No.64の記事

積極的情報遮断

この数年、私自身の意に反してニッポンキリスト教のいろいろな部分との関わりを持った。お叱りをいただくことを覚悟の上で率直に言えば、どこも検討外れのことをしているというのが印象である。様々な教界の出来事やアレコレを知れば知るほど私の霊は疲れを覚えてしまう。

あまり目や耳に無選別に何でも取り込まない方がよいようである。これを積極的情報遮断と言う。神との交わりを深め、純粋な御言葉に対峙するために、あえて目に見えることや耳に入ることを遮断する必要を覚えている。アレコレ知ったところで、私の霊的歩みに何の益があろうか。ブラザーローレンスのように、神の御前における臨在にとどまる修練をむしろ必要としていると感じる。

「新しい霊の流れ」とか、「最新の預言・幻」だとか、あそこに「油注がれた器」が来たとか、やれやれ、もう食傷気味である。ニッポンキリスト教はあまりにも野心と人のニオイが満ち、浅薄である。状況を知るほどに「一言物申す」となるのもそろそろ疲れるので、私は数年前のようにニッポンキリスト教からは少し離れたいと感じている。

主の大庭にいる一日は千日にまさる、とあるとおりである。