしらん」とつい要らぬお世話の心配を・・・。OCCビルは何故かこの中は肩が凝る。私も裏扉の暗証番号も知っているのですが、最近はまったく出入りしていません。(っと、話がずれた・・・)

で、駿台の校舎は私が青春の19歳の時にお世話になった校舎で、まさかここで自分が講義することになるとは思っていませんでした。あの頃は英語の伊藤和夫師&鈴木長十師(駿台はみな「師」付けが伝統です)、数学の3N師など、相当の名物講師がおられた。

長十師は田中角栄調で、「あの〜ですねぇ、青春には無限の可能性があるなんてウソですっ!(Yゼミの勝浦捨造先生を牽制)現に隣の大学生を見てみなさい。諸君はあ〜、隣の名もなき大学などに行ってはなりませんっ!」とか言って、屈折した浪人心理を慰めてくれたものです(駿河台にある隣の大学とは・・・、ごめんなさい)。

下総中山に駿台の寮があって、アウシュビッツの強制収容所のような4人部屋で1年間を送った。ちょうど列車の寝台車みたいなモノ。男ばかりでむさ苦しく、田舎育ちの私はまったく縁のなかった水虫をそこの風呂でもらったのだ(怒)。インキン・タムシも2回やりましたしね(すみません、話が尾籠に渡りまして・・・)。まあ、スゴイ世界でした。

われわれ昭和30年代は、上は「団塊の世代」、下は「新人類」にはさまれて、「谷間の世代」と言われ、特徴のない世代なのだが、それでもあの頃の学生と最近の学生と比べると、生きるためにもがいていたし、それなりの主張は持っていたよな。わが長女を見ていると、彼女たちが「何気に知っている名前」に入れた票で小泉氏大勝となったわけで、なんとも複雑な思いがします。

で、生存の脅威がなくなることによる幼稚化は生物の宿命なのです。適切な弱肉強食の刺激は必要なのかもしれません。

(つらつらとつまらないおしゃべりでした・・・)

Commented by Sky URL2005年09月16日(金)12:00

Luke先生、こんにちは。いつも、楽しく(有意義に)拝見させて頂いています。先日は、久しぶりに投稿させて頂きました。

>下総中山に駿台の寮があって、アウシュビッツの強制収容所のような4人部屋で1年間を送った。

Luke先生も中山寮だったとは驚きました。
私も1年間、その寮で、4人部屋でした。
(出身はそれぞれ、山口・愛媛・栃木県でした。あの、ガヤガヤした大きな食堂がなつかしいです。)
あの頃は、たまに新宿でテレビゲームの「ブロックくずし」を(一回50円で一番安かったので)やるのが楽しみでした。(・・という、しがない浪人時代でした。)

あと、夜11頃に、ノコノコと歩いて、近くのコンビ二(その頃は、まだ、田舎者の私には、コンビ二もとても珍しく、楽しみでした)に気分転換に良く行ったことが懐かしいです。
また、「何でこんなにデキルやつが、(東大を)落ちたの?」っていう、優秀な人たちがいて驚きました。
・・・・とても、なつかしくて(つまらないことを)思わず書き込んでしまいました。

Commented by Luke 2005年09月16日(金)13:18

おお、これは同窓生でいっらしゃいましたか、うれしいですね♪中山寮は私の中で独特の世界になっています。

私もテレビゲームはやりました。中村雅俊の『俺たちの旅』よろしくボサボサ頭とベルボトムのGパン姿で、講義をサボって駒場から渋谷のセンター街(当時はのどかだった)に出て来ては、コーヒー1杯で時間をつぶしたものです。ブロック崩しの次はインベーダーでした。名古屋撃ちが懐かしいです。今子供たちに手ほどきしていますが^^当時はエネルギーを注ぐ対象がなくて、空回りしていました。

それにしても駿台出身者はけっこういますね。あのはちこさん(http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/)のご主人、シカゴ大のぼぼる氏もそうでしたよね。

いや〜、懐かしくて、ついタイムスリップしてしまいました。

Commented by はちこ URL2005年09月16日(金)19:40

Lukeさん、お久しぶりです! 
主人ですが、駿台「出身」というわけではないです。山本義隆先生の夏の集中講義を2日だけ聞きに行ったことはあるそうですが。(本当は1週間の講義だったのに、登山に行くか何かで、2日しか行かなかったんだそうです… 彼はあまりやる気のない、不真面目な受験生だったようです。笑)

Commented by Luke 2005年09月16日(金)19:46

あ、はちこさん、お久しぶりです。

そうでしたか、駿台"関係者"だったわけですね。よろしくお伝え下さい^^V

Commented by Sky 2005年09月17日(土)12:46

Luke先生、返信ありがとうございます。
(あまりの懐かしさついでに、また、書いてしまいました)

駿台中山寮の頃は、アリスの「君の瞳は1万ボルト」、研ナオコの「かもめはかもめ」、あと矢沢栄吉の「罪なやつさ・・」で始まる曲がヒットしていました。今も、それらの曲を聴くと「瞬間的」に中山寮時代に頭の中がタイムスリップできるのですが、結構その「現象」は懐かしく、楽しいです。(人の脳ミソはおもしろいものだなあと思います。)

また、西日本の2人と同室だったのですが、新潟県人との気質の違いは「相当」カルチャーショックでした。(勉強になりましたが。)
なにしろ、(良い悪いではなく)これが同じ日本の人?と思ってしまう位(お互い様かな?)、「思考のパターン・思考のリズム」が違うように思えました。
昔(江戸時代以前)は、「別の国」といってもいい位に文化的にも離れていたから、当然かもしれませんが・・。
(批判しているわけではありません。)
(仲は良く、最後まで4人部屋でしたが、寮全体で最後まで4人一緒は、1割位だったように思います。)

あと、鈴木長十師は「おもしろい人がいる」とウワサを聞いて、一度だけ見物・・・ではなく見学に行きました。(私は、四谷校舎の「特理」在籍でしたので。)
鈴木師が「紙で作ったのは、ヒコウキではなくシコウキと言う」と言った ささいなギャグを、なぜか今でも覚えています。

また、駿台の授業はとてもためになりました。(今でも、「財産」です。)

特に、実際に、大学でその科目を専門に研究している先生の一言は、「視点」が新鮮で、驚きでした。

大学の数学の研究者の入試問題を解くときの「思考パターン」もそうでした。

また、予備校の生物の先生が、細胞膜の話の時に「これからの生物学は『膜』の時代だと言われている!」と言われて、「何気なく暗記だけしていた『細胞膜』がそれほど、重要だったのか」と大変驚き、ためになりました。

(これも、高校の生物の授業にはない感動でした。)
(他人に言われなくても、よく考えれば、物質交換している膜は当然重要なのですが・・、ただ、その「視点」を教えてもらえることは大切であると思いました。)

Luke先生のHPも、いろいろな「視点」を教えていただけるので、とてもためになります。

>懐かしくて、ついタイムスリップしてしまいました。

私も、とても懐かしく、ついつい長々と書いてしまい失礼しました。(私は1959年生ですが、先生と想い出の一端を共有できて、感謝でした。)

(ちなみに、私は水泳部だったのでinkin・tamusiには免疫があった為か、あまり悩まされませんでした^^)