フェイスとは?-キリスト教からの解放
- 2016/02/02 12:40
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:フェイス, サブスタンス, マインド, ニュー・クリーチャー, 新創造
義人は信仰によって生きる。今週のメッセでは、これをあえて、義人はフェイスによって生きるとした。信仰と言うと、ニッポン人は日本語の意味において理解したツモリになる。が、フェイスとすると、一瞬、うん?、となる。ギリシャ語のピスティスになるともっと???だろう。日本語として理解してしまうことは、実は、大いなる方向違いを引き起こす。私は信じたのに癒されなかった!と憤慨する向きがけっこうある。意外にも、Salt氏すらもそのように抗議してきた。あなたの「信仰」はフェイス、つまりピスティスではないのだ。それは思い込み、希望、願い、に過ぎない。ある人の言葉が至言:神が反応されるのは私たちのニーズに対してではなく、フェイスに対してである。
フェイスがなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神があることと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。-Heb 11:6
「神がある」とは"I AM"だ。神はありてある、だ。フェイスに対して神は応える。これは厳然たる事実。ここで重要なことがある。
あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。-James 2:19
神を信じれば救われる、よくキリスト教では言われる。この「信じる」と同じ単語"pisteuō"がここで使われている。悪霊も信じている!?Are you with me? フェイスとは霊的領域のサブスタンスと見えないそれらの立証(Heb 11:1)。このフェイスには定冠詞がない。つまり物理的時空間の五感の外の霊的領域の一般的センサーなのだ。そのフェイスをどのように用いるか。悪霊どもは神をフェイスにより知っている。が、十字架のサブスタンスと一体化されていない。われわれは十字架の死と復活に一体化され、新しい創造、ニュー・クリーチャーとされている!この霊的リアリティーが私たちの救いなのだ。つまり使徒信条をいくら唱えても、キリスト教神学をどんなにお勉強しても、それは単なるキリスト教徒を作るだけ。ニュー・クリーチャーの誕生、つまり生命現象を起こすことはできない。だからイエスはニコデモに言われた:
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。・・・イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。-John 3:3-6
新しく生まれる、あるいは新しい創造とは、ヤクザが心を改めて新しい人生を始めるといったレベルのことではない。それは所詮五感の領域の現象に過ぎない。○○学会でも○○の科学でもいくらでもあること。新しい生命体になることなのだ!血肉は決して神の国に入ることはできない(1Cor 15:50)。神の国に入るのは神と同じ属性を有する存在。私たちは神の霊を分かち与えられた存在(1John 4:13)。つまり私たちの霊は神類なのだ!それがネオ・ホモサピエンス、ニュー・クリーチャー。この血肉はあくまでも旧創造のもの。しかし私たちの本質である霊は神類。神が私たちの肉をとおして現出する場、これがエクレシアだ。なんとか教団やかんとか同盟などの人間のわざではない!エクレシアは奥義(1Tim 3:16)、ミステリーなのだ!生まれつきのマインドでは決して理解できないこと(1Cor 2:14)。
フェイスはシックスセンス。霊的領域と永遠の世界にタッチする能力。あなたはシックスセンスであるフェイスを用いてどのような霊的サブスタンスを得るだろうか?これがあなたの、そして私の永遠の運命を決定するのだ。それは生命現象だ。繰り返すが、キリスト教なる宗教から解かれよ!