* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
カルバン主義とアルミニアン主義はプロテスタントでの大きな分裂要因であるそうだが、実はその違いは紙一重であるらしい。私自身はどちらに属すかは分からないのだが、Dr.Lukeと富井氏の差も実は紙一重。両主義についてはこちらがよくまとまっている。
・カルヴァン主義、アルミニウス主義、神のみことば
こういった議論をするのが神学だというわけだが、御言葉をこのようにニンゲンの頭に入る形で定式化した時点ですでに御言葉から離れてしまっている。ヴィトゲンシュタインは「言語は世界の映像である」と言ったが、「論」はまさに実体ではなく、映像なのだ。ところがいったん神学の定式化ができてしまうと、今度はその映像のレベルでの齟齬をめぐって議論が生じる。その際、御言葉(と主ご自身)はどこかに置き忘れられている。郡盲像をなでるが如し。対してチャック・スミスは御言葉をそのままに述べているだけ。私的には一番フィットすることは前にも述べた。
同じように、私たちの神への信仰と唯物論的共産主義は致命的に異なり、その間には絶望的なギャップがあるかのように見えるが、実はその違いは紙一重なのかもしれない。共産主義も「すべては唯一物論的に展開する」という一種の信仰だからだ。進化論も同じ。誰も見たことのない進化を、彼らは見ないで確信している。それはまさに信仰。世界を説明する映像の違いに過ぎない。
かくして私たちとの違いはその信仰の対象。だからこちらサイドからどれほどに合理的な説明をして進化論の矛盾を突いても、彼らにとっては無意味。彼ら自身が進化論には不十分な点があることは十分承知だから。日々彼らは進化のメカニズムの解明を試みているわけ。それぞれの神学の派の人たちも同じ。その枠の中で日々精進に励んでいる。
つまり進化論を選び取った時点で彼らのコースは決まっている。これは私たちの側も同じ。神を選び取った時点で私たちのコースは決まっている。神学の派も同じ。それぞれのコースに入れ込めば入れ込むほど軌道修正は困難となる。そしてそれぞれの実を結ぶに至る。しかし選び取るその瞬間にどちらを選ぶかは紙一重なのだ。ここに働くファクターは一体何なのだろう?なぜ私は神を選んだのだろうか?
ここまで来ると、私の頭はキャパを超える。一般恩寵によるのか、特殊恩寵によるのか、どうもそういった人間の言葉による"説明"はピンと来ない。ただ願うのは、時々において私が何を選ぶか、神の目から見て誤ることがないことを祈るだけ。ある人が言った:信仰とは選択である、と。
このところ再建主義の富井氏のBBSとかつて彼と激論を交わされた山谷氏のBBSを行ったり来たりしていたが、かなり面白い、そして重要な論点を拾えたと思う。
再建主義の自己矛盾的分裂病的性質はすでに明らかであるが、彼らが触れている論点はとても大切なもの。そしてニッポンキリスト教がほとんど抜けている部分である。
実は私自身も再建主義のこれほどに深刻な病理は知らなかった。人をどう理解するか、神は人に対して何をしてくださったか、また下さるのか−ここがすべての出発点。これが狂うと、聖書を用いながら、人を忘れた「神学」はある種の狂気へと走るのだ。
すでにゲイリー・ノースは「外れ預言」の前科者であるわけだが、果たして他の再建主義者たちはどのような実を刈り取り、どのような人生を送るのだろうか。これが今の私の最大の興味の中心である。
山谷氏のBBSで刑法を論じるには人間理解が不可欠とのべておられます。これはとても大切なポイントです。現代科学では、霊の次元はまったく考慮されていません。つまり魂(=精神)と体の関わりまでです(精神身体医学)。
ですから今のサイエンスは霊的要素については形而上学の問題となり、その研究対象としません。ただし97年にWHOが「霊的健康」と言う概念を提示しましたから、今後は分かりません。霊まで考慮した医学が、私の提唱する「霊精神身体医学」です。
クリスチャンは霊的領域と接触を始めた存在ですから、世のサイエンティストの語る形而上学は、形而上学ではなく、十分に実体験できる領域なのです。
そして大切なのは、神は物理の次元でも法則によって、魂の次元でも法則によって(ノンクリスチャンはここまで)、そして霊の次元でも法則によって人と関わりを持たれ、人を治めます。クリスチャンにとってはこれがいのちの御霊の法則であり、モーセ律法にはなかったものです。だからモーセ律法は欠けがあり(ヘブル書)、新たにメルキゼデク系律法−いのちの御霊の法則−が導入される必要があったのです。これは十字架によります。
つまり旧約と新約では致命的な霊的相転移が起きているのです。今私たちクリスチャンを支配するのは、モーセ律法ではなく、いのちの御霊の法則であり、それは自由の律法、いのちを与えて生かす法則、キリストを私たちの内に実体化する法則なのです。あなたはどのような法則に委ねて生きていますか?
御霊に従うならばあなた方は律法の下にはいない。
「ヒューマニズムについて」でも少し触れましたが、再建主義の人間性否定は予想以上のものがありますね。富井氏は、ヒューマニズム(=モーセ律法を適用しないこと)に犯されて再建主義に反対するクリスチャンは・・・悪魔の支配下にいる、と主張しています。
やれやれ、スゴイことです。まあ、この手の人に対してはあまりエネルギーを削がれたくはないのですが、論点としてはとても大切なのです。聖書は人間性についてどのように語り、主は私たちをどのように見て下さっているのでしょう:
(1)神は人になられた。イエスは人であるままで天に上られた。ステパノは人の子を見た。そしてそのままの姿で戻って来られる。つまりイエスはいぜんとして人である。
(2)イエスは人としてサタンに勝利し、世に勝利された。アダムが失った傷のない、純粋な人間性は、人の子イエスの死と復活にあって、回復され、さらに栄光化された。その人なるイエスの内に生きた御霊は、私たちの内にイエスを証し、復活のキリストのいのちを実体化される。
(3)古いアダムにある私は肉と共に終わった。霊が再生された私たちは、キリストが回復し栄光化して下さった人間性をも得ている。それはイエスの霊と魂の中で進展してたいのちの再現、あるいは追体験である。
(4)御霊によって私たちのうちにキリストの形が造られるとは、この御霊が届けてくださるイエスの人間性が私たちの霊から魂へと再現することである(メタモルフォーシス)。
(5)小羊はいずれ私たちを花嫁として迎える。それはイエスが分けて下さったいのちを共有する存在であり、新エルサレムでは、神と人が共に住まう。
(6)主は現在もまだ贖われていない私たちの体が弱いことを知っていてくださる。この弱い人間性をイエスは経験され、大祭司として私たちの弱さを思いやり、私たちがチリにすぎないことを心に留めてくださる。
(7)私たちの責任は、アダムにある私の有様を守ることではなく(これが「ありのまま」的ヒューマニズム)、死と復活を経て、キリストのいのちを内に生かすこと。
(8)かくして人間性は神にとってきわめて尊いものである。そもそも敬虔の奥義とは、神が肉において現れることであり、キリストはそれを100%成就された。私たちもその幾分かに与るものである。神は人の中に住まい、人を通して栄光化される方である。
(9)人間性は神にとってとても大切な要素であり、人間性を慈しんでくださる方である。ただし、十字架の適用が必要。なぜなら御霊は十字架によって働くから。それは私にとっては痛みを覚えることもあるが、しかしその時こそ神は甘い。その十字架を経るならば、古いものを脱ぎ捨て、栄光のイエスの人間性を味わうことができる。再度繰り返します:
内なるキリスト−栄光の望み!
また山谷氏のBBSに興味深い記事がありますね。再建主義のゲイリー・ノースは、再建主義社会が実現する条件は、一度現在の世がカタストロフ(破局)を経る必要があると言っているようです。これに対して財前二郎氏が質問しています:
再建主義はポスト・ミレ、つまり現在はすでに千年期・新天新地であり、これからの世界はあまねくモーセ律法を適用する神の統治による社会となり、この地上に神の国が成就して後、イエスが再臨されると信じます。
一方ディスペンセイションではプレ・ミレ、つまりこれからの世界はますます悪くなり、滅びがおとずれ、その悲惨の極みに主イエスが再臨され、サタンを千年間穴に閉じ込めて地上に王国を設立すると信じます。
再建主義はこの見方を悲観主義であると非難します。が、何とそのメインの論客自身が自分達の主義社会の確立のためには、一度今の世が滅びる必要があると語っているとは!?驚きです。
では、果たして聖書の預言はどちらなのでしょうか。素直に読めばプレ・ミレと読めるのですね、私的には。私の個人的立場はプレ・ミレですが、あえてこれをケンケンガクガクと主張するつもりはありません。その預言を成就されるのは神だからです。
私があえて主張するのは、今この時、いのちを阻害すること、いのちを抑圧する教えに対しては、かなり反応します。私たちは将来に生きる者ではなく、また過去に生きる者でもなく、今に生きる者だからです。この時にいのちを育て、生きることが私たちに課せられている責任だからです。再建主義はあきらかにこのいのちを阻害します。
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
その声は威厳があり、しかし静かで安らかさを覚え、慕わしく、麗しい。これからの教界は騒がしい、派手な、人目を惹く声が多く聞かれるようになるだろう。その喧騒と混乱の中で、静まって、この方の声を聞き分けられる人は幸いである。
委ねられているのでしょうか?メンツとプライドで凝り固まった野心家のボクシでも、一見知性的であるが実は知性と情緒が乖離した病的なシンガクシャでもありません。
普通の感性を大事に、普通の生活を淡々と生きている普通のオジサン・オバサンに委ねられているのです。福音とは生きることを共有すること、泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑うことから始まります。聖とは人になること。最も人であった方はイエス。
それはいのちの種である御言葉を、時期が良くても悪くても、倦むことなく、淡々とまき続けること。それを発芽させるのはいのちのパワー、それを育てるのは神ご自身。単純に信じましょう。
ただし、ボクシの眼鏡にかなった従順なニッポンキリスト教徒を作るのではありません。ややこしい狂気の入った神学を刷り込むのでもありません。それはビョウキを生むだけ。健やかさにあってイエスに従う者を生み出すのです。サタンはそのような健やかさとイエスに従う者を嫉妬する。
まず私たち自身が原点に戻るのです。主と出会った日の解放感と甘い愛で涙した時に・・・。その感動が人の心を動かします。原点とは、x軸とy軸の交点、つまり十字架です。
ちょっといくつかのトピックについて問題提起しましたが、あまりニッポンキリスト教の神学者や牧師たちに回答を期待しているわけではありません。というか、ほとんどしていませんね。おそらく時間の無駄になるだけですから。ただ心ある皆さんにはちょっと考えてみていただければと思ってはいます・・・。
山谷氏の掲示板で外科医さまの提起された刑法に関して、決定論か、非決定論かの議論が展開されており、なかなか面白い。
で、われわれ自然科学者からすると、実は、偶然と必然は区別ができないのだ。
例えば、コインを投げたとしよう:
(※) 裏、表、表、裏、表、裏、裏、裏・・・
と続く時、皆さんはこれを見て、これは必然によって生み出されたか、偶然によるのか、お分かりになります?実は数学的には区別ができないのです!
今ここに非線形変換を
(※※) a(n+1)=λa(n)(1-a(n))
と定義します。これはa(1)を与えれば、この規則(決定論)によって、a(2),a(3),a(4),...が一意に決まってしまいます。
一方で(※)の系列は実はコイン投げの結果です。さてここで(※※)のλをうまく取り、a(n)が0.5以上ならば裏、未満ならば表に対応させると、あーら不思議。(※)の系列を決定論的な上式(※※)によって作り出すことができるのです!
つまり偶然を必然から作り出すことができるのです!
このような理論を「カオスの理論」と呼び、現代のひとつの大きなサイエンスの分野を構成しています。
私たちサイエンティストから見ると、神学は単なる言葉遊びにしか見えないが、果たして神学はこういった分野を取り扱うことができるのでしょうか?ニュートン以前と言ったらむくれてしまわれたようであるが、富井氏もぜひ謙虚さを身につけて、もう少し学んでほしいところです。
私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。あなたがたのばあいは、キリストから受けた塗り油(原語)があなたがたのうちにとどまっています。
それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、―その教えは真理であって偽りではありません。―また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。
そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。
もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。
今となっては無理ですが、再建主義を代表する富井氏はこの御言葉をどのようにとらえるのだろうか?これも彼の言うTheonomyの一部なんですが。このような御言葉は彼の書き物にはまず触れられていません。
1)信者にはキリストの塗り油がある。
2)この油はすべての真理を教えるから、誰からも教えを受ける必要はない。
3)この油の教えるとおりにキリストにとどまる。
4)善を行なう者は神から生まれた者である。
どこにモーセ律法が出てくるでしょうか。生まれの問題、すなわちいのちの問題でしょう?
今日、確かに、惑わす者が多く現れていることは間違いありません。
山谷氏のBBSにすごい投稿がありますね。日本を「目には目を、歯に歯を」の同害復讐法を採用する警察国家にせよ、検察よ、ガンバレと・・・。この方はここでも「ヒューマニズム」のところでレスを下さった方ですが、再建主義の方だったのかな?
再建主義では、人間は全的堕落で、意志すらも堕落していますから、すべては神によらないとダメなわけです。要するに自律性が一切排除されます。これはハードコア・セッションでも富井氏が、「聖書はすべて神の命令であって、一字一句服従するのだ」と言っておられるとおりです。かくしてこれを社会に適用すればモーセ律法を一字一句遵守することになるわけ。よって「目には目を、歯には歯を」です。要するに人は枠にはめないと獣姦を犯す存在なのですね、彼らにとっては。自律性はヒューマニズムなのです。
下にも書きましたが、いのちの御霊の法則によって働くいのちは内的な性質として神の義を好み、神の聖に従うことを欲求するいのちなのです。人のいのちは四足で歩くことを好まず、二足歩行を好みます。同様にキリストのいのちに従えば、自律的かつ内的に神の基準を生きるのです。なぜなら御霊は神の義をlustするからです。このlustという単語は普通は「情欲」と訳されていますが、ガラテヤ5:17にある「霊の願うところ」(新共同訳)の「願う」の原語もlustです。ですから、御霊に導かれているならば律法の下にはいないのです(18節)。
まあ、彼らはこの律法をパリサイ学者の律法主義の律法だとしているわけですから、これ以上議論になりませんが。素朴な疑問として、憲法にも制定のままの純粋な憲法と、憲法学者の憲法があるのかなと・・・(笑)
いやあ、これほどに深刻な福音理解の齟齬があるとは思いませんでしたね。しかしこれをとおしてますます聖書の真理が明確になったことは事実です。聖書にはこうあります(向こうさんも使うかもしれませんが):
あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
補遺:刑罰の程度はモーセ律法とは別に考えたらいいと思いますけどね。
再建主義では「普通性」を極端に嫌い、その究極に獣姦があるという。これ自体ですでに彼らの病理性が分かるが、では聖書は何と言っているでしょうか。
1)人は神の形に造られた。しかし第一の人アダムはその実質である神のいのちの内住を得損なった。
2)神から断絶されて、いのちの木への道も封鎖された。かくして人は魂と体の生き方、つまり肉となった。
3)ローマ2:14-15にあるように、たとえ律法を持たない人あるいは生まれながらの人であっても、良心が善と悪をわきませさせる。これが私の言う「生まれながらの価値観」であり、自然法の根拠です。(再建主義はこれを一切認めない。)
4)人は善を行ないたいという意志はあるが、力がない。人は思いの中にある神の律法を行ないたいと言う法則と、体の中にある罪と死の法則のはざまで、神の律法を行なうことができない。つまりアダムのいのちには力がない。
5)キリストは最後のアダムとして旧創造を終わらせ、第二の人として復活の初穂となり、同時にいのちを与える霊として、御霊によって私たちに内住され、わたしたちのいのちとなられた。そのいのちはいのちの御霊の法則に従って働き、私たちを罪と死の法則から解放した。
6)御霊に従えば、このいのちの御霊の法則が自動的に働き、たとえ知識として律法を知らなくとも、律法の要求は私たちの内で満たされる。
7)ロマ書の語る私たちの生まれながらに持つ普通の感覚はいのちの実質を得るときに、実際に行なうことが可能とされる。つまり私たちはますます普通な人になるわけ。
8)カルトや異端はこの普通さをその教義や聖書解釈によって壊していく。もちろん私たちは自己中心で生きてきたから、例えば「得るためには捧げよ」と言う御言葉には当初は肉の抵抗を覚える。しかし自己をおろして従う(=自分の十字架を取る)ならば、むしろそれが解放であり、自由であり、喜びであることを味わう。
9)この自己を処理することは私たちの意志により、そのとき御霊は内なる業をして下さる。つまり「得るためには得よ」と言う価値観は、実は生まれながらのものではなく、世にある間に刷り込まれたもの、つまり普通ではなかったわけ。これを経験させてくださるのがキリストのいのちである。
10)かくして神の形である人の中に神のいのちの実体が満ちる時、そのいのちに従った行動やあり方を実現する。このいのちの性質に従った統治が行なわれ、御国は成長拡大する。これはモーセ律法よりはるかに上位互換のいのちの御霊の法則によるわけ。
注:ここで富井さんが言う「超民族化・普遍化されたモーセ律法」とは「いのちの御霊の法則」ではないかと問いましたら、明確に「違う!」とのことでした。これは致命的ですね。
11)かくして十字架と共に働く御霊の造り変えが私たちの内で進めば進むほど、私たちは普通になっていくのです。しかしそこにキリストの香りと何かが表現され、世の人とは異なるのです。普通ですが、何かが違うのです!
12)キリストの形が形づくられる(メタモルフォーシス)ならば、キリストは私たちを迎えに来て下さる。私たちの希望は神学のドグマや油注ぎの器ではなく、土の器の中の宝物、すなわち内にいますキリストである。このキリストを知るならば、失望することはないのです!
今回の議論に巻き込まれて一度確認しておきたいことが明らかになった。
神学の論争のルーツはどこにあるのか。
これは人間のレベルで生じる現象であり、一方で神が何を最も大切にされるか。その対比が明らかにされたと思う。ディスペンセイション主義は再建主義を受け入れることができず、逆もまたしかり。で、それぞれは自分が聖書に堅く立っていると「信じている」。だから一歩も譲れない。(まあ、私も今回の件で再建主義の創始者ラッシュドゥーニの文章などを読み、本質的な問題があると分かった、というより再建主義の究極には論理必然的に狂気的要素があるようだ。)
果たしてこのような状況を神はどのようにご覧になるのだろうか。古の昔から神学上の対立(つまりどちらが真理かと言う争い)でクリスチャン同士が殺戮を繰り返してきたことは歴史上の事実。が、ここで確認しておきたいが、真理は第一義的にキリスト御自身である。「わたしは真理である。」そしてキリストは神学のドグマのセットではなく、いのちである。「わたしはいのちである。」
しかし何とも虚しいことに言葉尻の取り合い、否、それ以前に互いの言葉の定義を確認する間もなく自分の教義の押し付けに堕している。こういったことはわれわれサイエンティストは議論以前のマナーの問題なのだ。相手の言葉の定義を理解してから議論は成立するのだから。例えば「ヒューマニズム」の意味がまったく異なっている!(11月30日参照)
聖書はその方(パースン)を紹介する書であり、履歴書である。エマオの途上で青年二人にイエスは聖書がご自分について証ししていることを説かれた。しかし彼らは目が開かれるまでイエスご自身に気がつかなかった。文字を理解しても、本人を理解し得なかった。これと同じことが神学の論争では起きるのだ。真理なる本人を離れて、文字面の対立。それはまさに自己(Self)の表現。自己だから一歩も譲ることができない。それはきわめて強烈な魂のパワーによる。
一方で聖書はもちろん神の息吹きであり、神の霊が塗りこまれている。それは何のためか。いのちのためである。内に誕生したキリストのいのちの養育のためである。再建主義者富井氏との対話は、彼が「モーセ律法=いのちの御霊の法則」と宣言された時点で、すべてが見えてしまい、後は無意味と分かった。
再建主義にはいのちの次元が完全に欠如している。神の国は第一義的にいのちの領域。そのいのちに応じた統治がある。彼らはこの統治をいのちを抜きにモーセ律法の適用のみで成就しようとする。つまり絵に書いた餅。いかにキレイに、実物にソックリ欠かれていても、それは所詮絵である。まことのいのちを忘れ去った神学はかくも虚しい。
いのちの次元に戻ること。その時いのちに応じた統治が実現する。これが神のご計画のすべてであるが、これが欠如しているのが現在の教界。神学の議論の森の中に迷い込むと一本一本の木は見えても、森全体の位置は見えなくなる。それと同じような迷子状態にある。再建主義に対してはある種の期待もあったのだが、残念ながら最も本質的な部分がすっぽりと抜け落ちていたことが分かった。
一方でヒューマニズムに落ちた人気取りの「働き」が見かけ上栄え、一方でいのちの欠如したやや狂気の入った神学が孤立化し、ますます今後のニッポンキリスト教は混迷を深めるであろう。その混迷の中で内なるキリストを知り、いのちに与ることを経験した人は幸いである。(こういった表現は再建主義者からも普通の先生たちからもほとんど聞かれないのが不思議なのだ・・・)
前に書いたことがさらに重要になるようだ。
・もっとも本質的なこと
NHK「クローズアップ現代」でSpywareの実態をレポートしていた。私も一応気をつけており、そのスキャン・ソフトで確認はしていたのだが、今日別のソフトでスキャンすると、何と5つものSpywareが侵入していました。あわてて銀行の残高と証券会社、およびクレジットカードを調べたところです。
同番組によると3台に1台は侵入されているとか。ホームページやSpamメールを開いただけで感染するものもあるらしい。皆さんも確認された方がいいです。ウイルスのワクチンソフトだけでは危ないですね。ファイアウォールと、ワクチンと、Spyware検知ソフトは必需品ですね。しかし何とも気味が悪いこと。