No.105の記事

私の内なる財前五郎

田宮二郎版『白い巨塔』は全部を録画しているほどのファンである私ですが、昨日のメッセージでも語ったが、私の内には財前五郎がいるからなんですね。

ついに財前に致命傷を与える佐々木さんが登場し、「自分はこんなとこで検査など受ける時間なんかない!」と駄々をこねるわけ。この様を見て、財前は「私はあなたを診療する義務もないのだから、自分できめなさい。」と一蹴する。

実はこの台詞は、「あなたは私に何を期待して電話してきたのですか」と言う問いかけと共に、私もよく用いている。私はいわゆる悩んでいる人、苦しんでいる人がすねたり、甘えの満たしを求めたり、ダダをこねたりする場合、まず相手にしない。私には彼らのご機嫌をよくするためになだめる時間はない。

私の内には確かに財前五郎が住んでいる。まずは自分の利益のみを考え、他人を蹴落としても上に行きたいというエゴの塊。ヤコブそのものである。財前は里見のあり方に対して、「里見は偽善だよ。ああいったヤツが本当に存在しては困るのだ」とささやくが、私も同じように感じている。人の本質は徹底して罪であることを私は前提として人間関係を得る。よって「愛の手で世界を結ぼう」と言ったきわめて臭いニッポンキリスト教的台詞には辟易する次第。これはまず嘘。

こう書くとある種の人々は「Dr.ルークは愛の欠如した、心の貧しい者で、憐れみを覚える」と言われることはすでに何度も経験した。そしてその通りである。しかし罪は赦されたので、今度は罪を犯さないようにガムバッテ、善人として生きようと努めるクリスチャンの多いこと多いこと。かくして真実な人はクルシ(苦し)チャンとなるが、取り繕いをし続けることができる人は、リッパなキリスト教徒として、良き社会人として、良き日本人としてニッポンキリスト教の中でそれなりの地位を占める。

世の中、否、教界にあっても、どこに真実があり、何がハリボテでであるか。いずれ主の前に立つときに明らかになる。今のニッポンキリスト教では真に十字架がなくてもやっていける「優等生クリ」が多すぎますね。かくして、一定のパタンにはまり、一定の活動と発言をソツなくこなすだけのコスプレ集団と化してしまうわけ。ハッキリ言って、今の教界のあり方は相当に気味が悪いですよ、そう感じませんか?