最近の日記

真の聖は

イエスの周りにはエライ人々はほとんど集まらなかった。集まったのは収税人、売春婦、らい病人、無学な者など。それからご婦人が多かった。彼らはイエスの聖さに惹かれていた。

まことの聖は人を遠ざけるものではなく、人が安心して近寄れるもの。それは健やかさであり、解放感であり、安心感であり、安らぎである。

しかしながらニッポンキリスト教を見るに、どうも「聖、聖、愛、愛」とヒステリックに叫びながら、実態はその逆である。それどころか、むしろ人々を病いへと導くようだ。

私の実感は一言:ニッポンキリスト教は病んでいる。しかも自分が病んでいることを知らない。病識の欠如は致命的である。自ら省みることができないのはまさにビョウキの証拠。

神が人々を導きたくても、とても、とても・・・。リバイバルどころではなく、サバイバルの問題と感じている。

オンライン・バイブル・カレッジ

前々からの懸案であったオンラインでの学びのコースですが、ようやく実現へ向けてただ今準備中です。これまでにテープで提供しておりましたが、テープコピーで疲れ果ててしまい、ご注文をいただいている方々にもご迷惑をおかけしてきました。なにしろコピーが追いつきませんで、お手上げ状態でした。何卒よろしくご了承下さい。

まずは「真理はあなたを自由にする」と「クリスチャン・プラクティカル・コースT,U」からスタートできそうです。その他のコースもそう遅くなく提供できると思います。

予定している形は、

1)テープの代わりにオーディオ・ファイルをサーバーから落としていただくだけのコース

2)レポートを提出していただき、要件を満たした場合、Certificate(修了書)を発行するコース

を考えております。2)のコースではご質問やディスカッションをメールまたはクローズドBBSでできるようにし、レポート提出もメールで行ないます。すでに大学でもネット大学ではこのような形になりつつあります。

いずれもこれまで受講生とテープ購入者の皆様との公平さのために有料になります。詳細は後ほどアナウンスいたします。

Dr.Lukeの輝かしき称号 !?

疲れました・・・。本日はAO入試。午前中2時間の試験監督と、午後18名の面接。試験監督ではリーダーの先生が立ちっ放しのため、われわれも立ちっ放し。彼が座ってくれると、われわれも座れたのだが・・・。私も一応気を遣うのです^^

午後は面接。受験生はただ一度の場面であるが、こちらは18名を相手。しかも、しかも、ですよ、彼らの言っていること、どうしてみんな同じなの!?言うことがワンパタン。マニュアルが出回っているのだろうか・・・。同じことを18回聞かされると、けっこう精神的拷問です。ふう〜。

 * * *

私は一応学歴もあり、自ら生計を立て、社会人として近隣と職場での評判もよく、学生からも慕われており、家庭では良き夫、良き父親として3人の子供を育て、ローンの返済も滞ったこと一度もなく、税金もかなり払っておるのでありますが、なぜかニッポンキリスト教界と関わるようになってから、直接・間接にいただきました称号は次の通り:

神に反逆する者、聖霊様を汚す者、呪いの預言者、カルト教祖、ハーレム主催者、虐待牧師、異端者、品性卑しき者、偽善者、多重人格者・・・汗

あの逮捕されたK牧師も真っ青・・・。ヤレヤレ。ありがたいことであります。彼らとあえて争うつもりはありませんし、和解できる場合はそれを望みます。このギョウカイで芳しい評判をいただくことの方がむしろアブナっかしいと思っています。肉に頼れば、そこそこ頼れないこともないのですが・・・、それにしても見事だなあ〜^^

いのちの不思議

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考えて下さい。私たちがアダムにあって受け継いだいのちすら、どのように精緻に造られているか。

例えばDNA。A,T,C,Gの4つの塩基配列からなる二重螺旋ですが、三つの配列に原則としてひとつのアミノ酸が対応し、アミノ酸がつながってタンパクが合成される。

この暗号をコドンと言うが、これが私の、そしてあなたの設計図です。このDNAの指令によって毎日私たちの体は合成されているわけ。

私たちはこのようなメカニズムをひとつひとつ知る必要はない。ただそのいのちの働きに任せるだけ。

霊的ないのちも同じ。このいのちの絶妙なメカニズムに信頼するならば、私たちは自然とキリストに似た者とされていく。それは霊なる主の働きによる。

アップしたファイルは、パワーポイントファイルです。ある教会での伝道集会のために作ったものです。ご利用下さい。

(パワーポイントがインストールされてあれば、クリックすると始まります。幼稚園の頃の紙芝居みたいでイイですね、PPTは・・・)

いのちの現われ

アップロードファイル 200KB

(Holiness)とは、客観的には神への分離(separation)、主観的には健やかさ(wholeness)。

いのちには必ず表現がある。鳥のいのち、花のいのち、それぞれに。その健やかないのちの表現は、自然さ、明るさ、解放感、伸びやかさ、さわやかさ、楽しさ、喜び、平安と安息、そして信頼感。どうもサタンはそれらに嫉妬するようだ。

そこに気張りはない。任せているから。自転車も最初は手放しなどできないが、法則をつかめば手を放せる。法則に委ねた結果。同様に私たちも主に対してどこまで手放せるか。いのちの法則をつかめばつかむほど任せることができるようになる。

かくして気張っていた魂から力が抜けるとき、伸びやかな魂の救いを味わう。

あなたがた魂において恵まれている同様に、あらゆることで健やかであるようにと祈る

原点

アダムとエバが享受したエデンの園の生活(life)はどんなだったでしょうか?もし彼らがいのちの木を取っていたら、その後はどんな生活(life)だったでしょうか?

彼らは善も悪も知らず、ただ神に赤子のように頼って生きていたのです。律法を守るとかの意識もなく、いのちがすべてを教えたはずなのです。「業の契約」などという意識もなかったでしょう。

イエスはそこで失ったいのち(life)を改めて私たちに下さったのです。いのち(life)はそれぞれの固有の生活(life)を持ちます。

シンプルで安らかな原点に戻りたいと願います。

うーむと思わず

やはりコワイです。このキリスト教と言う業界。ジュンヌ・ダルクをはじめ、異端審問で焼かれた人も昔はいたわけですが。再建主義では中絶した女性は死刑だそうです。私は彼らを理解しようと努力したのですが、やはり超えられない一線がありました。

不思議なのはなぜ自分が正しいことをしているのであれば怒るのでしょうか。「人の怒りは義を全うしない」とあったような。私たちが間違った聖書解釈をしているのであれば、納得できる説明があればいくらでも改めるつもりです。私は自由主義神学書など見たこともありません。

創世記4:6-7「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。」

Uテモテ2:25−反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。

とあるのです。もし私の態度に失礼な部分がありましたら謝罪いたします。お赦し下さい。

それに加えて、驚くのは、かつての某集団の人たちもやっぱり見ているんですね、ここを。もう20年前なのですが・・・。で、こんな場面で、富井氏に私のことを告発して、いまだに私に粘着してくるとは・・・。ほんとに驚きます。ほとんどストーカーです。

この集団の名前を出してもいいのですが、まあ、今回は伏せておきましょう。分かる人には分かると思いますが。私は何しろその集団のほぼ絶対的指導者の秘密を握っており、彼を批判したところ、「神に反逆する者」の烙印を押された者ですので、こうなると時が時ならばホント身の危険も覚えます(汗)事実脅迫も受けていますので・・・。

映画でもカトの修道院の隠微な世界を告発したショーン・コネリーの『バラの名前』(だそうです)とか、日本でもカト系某学園の内情を曝露した花村萬月の芥川賞作品『ゲルマニウムの夜』など、この業界に題材をとった作品はたくさんあります。私も文才があれば書いてみたいと思っているくらい。

何でクリスチャンが1%なのか。それは主が憐れみをもって制限されているからです。とても今の現状では人を養うことなどはできません。前にも言いましたが、進化論を批判するならばもっときっちりと勉強してからして欲しいし(私は創造ですよ)、クリスチャンになどとても経済や政治は任せられるわけがありません。そのためにはいのちの成熟と専門性の学びと訓練です。

再度言いましょう:古のヨセフもモーセもエジプト(この世)で学び訓練を受けたのです。神学オツムで世から切断されてはなりません。どんどん世と関わって、世から学び、世のものを神の幕屋の設立のためにぶん取る(合法的にですよ^^)必要があるのです。今の流行のチャーチスクールだのホームスクールだのは今後10年で実を刈り取ります。精神病理の専門家として言えば、それはちょっと寒くなる状況でしょうね。これはここで明言しておきましょう。

新約聖書でもっとも律法を強調したヤコブですらこう言っています:

憐れみは裁きに打ち勝つ。

買収、またも・・・

かつてアノ横井秀樹氏が白木屋などを株の買占めで乗っ取った時代があった。小説にもなっているが・・・そして今また・・・

どうもいわゆるネット関連会社の、金に物言わせた株の買占めによる会社の乗っ取りは、イヤな感じがしますね。村上ファンドのあのトッチャン坊やは「TBSの方はいませんか。買収がイヤなら何で株式を公開してるんですか!」とエラそうに・・・。

会社は株主のもの−確かに商法ではそう。しかし会社は従業員の生活場であり、人生なのだ。彼らが営々と築いたものだ。そこを食い荒らすようで、実に気分が悪い。

金で人の頬を張るみたいなやり方は必ず社会の荒廃を招くであろう。小泉氏のやったこともこれから10年、20年にわたって、ジワジワとニッポンの心を蝕んでいく。

クリスチャンの議論のあり方

午前中はいつもどおり、プールとサウナ。これをしないと1週間がシャキっとしません。92年からですから、もう13年。このスイミング・クラブはちょっと旧くて、平均年齢も高いのですが(おばちゃんばっかり!)、サウナもコースも「マイ」で行けますから。プールの目的は泳ぐこと。若い子を見ることではありませぬ。

女性コーチたちは体型がなんとも日本人でして、若い子にはとても夢を与えません(太目のほぼ5頭身だぁ・・・)。しかし贅沢は言えません。近くの高級クラブは設備もいいし、コーチもピチピチしているのですが、イモ洗い状態。皆さんキラキラと人の目を惹かないものがイイのです。午後はカミさんと次女とでいつもどおりチネチッタにて映画。

 * * *

ディスカッションではイロイロと刺激になりましたが、結構収穫があったと思います。同じ聖書を読みながら、これほどに異なる受け止め方をしている人がいることの発見は貴重です。しかしもしかしたらコチラの常識がおかしいのかも知れないと、下の科学者的姿勢でも言いましたとおり、ちょっと留保を残しておきましょう。

私たちにとって大切なのは交わりです。聖書の解釈の違いを超えて、交わりを維持すること−これが最も重要であるとウォッチマン・ニーも言っています。とかく同じ意見で群れる方が楽ですから、そちらに流れるのが人の常。これは世も教界も同じ。違った相手を受け入れることにおいて霊的な度量が問われるわけです。その人を通して流れる神の何かをミスすることのないように。

交わりの本質はいのちにあります。相手に何がしかの真実といのちが感知されるならば、開く必要があります。相手が悪意のある単なる戯言者であるならば、無視すればよいのです。その人が自らの言葉で自らを証しし、裁かれるだけです。この意味で意見の相違や神学の種類でキリストの体が分けられていることには、私たちはうめきを覚える必要があると感じております。

自然科学の方法

どうも神学オツムの方は、ひとつの神学のフレームを持つと、頑なにソレを御言葉に優先し、むしろ御言葉をそのフレームにはめたがるようです。

私たち自然科学者は逆です。なるべく一定のフレームを持たないことを心がけます。私はこれを「カラスの論理」と呼んでいます。自分がこれまでに見たカラスが黒かったから、一応「カラスは黒い」と主張します(「不完全帰納法」と言います)。が、もしかしたら白いカラスがいるかも、と留保をつけて置くのです。なにしろ世界中のカラスを見たことはないのですから。

対して神学オツムはいったん「カラスは黒い」となると、たとえ白いカラスを見ても、「いや、アレはカラスではないのだ!」となります。ヤレヤレ。

アインシュタインが出る前にもニュートン力学の矛盾は知られていました。が、彼以外の人はその世界(フレーム)から出られなかったのです。だから理論がコジツケでした。しかしアインシュタインは単純に実験による事実(光速度不変の原理)を認めてしまったのです。これを説明するためにコジツケをするのではなく、逆にこれからすべてをスタートしたのです。これが特殊相対性理論です。

しかし物理理論は必ず実験による検証と言う関門をくぐります。彼はパスしました(妄想ではなかったのです^^)。次に一般相対性理論を作りました。これは特殊が等速度系での理論であるのに対して、加速度系での理論です。これがやはり実験で確認されました。

しかし特殊相対論はニュートン力学を否定しません。むしろその中に吸収し、含むのです。だからロケットを飛ばすのはニュートン力学で十分です。同様に一般相対論は特殊相対論を否定しません。むしろ含むのです。こうして神の造られた世界の構造はますます精緻に理解されるようになったのです。

モーセ律法といのちの御霊の法則の関係も同じです。MS-DOSとWindowsの関係がご理解いただけないとは・・・涙、涙であります。どうも神学の方は永遠にニュートン力学(いや、それ以前)に留まりたいようですね。そこはとても不自由な世界なのですが。相対論の世界の方がはるかに自由であり、楽しめるのですがね・・・。まあ、あえて折伏はしませんが、少なくとも私の言っていることは正確に理解いただきたいと願うだけです。

(ホンネ:再建主義がすべての分野に適用されたら、これはもうニュートン以前に戻りそう・・・汗)

いやあ、驚きました!

富井さんとのディスカッションと言うか、どちからと言えば、私が聞き役に回っておりましたが、大変に刺激的でした。「モーセ律法はいのちの御霊の法則」であり、「旧約の人も新約の人も同じいのちを得ていた」・・・。これを読んで本質が見えましたので、もはや十分であると判断いたしました。(彼、大丈夫かな・・・)

私はニッポンキリスト教徒と接していて、いつも私の専門が疼かされます。実にニンゲンを見るわけですね。前にも言いましたが、それぞれの精神病理に従って神学を選んでいることはますます証明されてきます。繰り返しになりますが

ニ・ン・ゲ・ン−この不可解な存在。何故に神は・・・と。

本質に迫ってきました

富井さんとのディスカッションは、結局、レビ系の祭司制度でのモーセ律法に対して、よりすぐれたメルキゼデク系の祭司制度での律法とは何か、という本質的な論点に来ています。英語では律法もlaw、法則もlawです。

祭司制度の変更によって律法も変わると明確にヘブル書に書いてあるのです。しかもこのレビ系の律法は富井さんの言われる律法主義者の「律法」ではない。純粋なモーセ律法です。

エレミヤ書の新しい契約で心に書かれる律法はモーセ律法であると富井さんは言われたわけです。これは石に書かれたものが心に書かれるわけですから、まあ納得できないこともありません。

しかしヘブル書では祭司制度の変更によって律法も変更されるとあります。では、そのメルキゼデク系の律法とは何か?

富井さんの回答を待ちたいと思います。印象として、富井さんの議論はいのちの次元が忘れられているのですね。しかし契約神学についても学べましたから、収穫はありますね。

 * * *

楽しんでいます、『三国志』。私と漢文の先生で話していたら地理の先生までも興味を持たれ、読み始めました。ちょっとしたブームになっています^^

もう少し遊びましょう

命題「p⇒q」とは、「¬(p∧¬q)」のこと。(「『pであって、かつqでない』ことはない」と読みます。例えば、「雨が降るならば傘を差す」とは「『雨が降っていて傘を差さない』ことない」ですよね。

つまり

「Windowsを使うならばMS-DOSを使っている」

ことを証明するには、

「『Windowsを使いかつMS-DOSを使っていない』ことはない」

ことを示します。

これを否定して矛盾を導く論証を「背理法」と言いますが、

『Windowsを使いかつMS-DOSを使っていない』

ことはあり得ません。そもそもWindowsはMS-DOSのカーネルの上に作られてきたのですから(今のNT系統は別ですよ)。これは事実に反するわけです。

よって証明終わり■

同様に「始めの契約(モーセ律法)」(MS-DOS)は「後の契約(いのちの法則)」(Windows)よりも劣りますが(これはヘブル書の語る事実です)、その原理は神の聖による愛と義に基づくものですから、後者は前者を否定しません(これは同意事項)。むしろ当然に含むわけです。よって上の証明がそのまま適用されるわけですね。

論理学的には・・・

富井さんとのディスカッションはかなりの相違点が露になると同時に、同意点も分かってきました。

相違の一番のポイントは、繰り返しますが、Windows(いのちの御霊の法則)とMS-DOS(モーセ律法)の関係なのですね。

論理学をちょっと弄すれば、

「xがMS-DOSを使う⇒xがWindowsを使う」は偽です。

逆に

「xがWindowsを使う⇒xがMS-DOSを使う」は真です。

同様に

「xがモーセ律法を満たす⇒xはいのち(Zoe)の御霊の法則を満たす」は偽です。

理由:モーセ律法は、そもそもそれを満たす力を持ついのち(Zoe)を与えないから。

この逆は真ですね。つまり、まずそれを行なえるいのちを得ることにより、

「xがいのちの御霊法則を満たす(十分条件)⇒xがモーセ律法を満たす(必要条件)」
 
ですから、私たちが満たせばよい前提条件は、いのちの御霊の法則に従うこと(=御霊に従うこと)で十分なのです。すなわち責任を負うのもこの法則あるいは御霊に対してです。

論理学的には、「モーセ律法を満たすための十分条件はいのちの御霊の法則を満たすこと」です。われわれサイエンティストはこのように論理を用いるものですが・・・。

注:「⇒」は「ならば」の意味で、英語では“imply(含意する)”のこと。

しかしこうやって話し合うのも結構楽しめるのだ・・・実は^^