* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
もうダメかと思っていました。年齢も33歳。引き際をわきわまえた方が・・・と今朝まで思っていました。
立派ですね。2年前に負けた坂の前からスパートをかけると。「あの坂に負けたくないという気持ちは持っていた。自分自身の思い出との戦いだった」と。
女々しいクリチャンたち特有の自己憐憫の一片もない。人が悪い、人が自分に何した、あの人に傷つけられ、あの人に裏切られ・・・。自分を省みることができず、自分から脱することができない人々の群れ。
このジメジメ感がキョウカイの現状だが、Qちゃんの清々しさにホッとする感覚をいただいた。次のオリンピックでもう一度勝たせてあげたいと期待も膨らむ・・・。
新宿は歌舞伎町のホストクラブや飲食店のドキュメンタリーを見た。まさに生き馬の目を抜く世界。実はウチの娘たちもヨコハマあたりではスカウトから度々声をかけられるらしい。そして何と息子まで、川崎に参考書を買いに出かけたら、ホストクラブのスカウトから声をかけられたとか!?
それにしても彼らの悲喜こもごもを見ると、何かおかしさを覚える。あのギョウカイでNo.1を取って、成功して、いったい何なかと。しかしそのギョウカイの人にとっては死活問題なのだ。ギョウカイとはどこもそんなもの。自分の価値をそのギョウカイの物差しで測るわけ。
で、実はニッポンキリスト教も同じ。多額の借金をして立派な礼拝堂を建て、信徒数云千名が勲章となる。「十分ごとに笑いを取る説教を学ぶセミナー」に200人もの先生が集まるとか。日曜日の参加者数をオペラグラスでカウントしている先生もおられるとか。聖会の動員数が何千人とか、どこの施設で開いたとか、礼拝堂をいくつ献堂したとかが牧師の価値となるキョウカイと言うギョウカイ。かくして外型を作り、それを維持することで窮々とし、煽られる信徒たち。ボクシと言うホスト家業。
礼拝とは何なのか。主イエスだけを求め、主と交わる聖別された時間。そこでは求めることはただ真理と霊による礼拝であって、人のことなどはどこかへいってしまう。その時間を捧げた後、内に爽やかないのちの息がそよぐ時、それだけで満足を知る。かくして疲れた体にも油塗りと共にいのちが与えられる。
外観を飾っていのちが消耗するあり方と、外観はどうでも内がいのちで満たされるのと、どちらが本質的であろうか。主と交わることだけを求めて、なるべく無駄な経費や労力は消耗したくないと、グータラな私などはまず第一に考えているのだが。確かにこれではニッポンキリスト教では成功しないなあ〜^^
どこぞにアスファルトを破って生えてきたど根性大根があるそうな。えろう評判になって、めげている民を励ましたそうな。ところが、どこぞの不届きモンが、大根のクビを切り取ってしまったとか。
で、近所のオバチャン、「誰がこんなかわいそうな事をするんかねぇ。情けないねぇ、涙が出てくる。かわいそうにねぇ・・・」。
ところが犯人、心が責めたのか、大根の頭を元に戻したとか。そこでマスコミのお兄ちゃん、東京農工大の先生に「元に戻りますかぁ〜!?」。先生「いやあ〜、それは無理でしょう。でもかろうじて花を咲かすことはできるかも知れませんよ」。マスコミのお兄ちゃん、「ああ、よかった〜♪」。
たかが大根、されど大根。ど根性大根ともなると、人の心に感動を与えるのでありまして。おでんを食する際、永遠に語り継がれることでしょう。殺伐とした昨今、ホッと一息つけるお話。お後がよろしいようで。
今風呂から上がり、ビールでホッとしております。
AO入試が終わりました。午前2時間の試験監督。午後は15名の面接。で、前にも書きましたが、皆様、実にワンパタンなお答え。「カミっさまはあ〜!!!」の牧師たちの金太郎飴的メッセと同じだ。ある方が「ウチのセンセイの説教は笑いを取る場所も決まっているし、オチも分かっちゃうけど、お付き合いで笑っています」と言っておられたが、まあ、似たようなもんだ。隣の先生もその受け答えでウンザリしているのが良く分かってしまった・・・。
控え室で薬学部の先生に今話題のタミフルのことを聞いてみた。彼いわく、「あれはロッ○ュが独占製造だし、日本では武○が独占販売していて、学者も研究費とかもらっているから、問題があっても指摘できないんですよ。14人が死亡と言っても、分母は1000万ですからね、因果関係を論証するには5年はかかりますしね・・・」。なるほど。で、灯台元暗しで、実はウチの娘も飲んでいた。今のところ大丈夫そう。子供にリスクがあるとのこと。ウイルスも中国では広がりそうですから、手洗いとうがいをゆめゆめ怠ることないように、皆の衆。
* * *
チャペル・サーヴァーの回線を光ファイバーにする試みは挫折。ビルが旧くてファイバーが入らないとか。やれやれ。できれば、帯域が20倍位になるのだが。ウチのマンションには入っているので、ザーヴァーを自宅に戻そうかとか、イロイロ考えております。もし速度低下などの症状がありましたら、時間をずらすとかで対応をお願いします。
12月27日、伊豆の土肥玉樟園新井です。落ち着いた老舗です。西伊豆は派手さがなく、しっとりと落ち着いて富士山と相模湾を眺めながら、鮮魚が楽しめます。これであと1ヶ月何とか走れそう^^
* * *
で、あすはAO入試で、今週は休みなし。日曜日に礼拝をするのも、私的にはかなり自己否定が必要なのだが(ほんとは家でまったりとしたいのだが)、主が触れて下さるのでもっている。ポツポツと、3歩進んで2歩下がる歩みをしましょう・・・。
ある方から下の記事を見てショックを受けたとメールをいただきました。どうしたらよいのか、と。
これらの人格障害や精神疾患は何故生じるかと言いますと、学問的にはイロイロ説明ができますが、聖書的には「自らの体・魂・霊の必要を自分の手段(=肉)で満たそうとする試み」なんです。この心のヤリクリが症状だったり、苦悩だったりするのです。神から分離された人類の宿命です。
よって解決はひとつです。「自らの体・魂・霊の必要をキリストにあって満たすこと」。つまり自分の心のヤリクリをしないこと、です。神がヤリクリして下さるのですから(1ペテロ5:7)。これが信仰です。ところが今のニッポンキリスト教は、このような信仰を何も教えていない。クリスチャンになった後、何をどうして、どうやって生きていけばよいのか分からなくなるわけ。むしろクリスチャンにならなかった方が、ソレまでの生き方で自然で楽だったのにと。つまり、かえって苦しくなるわけ。
で、野心のある牧師たちは伝道・奉仕・献金と煽り、聖会だ、油注ぎだとバタバタするから、その下にいる人たちは一時も落ち着けない。信徒たちも自分の信仰で歩めないから、あっちのセンセイ、こっちの聖会と・・・。これで満足や喜びがあるでしょうか?
はっきり言いましょう。今のニッポンキリスト教で表に出ている先生たちのかなり多くが、自分自身の問題を抱えています。その自分の問題(野心も含めて)の解決のために、教会運営や伝道に燃えたり、ベニヒンだのに仕えたり、トロントだのペンサコラだのに詣でるのです。
自分の日々の普通の生活に満足し、そこで主イエスを楽しみに、人生をエンジョイしている人がそんな疲れることをする必要はありません。主は今ココにおられるのです!そのキリストが私のすべての必要の満たしとなって下さっているのです。あなたには何か欠乏しているものがありますか?私たちはキリストにあって満ち満ちているのです!(コロサイ2:10)
注:オンライン・カレッジの「御霊による霊的成長コース」で、このキリストにある充足を説いています。成長するためには満足が必要です。「ニッポンキリスト教的聖化」などは苦悩を生むだけです。
『週刊文春』今週号によると、被害者は左頸部を切られ、頚動脈・静脈切断、これだけでも致命傷なのに、さらに気管までも切断されていたようだ。加害者は執拗に首と顔と頭部を狙っている。これは殺し方として尋常ではない。おそらくこの加害者は我を忘れるほどの狂気的怒りに駆り立てられてのことだろう。
多分精神鑑定をするだろうが、年齢から見て、サディズムを基調とした偏執性を伴った行為障害あたりと判断されるだろう。もう少し大人であれば、事の経緯や殺害法から見て、境界性人格障害と自己愛性障害、さらに偏執質(パラノイドor妄想性人格障害)あたりに該当しよう。もっと言えば、昨年の幼女殺人事件のようなサイコパス。
これらの人格障害は一般社会では10%程度見られる。つまりかなり多いのだ!病院の外来で20%、精神科外来では30-40%程度になる。で、私の印象では、キリスト教界でもおそらく30%程度見られると感じている。要するに一般社会よりはかなり高いのだ!教職者あたりはもっと・・・?
前にも書いたがこの手の人々が自らの内的葛藤を拡散して問題を起こすことはよくあるし、巻き込まれるとこちらも少なからず傷を受ける。牧師たちからもこの手の人たちが教会をかき回し、牧師自身も心身を壊して入院したがどうしたらよいのかと相談も受ける。まことにお気の毒と言うべきであるが、実はこの手の人格障害には治療法がないのだ。例のサカキバラ少年も5年以上に渡る医療少年院での「治療」を受けて、退院したが、果たして更生できているか否か、今後の監視が必要である。
はっきり言うと、牧師などがこれらの人格障害者に関わるべきではない。「彼らを受容して、愛してあげる」などは、それ自体がまったくの「妄想」であって、彼らはそれで変わることはない。なぜならそれが彼らの生き方そのものであり、アイデンティティだから。絡まれたらエライことになる。
精神疾患の症状には「自我親和性(症状を自分で楽しむ)」と「自我違和性(症状で苦しむ)」の二種があるが、人格障害者の場合は前者なのだ。彼らの特徴は「幼稚さ」。知性はそれなりに発達している自我が未成熟。そこで他者からのささいな態度や言葉によって容易に傷つくのだ。で、これが憎悪に変わる。
このような場合は理屈はほとんど通じないので、いわゆる常識的な話し合いはほとんど成立しない。妄想を持っていたりすると手の打ちようがなくなる。このような場合、繰り返すが、決してガチンコしてはならない。彼らは外見は立派なオトナであっても、内面は極めて幼稚。よって子供を扱うように接しないと、危険性が生じる。分かります?大人として接するから振り回されるわけ。
で、こちらの態度次第では、怒り狂っていたような状態がコロっと変わって、大人しくなる。この豹変振りは不思議なほど。ところが聖霊派あたりでは、何でも「悪霊じゃ〜」とやるからよけいにおかしくなるわけ。これらの人格障害者と接していると、彼らの世界と私たちの世界の相違が良く分かる。価値観や感受性が根底から違うわけ。要するに私たちの常識はまったく通じない世界に生きている!彼らの世界観は自己がその中心。すべては自己から始まって、自己に収斂する。
今後この手の人々が、教会にますます増えるだろう。今学校の先生たちが精神疾患で休職している率が相当程度あるらしいが、牧師たちもいずれ同じ運命を辿る。またキリスト教会の中でも(前に子供が殺された事件があったが)、この手の事件も起きてくるだろう。
繰り返すが、ニッポンキリスト教はアメリカ産の「預言者」(彼ら自体が妄想性・演技性人格障害に見えるが・・・)の吹く「リバイバル音頭」を踊らされている時ではなく、サバイバルの問題に直面していることをしっかり認識すべきなのだ。着々と足を地面につけて日々生きること、これができなくてなぜ神が私たちを用いることができるだろうか?
まことの霊性は生活に現れる。いのち(life)は日々の生き方(living)を、日々の生は人生(life)を創る。神学や聖書の知識はあったとしても、当たり前の生が送れない人はどこかおかしいのだ。私は百のもっともらしい理屈よりは、暮らしぶりの一片を見て人を判断すべきと、ニッポンキリスト教界と関わって、ますます感じるに至っている。
要するに、男はちゃんと仕事をし、女は家事と育児を果たすこと。当たり前を当たり前に・・・。これこそが主にあって、日々是好日。
注:人格障害や精神疾患を持つ人がみな犯罪を犯すと言っているのではありませんので、誤解なさらないように。
授業中、少し気を抜くために学生と話していると、私の学生時代の話題になった。「君たちはワンルームマンションに住んでいるんだろうけど、僕たちの頃は裸電球(彼らは知らないのだ)の4畳半だったんだよ。ある日、友達の下宿に行って、スキヤキをやることになって、それまでパンツを漬けておいた洗面器でやったわけ・・・」と話すと、学生たちが怪訝そうな顔をしている。
ひとりがおずおずと、「先生、洗面器でスキヤキなんかできるんですか?」。私、「そりゃ、やる気になれば、できるさ」。学生「え、火にかけるんでしょ。融けないんですか?」。私もようやく気がつき、心の中で、「そうか、彼らはプラスチックの洗面器しか知らないんだ!」。で、長々とアルミ製の洗面器があったことを話した次第。(見たこともないそうです)
精神保健学の講義で、摂食障害を話すとき、エルビス・プレスリーは通じませんし、カーペンターズのカレンもダメ。宮沢りえになるとようやく通じるという次第。依存症の話をして、ロック歌手などがドラッグにはまる例として、ローリングストーンズやジミー・ヘンドリクスなどはまったく通じません。思えば長く生きてきたもんだ・・・。
* * *
車の出勤で街路樹が黄色く色づき、何とも言えない。春は桜、夏は新緑。秋は紅葉。自然は私たちを楽しませてくれる。今晩は月がキレイだ。ちょっとした毎日の発見が新鮮に感じられるのは、歳のせいだろうか。
今、なぜか無性に論文を書きたくなっている。ひとつのアイディアが発酵しているわけ。オンライン・バイブル・カレッジもすべて完成しましたし、この数年ニッポンキリスト教と関わって大体見えてしまいましたし、このギョウカイも「もういい加減いいなあ」とやや食傷気味。
で、この辺でアカデミズムの方にウエイトを移そうかとツラツラ考えています。まあ、日本語で書いてもあまり評価されないでしょうから、また欧米の専門誌に投稿するつもり。この数ヶ月、また楽しい苦しみを味わうことができそうです^^
* * *
そろそろまた温泉の季節。どこにしようとかとアチコチ探すのも大きな楽しみ♪目先にニンジンをぶら下げて、あと1ヶ月ちょっと、さあ、最後の鞭を入れよう。
(本音:しかし時間の経つのは何と早いことか・・・・)
やはり私の予想通りのようで、相手にされなくなったとモウソウを膨らませて、愛情を抱いていた分、可愛さ余って憎さが100倍の構図です。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051114-00000131-kyodo-soci
しかし取調べを受けている時に、腹が減った、良く眠れたがまだ眠いと訴える神経は普通ではありません。現実感の喪失です。
しかしこの思い込み、さらには妄想は実にコワイ。私たちの立場でも、私に対して勝手なイメージを作り上げ、それと食い違う行動を取ると、たちまち評価がコロっと変わり、恨みに変わることがあるのです。精神科医やカウンセラーはしばしば経験することです。
このような恨みを買うことは実に気味の悪いことです。考えて下さい。この世のどこかに自分に恨みを抱き続ける妄想をいだいた人がいるなんてこと・・・。ニンゲンの怖さをしみじみ感じる次第です。
この女子高生ももう少し違った対応していれば、命までも失うことは無かったと思うのですが。繰り返しますが、彼らとは決してガチンコしてはならないのです。二人の娘を持つ親として、親御さんの気持ちを思うといたたまりませんね。
いやあ、冷や汗をかきました。が、無事復旧しました。原因をちょっとメモっておきます。
HDDを4つのパーティションに分けて、Win2KとLinuxを入れていたわけです。で、そのLinuxのパーティションをFormatして、DATA用にしたのですね。そのときに何を血迷ったか、そのパーティションをActiveにしてしまったのです。そこで起動する時に、そのパーティションをMBRが読みに行ってしまって、そこにはNTLDRがないために起動できなくなっていたと・・・。で、MBMというパーティションを管理して、マルチブートできるフリーソフトを入れて、ActiveのパーティションをWin2Kに設定しなおして無事元通りになったわけです。でもね、ホント冷や冷やでした。祈っています、とメールくださった方々にお礼をいたします。
* * *
BBSでも書きましたが、現在のニッポンキリスト教は真の意味でフルタイマーを立てるほどに熟していません。このギョウカイで生計を立てんとすることが諸問題のルーツでして。私などはこのギョウカイで何を言われても実害はまったくないわけです。だから何でも言えるのですが・・・。今日、食べる方法はいくらでもあるでしょうに。株でも1時間もやれば、5,6万はいけますよ^^それとも牧師センセイたちはそんなにお忙しいのでしょうか。ベニヒンさまにお仕えするために・・・?
私の書斎のPCが起動できなくなりました。かなりヤバイです。あらゆるデータが入っていますので・・・。これは子供部屋のPCからアクセスしていますが、何ともヤレヤレです。あすイロイロ試みてダメだったらどうしようと、アレコレ思い煩っているところです。
頭がイイとは?この特番は面白かった。いわゆるスマートな頭は前頭前野が活発に機能している状態。特に46野がポイントだとの説を紹介していた。
昨今のキレル若者、NEETだ、引き篭もりだ、さらには鬱病などの蔓延は、この前頭前野の使い方に問題ありと考えられる。ニンゲンを人間たらしめる機能はココにある。
しかし最近の若者(ばかりでもないが)は、この機能がほとんど使われていない。小学校でも、「個性の尊重」とか称し、「総合学習」とかいったわけの分からない科目が入って、教師たちも困惑している中で、昔ながらの文章の暗記や、算数のドリルなどを機械的なベンキョウだから無意味としているが、実は違う。古の論語の暗記や読み書きソロバンの寺子屋式教育が最も必要なのだ。それは忍耐や自制心、さらには統合力や創造力を養うのだ。
そしてこれらの能力の欠如した人たちがキリスト教界に流れ込んで来ては、自らの鬱屈した破壊的エネルギーを発散している。彼らが求めるものは屈折した甘えの充足。対して人数を集めたい"愛に富んだ"牧師たちもせっせと彼らにお仕えするわけ。かくして共依存の闇が深まっていく。
老夫婦が人に迷惑をかけないように、使わなくなった焼却釜に自ら入り、火を放って白骨化して発見されたとか・・・。しかも自分の生活を克明に日記にしていた。どんな気持ちで書いたのだろうか?
* * *
町田の高校生はきわめてマジメで、大人しく、頭も良かったそうだ。近所の人も「どうしてあの子が・・・」とか言っているようだが、いかに人は外面しか見ていないかの証拠。
彼は幼なじみの被害者がどんどん大人びていく様を見て、ある種の嫉妬を覚え、自分が取り残される不安を感じていたのだろう。自分はいつまでも変わり映えのしないのに、彼女はどんどん女として成長し輝いていく。自分の手の届かない処へ行ってしまう焦りを感じていたのだ。男女の成長のギャップである。
その気持ちを相手にどのように訴えるか、まだ幼い彼は方法を模索し、今回彼女に迫ったのだろう。ところがその彼女から浴びせられた言葉は、自信のない彼を根底から否定するものだった。この年代の女性はストレートであり、自分が認めたくない対象に対してきわめて無神経かつ冷酷なのだ。
一方この年代の男子は内なる性的衝動を持て余しつつ、自分に対しては確信もなく、自信もない。彼にとっておそらくは自分を見失うほどの言葉を彼女から浴びせられて、我を忘れて50箇所以上、しかも頭部に集中して凶器を振り下ろした。
ただ理解できないのは、この凶行の後、冷静になっても淡々としている点である。自分がしてしまったことに対する客観的な評価がなされていない。あたかもベールがかぶさっているかのような印象を受ける。世界との接触のし方がどうもヴァーチャル化しているような印象を受ける。
* * *
紀宮さまが天皇とアマテラスに対して結婚の報告とお礼をしたそうだ。アマテラスに対して!?選挙事務所には神棚が祭られるのを見たり、こういった場面を見ると、なるほど私たちクリスチャンは、日本に生きている異分子なんだなと感じる次第。しかし迫害というものは、この世から来る前に、まずキリスト教界から来るようだ。