仁和寺の和尚化した信仰者たち
どうも、信仰者なる人々を見ていると、真剣に的外れを演じているケースが多い。そもそもジーザスが言ってもいないことや邦訳聖書の誤訳を間に受けて、自分 は自分の信仰に忠実に生きているのだ!と懸命に主張している姿はかなり滑稽。自分のオツムの中で何かが空転、要するに自作自演なのだ。カプセル化したマイ ワールドに生きているわけ。
今回のメッセでも語ったが、「わたしの信仰」、「あなたの信仰」なる表現がすでに的外れ。フェイスをとんでもなく勘違いしている。が、わが道を行く彼らはなぜか聞く耳を持たない。徒然草の仁和寺の和尚の話は他人ごとではない。
繰り返すが、罪とは的外れ。純粋また真剣であればあるほど、それに気がつかない・・・。それを指摘するとかえって頑なになっていく。彼らはしばしば"善人"であるゆえに、こちらが不当とされて憐れみを受けるまことに"善人"は救われない、"悪人"であることは幸いなのだ。
また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、<聞く者は>更にたくさん与えられる。持っている人 は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」-Mark 4:24-25(<>は邦訳では削除されている)