No.2672の記事

本日の一冊

アップロードファイル 10KB鈴木大拙の『東洋的な見方』。大拙の真髄は「即非の論理」、すなわち「AがAにあらずして、よってAである」に尽きる。彼は言う「神はその外面から見るべきではなく、その主体性の中に飛び込んで、初めて体認せられるのである」。大拙は自ら「聖霊が分からない」と告白しているから、ここで言う「神」は私たちの神ではない。彼も「ユダヤ系の神ではない」と明言している。しかし私たちの経験を実に良く喝破している。

神を神学の対象としている限り、神は経験できない。大拙の紹介する禅者百丈懐海の言葉にこのようなものがある:

祇如今鑑覚、但不被一切有無諸法管、透三句及一切逆順。透得過、聞百千万億仏出世間、如不聞相似。亦不依住不聞。亦不作不依住知解。云云。(四家語録)

訳:ただこの「見るもの」、これが一切の有無的二元性を離れている。三句(正反合としておく)などというもの、矛盾性のものを透過している。透過しているから、一切が仏だなどといっても、少しも気にかけぬ。また気にかけぬと意識もしない。それからまた、意識的知解もせぬというところにも、ぐずぐずしていない。

このような意識状態

離四句絶百非、天上人間唯我知。

訳:絶対的に一切を否定したところで、「独坐大雄峯」だ。

と言う。大拙は「これを"Truth is Subjectivity(真理は主観性である)"という。私たちの表現では、真理は内にいますキリスト、また私たちはキリストの内におり、真理を知るならばあなたがたは自由となる。ウォッチマン・ニーのように20年間幽閉されていようと、彼はそのキリストにある自由を享受したのだ。塀の外とか中とかの二元性を離れる時に・・・。楽しいとか苦しいとか、その分別を離れることが自由。ブラザー・ローレンスも言っている:真に委ねた者にとっては楽しさも苦しさも同じだ、と。楽しかろうが、苦しかろうが、それを判断する自己 を放下する。主も言われる、

自分の魂を救おうとすれば失う。失えば得る

と。究極のオクシモロン(Oxymoron:自己矛盾的言説)。私たちの主観的経験においては、「Aであること」と「Aでないこと」が同時に成立する。唯キリストを主観的に味わうこと−これが禅的基督者の生活である。現代的に言えばキリストのクオリアを楽しむこと。

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筋トレを少しづつ開始しております。ワークアウトした後の何ともいえない筋肉の疲労感がイイのです。

Commented by サラ 2007年02月08日(木)22:15

>真に委ねた者にとっては楽しさも苦しさも同じだ、と。楽しかろうが、苦しかろうが、それを判断する自己 を放下する。

ルークさんありがとうございます。
夫婦で読ませていただいて、二人で一致してアーメンです。

Commented by DJ Jerry Eメール 2007年02月09日(金)04:05

oxymoronに関しては僕も言語的に大変興味があります。先週もTravel writingの授業で、elegantly simpleという表現が出てきたので「これはoxymoronか?」と質問したところ残念ながらNOと言われてしまいましたが。僕の好きなoxymoronはreasonably crazy とかpretty uglyなどです。