* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
どうも月曜日はアクセスが集中し、回線とサーヴァーがパンクしてしまうようです。午前10時過ぎから午後4時半ごろまでダウンしておりました。そろそろADSLでは限界のようです。何かの工夫をと考えておりますが、ご寛容の程をお願いします。
何だか不思議と言うか、ワケの分からない世界であるなあ〜、と最近とみに感じております。表は不自然にニコニコであるが、妬みと敵意とに満ち、互いのシマを守り、羊泥棒を警戒する先生たち。かと思うと、ヤクザの世界よろしくいきなり因縁を吹っかけられて、対話を試みると、捨て台詞を吐いて去っていってしまう「神学者」。モーセ律法を「守る」人たちがローマ2:14-15に反する振る舞いをする。聖書と言う共通の土台では話ができない。
他方で妄想を持つ人々、「ファイア」で倒れて床を転がる人々、自分の功績を目一杯誇る立派なセンセイたち、自分で物を考えることをせず、飼い慣らされて疑問を呈することもできなくなっている従順な羊のみなさん。人間的勲章を求めてのしていくセンセイたち。ビョウキの人が「まとも」で、まともな人がむしろ排除されるギョウカイ。何なのだろう、この世界は・・・と。
この4,5年見たり、聞いたり、否応なく巻き込まれたりする間に感じたこと。一言、まともではない。いずれにせよ、このギョウカイ特有のシキタリがあるようで、普通のセンスはどうも通じないようだ。ヤクザの世界に巻き込まれて、そのシキタリに目をパチクリしているような自分の位置づけを感じている次第。そのシキタリに従わないと異端とかカルトにされるようだ。
繰り返しなるが、このギョウカイにドップリは相当に危険なこと。単純さと喜びと健やかさを失い、いのちを消耗していくことはマチガイナイ。かくしてビョウキの人が再生産されていく・・・。このギョウカイの将来はいったい・・・嗚呼
午前中はいつもどおりプールとサウナ。サウナで知り合ったトラック運転手の話によると、自由競争のためにダンピングをしてまで仕事を確保するために、忙しくても収入にならないとのこと。この象徴が姉歯建築士の「ダンピング」。市場原理による自由競争の行き着くところはかくも悲惨。金のために自然の人間性を損なってしまう。姉歯氏もすでに心を病んでいますね。
同じように見せかけの「リバイバル」を追求して福音をダンピングするセンセイたちも病んでいます。「霊的」スーパースターを呼んで、派手なイベントを打って、金と人を集めて、大きな礼拝堂を建てて・・・そのあげくは一体どこに向かうつもりか?
一方でそのような風潮のリバウンドとして、再建主義のようなやや狂気の入った思想が徐々に侵入している。救世軍の山谷氏はついに「まったく馬鹿げている!」と宣言されるに至ったようだ。ここをご覧の方々はすでに再建主義の本質が見えていると思います。ただ私に対して心に一物持ちながら、病んでいる富井氏を煽るために覗いている方もいるようですが・・・。
まあ、人生イロイロ、会社もイロイロ、「クリスチャン」もイロイロと・・・(あえて括弧をつけておきます)。
* * *
午後はカミさんと食事をして映画。食事は中華。ここの料理はカナリいける。ホットの紹興酒にザラメを入れるとこれがまた寒い日には格別。映画は「Mr.&Mrs.スミス」。ブラッド・ピットとアンジェーリナ・ジョリーの軽快な、ややコミカルなアクション物。ちょっとオトナの香りを醸して、軽妙なタッチで楽しめた。
ブラピは「アキレス」でマッチョになって以来、なかなかアクション物がフィット。アンジェーリナはその厚い唇がなかなかセクシーなのだ。ニッポンキリスト教の倒錯的世界に触れた後は、やはりバランスを取るために映画と温泉がピッタリ^^このキリスト教界という閉鎖的ギョウカイにドップリはかなり危険ですね。そう思いませんか、みなさん?当たり前を当たり前に、普通のオジサンとオバサンでいましょう、ネ。
「自分の中に悪魔が入ってきて、女の子を殺してしまった。自分ではなく、悪魔が殺したんだ」と。悪魔は確かに実在しますが、人の責任がある。聖霊派では何でもかんでも「悪霊じゃあ」とやっているようですが、霊的な影響力に自らさらすからなのです。こちらの側につけこまれる何かがあるわけ。
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
どうもこのピサロと言う人物は乖離性人格障害あたりだろうと推測される。要する一種の多重人格傾向。人格障害者による犯罪は確かに増加している。この事件の後また少女が刺されたようだが、実にイヤな事件だ。私にも二人の娘がいるが、まだ私たちの子育ての時代はのどかだった。まあ、宮崎勤事件がこの種の犯罪の先駆け的事件だったが。
今後、世においてばかりでなく、キリスト教界の中でも人格障害や精神障害を持つ、しかも病識の欠如した人々によるわけの分からない事件が起きてくると予想しています。いや、もうすでにけっこう起きているのです。「リバイバル」ではなく、「サバイバル」です。
ふう〜、今日もまた終わり。いよいよカウントダウンです。今年の仕事納めは21日。で、22,23日と福島のS兄弟の山小屋に行く予定。その後26,27,28日と伊豆の温泉。そして歳越しと・・・。
しかし、早い。本当に早い。来年は50ですよ!?私は50なんてのは老人だと思っていましたが。いざ自分が迎えることになるとは!
でもね、本人はいまだに学生気分。何せ、いつも接している連中がみな20歳前後ですから、自然と彼らと同一視しているようです。告白しますと、50歳とかの人と接する時には何だか年長者と接するような気分で、気を遣うのです。言葉もつい敬語になってしまいます。以前、子供たちの参観日などに出かけると、何だかやたらとオジサン・オバサンばかりで、圧迫感を覚えたものです。
まあ、確かにGパンとヨットパーカーでさせてもらえる仕事はそうはありません。と言うわけで、私はどこにいても同じなのです。この「素」と言うか、「地」でいられることはけっこう幸いなんですね。「当たり前さ」の祝福です。こんな感じで「その日」まで生きていくんだろうなあ〜。
というわけで、どうもあまり生活感がないらしいのですが、これでも32歳で5,400万の借金をして、自己破産に直面したこともあるのです。ちょうど今の偽造マンションの住民の方々のように、多額のローンだけを背負わされてね。この裁判は8年かかりましたが、主の約束がありましたので、けっこう楽しかったですね。東京駅前でプラカードをぶら下げて、デモもやりましたね。
ちょっとお話しますと、裁判官はけっこう移動があるのですが、途中で変わった裁判官が元司法修習所の所長で、これが偉ぶっているわけ。原告である私たち庶民に対して目一杯威張りくさって、被告の大企業にはペコペコ。で、私はすぐさま彼をプロファイリングして、その弱点が見えましたので、彼に丁重にお手紙を書いたわけ。
で、これがズバリ!次回の期日からわれわれ原告の顔色をチラチラするようになって、最後まで私たちのペースでしたね。偉ぶった人ほど、実は内面の弱さを隠しているのです。そこを突けばコロリです。300億の残債をチャラにして、7億5千万の和解金を取りました。
みなさん、裁判というものは、実は、法廷の外で決まります。そして弁護士を使うなら共産党系の弁護士を。損得勘定抜きで彼らの正義感と情熱はすごいです。彼らには本当に敬意を払いますね。クリスチャンが共産党員に助けてもらったのです。
(なお、念のため、私が書いたのは脅迫状ではありませんよ!)
今、お昼休みですが、拝見したところ、富井氏がまた興味深い本の翻訳を紹介されています。「クリスチャンはトーラーを誤解している」という論文ですね。歴史的な考察がなされていて、これはこれでなかなか面白く、参考になりました。
ただね、不思議なのは、「Dr.Luke氏は1m原器である神の言葉を受け入れていない。それはすなわち自分を神より偉大とすることだ。彼はクリスチャンではなく、ヒューマニストだ」と言われるのですけど(ヤレヤレ、どうしてこう空転するのでしょう?)、私的にはどうしてこういった人の書いた論文あるいは神学に基づいて論じる必要があるのでしょうね。御言葉に書いてあるでしょうに、特にローマ書とガラテヤ書に。御言葉に留まっていないのは彼なんですね。
私が批判しているのは1m原器(御言葉)ではなく、1m原器を歪んだ物差しで計っている富井氏を通して見えてくる再建主義なんですね。それはとても御言葉から乖離している。多分他の再建主義の方々も相当に迷惑していると推察しているのですが・・・。自分を神としているのは、むしろ<自分の唱える再建主義=神の言葉>とする富井氏なのです。
私の専門からすると非常に興味をそそられる現象です。でも彼に対しては何と言うか、あまり敵愾心を覚えないのですね。逆になんと言うか、ある種のシンパシを覚えるのです。彼は真剣に私をコキおろしているわけで、あまり悪意が感じられず、むしろ「傷ついた純粋さ」、「痛々しい青さ」(ある方の印象)による悲壮さが感じられるからです。しかし、まあ、永遠のすれ違いでしょう・・・か。
(上の論文は、なぜか、その後削除されました)
本日で駿台は終了。これで木曜日が空きます。受験生はこれから、私も大学の方は入試で忙しくなるわけ。一方で受験生を大学に入れる仕事を、他方で学生を取る仕事をしていますから、何だか不思議な立場ですね。で、医系予備校あたりでは、裏ルートなどもできてしまうことがあるとかないとか・・・。
審査をされる側とする側が共に同じ利害関係のベクトルを持つと、今般の建築設計書偽造事件になるわけです。この辺が民営化の難点でして、やはり国家でなくてはできない分野があるのです。
ところが再建主義では、(モーセ律法を採用しない)国家はすべからくヒューマニズムの権現ですから(よって、神に敵対する)、例えば、教育なども子供たちを国家に委ねるな、という発想になるのですね。自前でモーセ律法を叩き込むことが彼らの教育の目的です。これがホームスクールやチャーチスクールのルーツです。
しかし民営化で市場原理に基づいて自由競争する領域とそれをけん制する機関が必要なんですね。で、クリスチャンは国家のために祈ると・・・。そもそもこのような国家不要論的思想は果たして聖書的でしょうか?初期の兄弟姉妹はローマ帝国に服していましたよね?また、そうせよ、とパウロは命じています。当時のローマはモーセ律法を採用していましたか?私たちの信仰と良心を犯さない限り、私たちは国家に服するのです。
このように再建主義は「律法をすべての領域に適用せよ」と言いながら、もっとも本質な御言葉を自分が無視していることに気がついていない。「御霊に従えば律法の要求は満たされる」と書いてあるのに!?彼らは自己矛盾です。だから議論がもつれるわけ。しかもそれに気がついていない。病識の欠如は重症です。
すべての権威のルーツは神です。霊的にも、家庭的にも、社会的にも、適切な権威に服することは、私たちの健やかさにとってきわめて重要なファクターです。服していれば、自動的に油が垂れてくるのですから。
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
再建主義に関してはすでに十分なほどに判断材料が揃ったと思います。それぞれで判断がなされることと期待いたします。
で、ひとつ確認しておきたいのは、Dr.Lukeもヒューマニズムを批判しているが、富井氏はDr.Lukeをヒューマニズムと批判している、どうなっているのだ、とのご質問を受けました。
これは実に面白い論点でして、「ハシ」と言っても、「端」なのか、「橋」なのか、「箸」なのか・・・と言うことなんです。
再建主義では超民族化・普遍化されたモーセ律法を適用される領域が神の御国であって、教会からこの世へとその適用範囲を広げることが御国の拡大なわけです。現在は法的に千年期であり、新天新地であるから、これが実際的にも全地に成就されるときに、主イエスが再臨されるわけです(ポスト・ミレ)。
つまり彼らからすれば、モーセ律法が適用される領域とされない領域しかなく、適用されていない領域がヒューマニズムに冒されている領域になるわけです。そこでは「生まれつきの価値観」に従うわけで、すると獣姦も犯すと言うわけ・・・(言うべき言葉が見つかりません)。お分かりになります?彼らの踏み絵は、「あなたはモーセ律法を受け入れますか、拒否しますか」なんです。
しかし私の言っているヒューマニズムとは、私の十字架の適用を排した「愛」とか、「赦し」とか、さらには「福音」なのです(主の十字架はすでに成就)。十字架とは、すなわち、死と復活の原則です。「最初のものは肉のもの、後から来るものが霊のもの」(1コリント15:45)。この自己の経験的死を経ていないものがヒューマニズムです。
私の言うメルキゼデク系の律法とはいのちの御霊の法則であり、これに従えば自動的にモーセ律法の基準はまっとうされます(ローマ8:4)。これが再建主義者には分からないのですね。何度もWindowsとMS-DOSの関係で説明したのですが。先入観とは恐るべきものです。この法則は十字架、つまり死と復活の原則に従って働くのです。
ポイントはアダム系いのちから、キリスト系いのちへの乗り換えです。私のいう御国の拡大とは、自己ではなく、キリストのいのちの領域の拡大です。だから昨今の砂糖まぶしの「ありのままのあなたでよい」と言った「福音」に対して、私は警鐘を鳴らしているわけです。ご理解いただけましたでしょうか?
本日英国から連絡が入り、この木曜日(つまり明日)発送する予定とのことでした。それぞれ100セットづつ入荷します。注文は今晩遅くにできるようにセットアップ致します。
生まれながらの人、あるいは律法を持たない異邦人については、次のロマ書にある御言葉を見れば明らかですね:
2:14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。
これが私の言う「生まれつきの価値観」です。霊の残りが人にはあるわけですね。しかしパウロが言うとおり、善(神の基準)を行なう意志はあっても力がない。この力はいのちにより、いのちはいのちの御霊の法則に従って働き、この時、私たちの内に立法の要求が満たされるのです。これが神学の理論ではなく、御言葉そのものの啓示です。
不思議ですね、キリスト教徒って。一般にユダヤ教は「旧約聖書+タルムード」、イスラム教は「旧約聖書+コーラン」、で、キリスト教は「旧約聖書+新約聖書」かと思っていたら、そうではないらしい。時に「+α」があるようだ。そのαがカルバンだったり、アルミニウスだったり、ヘンリー・シーセンだったり、チルトンだったり、ゲイリー・ノースだったり、もっと程度が落ちるとベニー・ヒンだったりするわけ。このαが曲者でして、互いに異端のラベル貼りをする根拠になってしまうわけ。
私的にはなぜ御言葉だけで話し合いができないのか、本当に不思議なんですが。この点、カルバリー・チャペル(日本の「大和」とは関係ないですよ)のチャック・スミスは一番自然と受け入れることができるのですね。彼は御言葉を語るだけですから。何でも彼もウォッチマン・ニーで霊的覚醒をしたらしく、教会運営のあり方もニー的なんですね。テイストが似ているのです。御言葉という共通語に戻って欲しいのです。
ちなみに神学を見ていると、どうも方法論もモラルも相当に程度が低い。帰納法を使っているのか、演繹法なのか、それすらもサッパリ分からない、その個人の妄想なのか、価値観なのか、「学」としても根本的な欠陥を抱えているようです。だから論争のあり方も幼稚で不毛。自らを省みることができないヒトはとにかくコワイ。と思いません、皆さん?
再建主義の富井さん、生まれながらの価値観に従うと獣姦もする、と言い出しましたね!?彼の言う「生まれながらの価値観」って自然法のことでしょう?自然と律法とは別に対立しないと思うのですが。
私は聖書の旧約律法は本来の人間性(神の姿に造られた純粋な存在のなごり)にすばらしく適合すると感じるのですけどね。マラキ2:15にこうあります:
神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。
どうも彼の人間観についての内面性が垣間見えるようです。最近もサタンの攻撃を受けて、何か事件があったようですが、本当に大丈夫でしょうかね。むしろ私の専門的見地から見て心配になります。(ある「診断」はできているのですが・・・)
すでに話が山谷さんともかみ合ってませんし、他の再建主義者にすら相手にされずに、孤高を囲う自閉世界に突入してしまっているようです。
かような思想にはまった人がどのような実を結び、いかなる人生を送るのかぜひ知りたいので、私的には今後長期観察したいと感じます。
が決定しました。英国に注文を出しましたので、1,2週間で入荷すると思います。書店には出さず、ネットで販売に限ります(書店に出すとかなりサヤを抜かれるのですね)。
新しいCDが2枚。1枚はFaith05(キャンプのライヴ)。今BGMで流しています。もう1枚はMoveと言うヤング向けのミニストリのアルバムで、Encounter(出会い)。
数を限りますので、数日中に先行予約を受け付けます。(ORDERページを見ていて下さい)
何だかけっこうアチコチで物議をかもしているんですね、私のMSG。牧師先生に知られるとヤバイとか、地下でかなり回っているようで、大手の教会の兄弟姉妹の間でも密かに回っているとか。「うちの先生はこう言っているけど、ルークさんはそう言っていないから・・・」とか。サーヴァーのログを見ても日曜日の夜から月曜日はアクセスが殺到しています。で、回線がふさがってしまって、御不便をおかけしているのですが。
ここでぜひお願いしたいのは、「ルークさんがこう言った」ではなく、御自分で聖書を開いて確認して頂きたいのですね。
ここ(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
今朝石原慎太郎氏が、新著を紹介しつつ、「子育ての秘訣はエゴの発達した自律した人間にすること、そのためには殴ることも必要。しかし私は理解されない人間だが、自由でいたいのだ」と言っておりましたが、私的には結構賛同なんですね。まあ、ニッポンキリスト教ではまずアブナイ思想となるんでしょうけど。しかし彼の得た実(4人の息子たち)とニッポンキリスト教の牧師の実(ビョウキの息子たち)を比べて御覧なさい。どちらが真理かは一目瞭然でしょう。箴言をご自分で読んで見てください。子育てについて何と書いてあります?
こんな次第で、ニッポンキリスト教はすでに御言葉から離れ、むしろ世の価値観、それも相当に病的な価値観に染まり、倒錯した世界になっているわけです。表向きは「世から聖別されよ」とヒステリックに叫びながら、実は世に働いている霊の幼稚な教えにドップリです。一方でいのちを無視した再建主義のような思想が入っているのです。
ぜひ、『カッコーの巣の上で』というジャック・ニコルソン主演の映画をご覧下さい。精神病院を舞台としているのですが、患者たちが正常で、ドクターやナースが異常と見える倒錯した世界を描いています。もし周りがみな分裂病や妄想性人格障害者だったら、こちらが異常となるわけ。で、これがすでにニッポンキリスト教界では起きているんですね!エクソダスして、関わらないことが無難です(くれぐれもビョウキの人とはガチンコしないこと)。
同様に、議論でも相手をねじ伏せる必要はありません。そんな「勝利」はナンセンス。相手の病理性を議論の過程で暴き出せば良いのです。まともな人ならば、その人の主張の是非ではなく、その人の人格の現われを判断するはずだからです。このあたりはトム・クルーズ主演の『ア・ヒュー・グッドメン』をお勧めします。ジーン・ハックマンが偏執質者のイイ味を出しています。
まあ、時が中世ではなくてよかったです。私などは一発で異端裁判で処刑されるでしょうからね^^今のところ映画も温泉も楽しめますしね。今6階の窓の外に見えるイチョウの木々もま黄色に色づき、そろそろ葉も落ちて、木々が裸になりつつあります。このサイトもまた冬ヴァージョンにしなくてはと思いつつ、移りゆく季節を味わい、生きることを愛でたいと感じている今日この頃です。もちろんインマヌエルなる主と共に。
Blessings!