No.330の記事

104歳の禅僧のことば

NHKで永平寺の主管のドキュメンタリをやっていた。いいですね、永平寺。私も観て来たが、森閑とした山の斜面に伽藍があって、雲水たちが作務をしていた。静岡の臨済寺もいい。夏にはセミで山全体が鳴く。そこの入り口に「脚下照顧」とあった。ちなみに私も家では作務衣でおります。

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禅師の話:

悟りと言うものを何か日常から離れたこと思うからいかんのじゃ。日常の当たり前のことがすべて禅であり悟りじゃ。スリッパが乱れていたら、スリッパを直すのじゃ。ゴミがあればゴミをひろう。

座禅も息とひとつになることじゃ。その時に妄想は消えて、環境とひとつになる。自分をわすれることや。すべてのことにおいてひとつになることじゃ。それが自然の法に任せて生きるということ。自然はみな時期が来れば花を咲かせ、何の報酬も期待せず、誰からも認められようとかせずにただ法に従って生きるだけじゃ。自然はすばらしい。

わしは永平寺とひとつであり、永平寺は私である。だから永平寺を愛すること、さらには環境を愛することは自分を愛することじゃ。ただ法を行なって、ただ生きること。これが道元禅師の只管只座じゃ。

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道元はかく言っている:

「仏道をならうとは自己をならうなり。自己をならうとは自己を忘るるなり。自己を忘るるいふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるいふとは、自己の心身、および侘己の心身をして脱落せしむるなり」―要するに自分から意識が離れて法のままに生きること。自分の心身から意識(注意)が離れることを「心身脱落」という。

主は生活の糧を思い煩う人々に、「野の花を見よ」と言われた。いのちの法則を見よと。「自分の魂を自分で救おうとする者はそれを失い、失う者は得る」と。

禅者はもちろん霊的ないのちを持っていないし、現に鈴木大拙は「わしはイエスは覚者と分かるが、聖霊だけは分からん」と言っている。しかし魂の経験として、自分の何かから意識が離れる点は同一である。これはパウロのローマ7章から8章への飛び越しと同じ。

私たちキリスト者は、自己を忘れ、心身脱落して、キリストのいのちの御霊の法則に乗ること。きわめて楽な生き方である。法にませた生き方。このときにはただ当たり前を当たり前に生きるだけ。人からの評価や報酬などはかえってうっとしく感じられる。

しかし心身脱落したクリスチャンはあまり多くはいない。だいたい神学オツムでガチガチで、いのちの法則などは聞いたこともない。多くのニッポンキリスト教徒は"苦しチャン"である。しかしブラザーローレンスも言っている:任せた者には苦も楽も同じだと。藁を一本拾うことにも喜びがある、と・・・。

さあ、自分の教会を大きくして、信徒を増やして一旗挙げたい牧師には、ぜひ永平寺で10年くらい修行をしてもらいと思うのだが・・・。「只管只座」の境地を得て欲しいものだ。

詳細はこちらを:

「意識の扱い方について」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/consciouness.html