最近の日記

そうこうしているうちに・・・

主イエスは(Dr.Lukeではない!)、「夜寝て、朝起きて、そうこうしているうちに種は育つ」と言われます。カルバンでもなく、ウエスレーでもなく、バルトでもなく、あのイエスが言われるのです!

日常生活の当たり前を当たり前に、普通のことを普通に行なうこと、これが「そうこうする」ことです。再臨が起きたとか起きないとケンケンガクガクやってる人々に対して、パウロは1テサロニケ4:11で

私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。

とアドヴァイスしています。きわめて現代的なアドヴァイスです。これが「そうこうする」ことの実際です。私は人の本質はその立派なご意見ではなく、日常の些細なことで判断します。

霊的成長って、単純でしょ!

(陰の声:Dr.Lukeは理屈だけで本当の聖化の苦しみを知らないからだと思われた方、長年のクルシチャン生活ご苦労様です。私は主と共に生きることを楽しんでいます^^)

人を変えるもの―メタモルフォーシス

アップロードファイル 78KBオツムのよろしい神学者は言うかもしれません:「人は救われるだけじゃだめ。聖化される必要がある。だから神学の聖化論を学ぶ必要があるのだ」と。さあ、これでまたウエスレー様とかが出てきて、ケンケンガクガクの論争と分裂が起きるわけで・・・!?(とにかく彼らは魂のエネルギーがすごい!)かくしてハードコア・セッションでも赤子さんが問題提起してくださっていますが、クルシチャンを大量生産するのです。

では御言葉は何と言っているでしょうね:

ヘブル12:2−信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

Q.創始者はイエス、では完成者は?

ピリピ1:6−あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

Q.私たちがなすべきことは?

マルコ4:26-29−神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。

Q.種はどのように成長しますか?

妊娠した女性が受精卵の分裂と分化、つまり発生学の知識を持たずとも、胎児は着々と成長するのです。それがいのちの法則だからです。かくして皆さんの中にもキリストが霊的に受胎し、その形ができつつあるのです:

ガラテヤ4:19−あなたがたのうちにキリストが形造られる・・・

これを「メタモルフォーシス(昆虫などが変体すること)」と言います。

それは

2コリント3:18−私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、霊なる主の働きによるのです。

Q.誰の働きによりますか?モーセ律法の適用によるのでしょうか?

そしてパウロは警告しています:

ガラテヤ3:3−あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

Q.あなたはどうですか?これは再建主義者だけの問題でしょうか?

主は私たちにこう言われます:

わたしに信頼し、わたしがあなたに与えたいのちに信頼し、十字架と共に御霊によって働くいのちの御霊の法則に委ねますか?委ねるならば、わたしはあなたを内も外もわたしと同じ姿に変えましょう。」

かくして究極的には

ピリピ3:21−キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

1ヨハネ3:2―愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

あなたは信じますか?

ヘブル4:10―信じた者は自らのわざをやめて安息に入ります。

人を救うもの(2)

次の思考実験をしてみて下さい:

ある無人島にひとりだけあなたがいます。全知全能の神は選びの予定に従って、難破船から聖書をあなたの元に流れ着かせます。あなたはたまたま海岸を歩いていて、それを拾って読みます。これはあなたの側から見れば偶然ですが、実は神の手が働いています。そしてあなたは誰からも強制されず、「イエスさま、私はあなたを私の救い主として信じ、受け入れます」と祈ります。

では質問です:

0)ここに働くのは誰の意志でしょうか?

1)あなたは救いを受けることができますか?

2)その際、あなたはカルバン(決定論)とアルミニウス(偶然論)との論争を知っていますか?

3)神はご自分のわざをなすのに、人の組織した神学を必要としますか?

4)無人島で神学書も読めないあなたは果たしてクリスチャンであり続けることができますか?

5)この島の中に互いに異端のラベルを張り合うだけの神学の「派」ができるでしょうか?

6)この島の中で一致を叫ぶ必要があるでしょうか?

7)では、人を救うのは何でしょうか?

私の回答は次の通りです:

0)神の意志に沿った私の意志
1)YES:救いはイエスを信じることによるから
2)NO:言うまでもない
3)NO:言うまでもない(聖書があれば十分!)
4)YES:クリスチャンとは神の霊から生まれた者だから
5)NO:言うまでもない
6)NO:この島ではひとりだが、信じる者はキリストの体にバプテスマされているから
7)言うまでもない

最も本質的なものから離れないことです。今日騒がしい声が多くなってきています。初めから聞いていた教えに留まること。

羊はわたしの声を聞き分け、わたしに従う。

人を救うもの

真に人を救う存在はひとりのお方Jesusこの方との出会いが救いなのであって、「イエシュア」とは「神は救い」と言う意味。神学なるものが「学」としてもあまり程度の高いものではないと分かったが、そもそも人を救うのは神学ではない。それはいのちの抜け殻。救いとはいのちの主であり、いのちを与える方を知ることである!

あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。

昨今の事件について

Dr.Lukeは:普通さ(健やかさ)が壊れているため。アダムが失った神のいのちによる癒しと回復が必要。なぜなら人は自ずと聖を求めるものだから。

再建主義者は:普通さの行き着くところ。だからモーセ律法を普及させ、例えば中絶した女性などは見せしめとして公開処刑にせよ。そうすれば犯罪はなくなる。

ちなみに今回の犯人の専攻は刑法、しかも「犯罪と刑罰」のゼミでトップの10%に入っていたようですね。オツムはよくても、あまりにも幼いのです。小児性があり、多分被害女児にある種のロリコン的愛情をいだいており、その彼女から自分のアイデンティティを傷つけられたのでしょう。

予備校(特にYゼミあたり)や塾などでは普通ではない、ちょっとアブナサのある人物の方が人気があります。小児性が生徒と共鳴して、受けるのです。元ヤンキーとか、「族」だったとか。大人は人気が出ませんね。

なぜかニッポンキリスト教界も同じ。もとヤクザだとか、ヤクをやっていたとか、フーゾクにいたとか、これがウリになるのです。共通する要素は小児性。牧師と塾講師の価値観も同じ。信徒と生徒の動員数がすべて。立派な箱物を作りたがるとか・・・。実によく似ていますよ。

New CDs

新しいCDが今税関を通過中です。今週中には入荷します。いましらばくお待ち下さい。BGMはFaith05の中のGlorifyです。

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配色を冬ヴァージョンにしました。ちょっと寒げですね^^

また女児が・・・

オカルト的な猟奇的事件の後、すぐまた塾で講師によって女児が刺されて死亡とのこと。二人の娘を持つ父親としては何ともやり切れない。航空機事故などもそうなのだが、この手の事故や事件は続くのです。

確率論的には、こういった稀な事象はポアッソン確率過程に従います。この場合、待ち時間分布は指数分布となり、一度起きると比較的短期間で続くことは確率法則なのですね。ちなみに地震等も同じ。

しかし流行なども言えることですが、ある種の霊的な流れがあると感じています。空中の権を持つ霊たちが時々にこういった事件や事故に関わっている印象を持っています。確率法則の裏に霊的因果関係があるのか、ないのか、残念ながら現在のサイエンスでは実証できませんが、聖書的にはあり得ることでしょう。

サタンは人の、特に健やかさとか健康とか満ち足りることや安息など、そういった人間的要素を嫉妬し、破壊しようとするのです。被害者の方々が神の責任を問い、神を恨み、神の慰めを拒むことがないように祈ります。

悪魔の目的は盗み、殺し、破壊することですが、イエスは癒し、回復し、建て上げる方です。

わたしが来たのは羊がいのちを得、しかも豊かに得るためである。

名作『火の鳥』

余剰価値的一日でした。じつにまったりと・・・。

で、何気に山谷氏のBBSを見たら、まだ富井さんが私に対して訴えておられるとのこと。私が「神学の素人」で「クリスチャンでない」と結論されたのだから、もう十分ではなかろうかと思うのですけどね・・・。私的には大切な論点は網羅してしまいましたので。

何しろ私は神学書などは一冊も読んだことはありませんし、独学したこともない。高校の世界史レベルの知識、否、それすらもないなあ〜。何しろ高校時代は赤点すれすれ。入試では、当時は共通一次はなく、東大は独自の一次試験があって、理系も社会二科目を科せられていた。でもね、英数国理でほとんど100%取れるので、社会は0点でも通るわけ(イイ時代でした)。でも最終合否判定を考えてなるべく点を取っておこうと言うことで、過去問調べたら、四択で「2」の正解数が高い。で、・・・、と言うわけ^^まあその程度です。

かくして、<カルバンvsアルミニウス>なる議論も最近知った次第。で、ちょっとかじってみると、私たちサイエンティストから見ると決定論と偶然論をめぐる議論で、すでに述べたとおり、ill-posedな問題(無意味な論争)であることが分かってしまった。光は波動だ、いや粒子だ、とケンケンガクガクやっているようなもの。かなり脱力。ここでバルトがどうのと言われても、「へえ〜」としか・・・。そもそもこんなことで互いに異端のラベルを張り合っている神学者たちって・・・と。

再建主義者を見ていると、何だか(かつての)自分を見ているような感じがすると先に述べたが、これは本当です。手塚治虫の『火の鳥』に猿田博士と言う孤高の天才科学者がいて、自らの手で生命を創ろうしているわけ。しかし彼の創った生命体はガラスの中でしか生きることができない。彼は必死になって神に祈るのです、「神よ、私に生命の秘密を教えたまえぇっ!」と。

彼は自らの醜貌を恥じて人を遠ざけているが、実は温かい愛に飢えている。人の温もりに渇いている。それで自分を賛美するだけの美しい女性型ロボットを周りにはべらせるのだけど、心の空虚さが埋まらない。かくして、彼は・・・、と言う物語です。

再建主義者がヒューマニズムと断罪し、律法をもって埋めようとしている真空領域は、実はモーセ律法では満たされない。いのちではないから。モーセ律法はその型は持っているが、実質ではない。彼らはその真空領域を懸命に「学」の追求で埋めようとしているが、ガラスの外では生きることができない。彼らが求めるのは自分を認めてくれる人々。富井氏も私にある種の期待を抱いていおられたのかもしれない。残念ながら私はそれに応えることはできない。

再建主義者たちには、猿田博士の渇いた絶望的な追求の人生の道程を思ってしまうのですね。彼らは「イエスは主」と告白する以上、論敵ではなく、主にある兄弟なのです。

もうけたあ〜♪

明日は入試の当番で、またまた面接で受験生のワンパタンの答えを聞かなくてはと、ちょっと気を張っていたのですが、何と無罪放免。小市民Dr.Lukeとしては、こういったささやかなことに無上の喜びを覚える次第^^さあて、どう過ごそうか、と・・・。るんるん♪

カオスとは(再)-決定論と偶然論-

人生はカオスであると書きましたら、「カオスは混乱と言う意味ではないか」とお尋ねをいただきました。あの〜ですね、私たちが使うカオスの定義をまずはご理解いただきたい。

下(12月6日参照)に書いたとおり、「決定論から生じる系列と、さいころを振ってできる系列が区別ができない」と言うことが私たちの言うカオスです。このカオスにはイロイロと面白い性質があるのですが、私たちクリスチャンの人生はまったくカオスなんですね。

ちなみに物質ですら、量子力学によれば、粒子なのか、波動なのか、区別ができないのです。私たちの知性の中に実存のモデルを構築する場合の制限であり、ヨブに対して「お前に創造の神秘が理解できるか」と問いかけた神の人間知性に対する訴えなのです。

例えば、私たちの選び。エペソ書によれば、「天地の基が置かれる前から私たちは選ばれていた」とあります。で、カルバン主義では、運命論的に選ばれてない人は救われないとなり、修正アルミニアン主義では、選ばれていても自由意志で拒否できるとなるわけです。「カルバンvsアルミニウス」―勝敗はどっち?

われわれからしますと、「分からない」のです。つまり私たちの人生の時系列は決定論によるのか、偶然性によるのか、カオスの理論によれば区別できないのです!私たちの自由意志は神の選びを無効にできるか、できないか。あるいは私たちの救いは神の選びによる(決定論)のか、私の自由意志によるの(偶然論)か。「区別できない」とするのが私たちサイエンティストの立場です。

聖書に書いてあるとおり、「神はすべての人が救われることを願われる」とあり、また「私たちはすでに選ばれていた」とあるとおり、そのままに「アーメン」と神に栄光を帰するのみです。「選ばれていない人はどうなるの?」と言う質問自体がすでに"ill-posed"(不適切な問題設定)なのです。このふたつの命題をどう矛盾なく神学の体系に組み込むのか、私たちからすると元々無意味な作業であると思うわけ。

私たちの自由意志が神の定めを無効にできるのか(=偶然論:これは神の全能性に反する)、できないのか(=決定論:これでは人の自由意志の働く余地はない)、判断できないのです!

そもそも私たちは物理的な時空連続体に閉じ込められていますが、神はそれを超えた存在です。ですから神にとって私たちの人生の系列はすでに全工程が見えているのです!で、聖書はあなたがたは聖とされ、完成されたと告げています。

私たちはその地点から現在を逆算するだけなのです。行き着くところはすでに決定している。その間を埋めるのが私たちの自由意志です。別に再建主義に反対しようが、その神の決定を覆すことはできません。私たちの罪や失敗も神の決定を覆すことはできません。神はすでに私たちを完成された者として見ておられるのです。

その視点に立てば、私たちの人生は運命論的に決定しているからとして自由意志を放棄するものでもなく、何でも自由に振舞うべきものでもないと分かります。神の定めと私たちの自由意志とが綾なされて私たちの地上の行程は刻まれます。そこを目指して歩めばよいのです。

神の予定と人間の自由意志について

それは生きることはキリスト。キリストは道。人生の成功とか、失敗とかで振り回されるのではなく、キリスト御自身が目標。キリストから外れないことを自由意志で選ぶのです。またキリストを獲得することが私たちの動機なのです。大切なのは、決定論か偶然かと考えて立ち止まることなく、どこにおいても、どんな状況でも、神と共に歩くこと。これで十分ではないですか?神はインマヌエルなのです!

 <決定論(テーゼ)vs偶然論(アンチテーゼ)>を止揚して、<キリスト(ジンテーゼ)>

これって「霊的弁証法」と言えるのだろうか?

「間」のリズム感

いわゆる笑いは「間」のリズム感から生まれる。人の精神はこの緊張と解放のリズムがないと病む。退屈しない話や映画はこの緊張感と解放感のリズムが絶妙なのだ(専門用語では「カセクシス」と「カタルシス」と呼ぶ)。能では「序・破・急」と言う。

そのリズムのスペクトルを見ると1/f型。これは自然界の快適な音、例えば小川のせせらぎや、そよぐ風などのパタン。あるいは快適なクラシックなどの音楽。これは前に述べたカオスとも関係する。

私の最近のここのカキコを心配気に読んでくださっている方々が多いようだが、実はこのリズムがかなり密になっているため。ハラハラ感はこの密度の高さから生まれる。私的には内側から沸いてくるものを忘れないように書き留めているわけ。

神との関係、つまり霊的領域においても同じようなリズム感がないと人は霊的に窒息する。ある本に霊はkinkすると言う表現があったが、まさにそのとおり。糸がもつれて玉ができるのだ。これがほぐれないといのちの流動性がなくなり、内的生活は新鮮さを失うし、時には圧迫を受けることになる。

神は私たちの人生において絶妙に「緊」と「放」を配剤して下さる。かくして人生は縞模様を生み出す。この配剤に信頼して委ね、いのちが流れている時、サラサラと生きることができる。多分私たちの健全な霊的歩みはカオスであり、スペクトルは1/f型であろうと夢想している。

「間」の病理

分裂病の精神病理の専門家木村敏氏の著書に『間の病理』がある。要するに精神分裂病は人間関係の病理であり、「間」の取り方が狂っているというわけ。病んでいる人はこちらにその意図がなくとも、自分の「間」を犯されると感じると、恐れや妄想や幻覚を生じるのだ。私たちの「間」とはかなり食い違う。

私たちも対人関係で混乱を覚える場面は、下にも指摘したように、「間」の取り方を侵食される時なのだ。私の著書でも「間」とはある霊的な何かを指しているかもしれないと述べたおいたが、これはあまり見当はずれではなさそうだ。魂と霊が相互作用する緩衝領域のような印象を受ける。神学では「中間領域」と言い、私たちは「間」と言うわけだが、どうも同じ何かを指しているようだ。

山本七平氏が日本を「空気の社会」と呼んでいたが、「空気」も「間」と同一視できるかもしれない。さらに『甘えの構造』の土居健郎氏は、自身もクリスチャンであるが、「気」の精神病理を論じていた。この「間」とか「空気」とか「気」とか言う対象は、何か同一の「霊と魂の緩衝地帯」を指しているのだろう。

日本文化はすべからく「間の文化」と言える。和室や日本庭園は無駄な空間が実は何かを表現している。武道なども同じ。自分の「間」で、「気」を入れるとき、勝負が決する。

ニッポンキリスト教はこの「間」に対するデリカシーがほとんどない感じなのだ。もちろん信仰は、究極には「自分か、キリストか」の排他的選択を迫られる。これは一種のクライスである。が、それを超えた後はまたある種の「間」ができる。ところが教界ではこの「間」が何か人工的な作為的なものになっている。これがクリスチャンや、特に牧師たちから受ける違和感なのだ。

同じように、私の「間」にフィットする方は私のメッセージを受け入れて下さるようだが、私の「間」を嫌う人はまったく受けつけないようだ。ここにはある種の霊と魂の相互作用から生じる感受性が大いに関係するようだ。

いずれにしろ教界は「間が病んでいる」と言え、木村氏の理論によれば一種の分裂病状態と言える。

ニッポン・キリスト教村のしきたり

ある方がメールを下さって、このサイトでは英語の"born-again"を「再生」と直訳しているが、これはあまりにも初歩的なミスで、日本の神学では「新生」が正しい用語だから訂正されたし、とご忠告をいただいた。「はあっ?」と一瞬思いましたが、「はい、ありがとうございます」と、丁重にお返事をした。ちなみに岩波訳では「再生」と訳しているのですね。(本音:どっちでもいいじゃん)

ちなみにうちのカミさんも薬剤師として薬局で働いているのだが、「お勘定をお預かりします」と答えたら、「それは預かるじゃなくて、・・・だろ!」とマジに"クレーム"をつけた客がいたそうで・・・、こわかったと。

まあ、このキリスト教と言うギョウカイ、どうもそれぞれにシマと申しますか、一定の「何か」を共有できる領域に分かれておりまして、それぞれに方言があり、しきたりがあり、村長(むらおさ)がいて、村民の言動に目を光らせておられるようです。

ある地域には「ありのままでよい」と人気を博している村長、別の地域には「すべてはモーセ律法だ」と叫ぶ戦士、また他の地域には「クリスチャン天皇を擁立したキリスト教国家ニッポンの建国を」と旗を振る元気な衆、はたまた「日本民族一億総伝道福音化運動」を提唱する長老さんたち、これでもかと「現代の使徒・預言者による現代の宗教改革を」と旗を振る革命家たち・・・と。で、普通のオジサン・オバサンたちは何だか物も言えず、ひたすらじっと息をひそめ、窒息していると言うか、霊の息を深呼吸できないでいる。

以前から「このギョウカイは要塞化している」と感じていたが、どうもこれはマチガイナイ。モラトリアムで遊びの多い私などはとても属するところがないというか、入り込めないというか、コワイなあ、と感じるのだ。ちょうど踏み絵を踏まされる感じ。私が言う「遊び」は神学用語では「中間領域」と言うのだそうだが、ここは「普通の感覚」が支配している領域。どうもキリスト教ギョウカイから受けるコワサはこの領域を侵犯される時に生じるもののようだ。

閉鎖社会ニッポンの中の閉鎖社会ニッポン・キリスト教界。ここに属することは私的には主イエスが来られる日まで、いやその日でもできそうもないなあ〜。

聖書と社会システム

山谷さんのBBSではコモン・ローの問題が再提示されてきました。で、過去ログを紹介しているので、読んでみましたが、これが実に面白い。自然科学と人文科学は一応カバーできていると思っている私ですが、社会科学はまったくの音痴です(経済学だけは数学の言語で語られますので少しは分かりますが)。が、その私にとってもかなり面白い。

ゲイリー・ノースの「Y2K世界崩壊」の外れ預言はコンピュータ・オタクの私にとっても一大記憶として鮮明に残っている。同僚の先生がエラク心配して、質問を受けたことがあったし、クランシーの小説もありましたね。しかしその背後にこれだけの思想体系が横たわっているとは・・・。

アメリカの政治システムについては鹿嶋春平太氏の『聖書が分かると世界が読める』において、共和党と民主党の本質が論じられており、けっこう面白かったが、さらに再建主義による国家建設を目指している人々があることはごく最近知った。

しかし日本においても、かつてレーガンがフリードマンのサプライサイド・エコノミクスと共に目指した「小さな政府」を志向するようになっているが、このレーガンを選出した一大勢力が新右翼思想と言われる再建主義勢力なんだとか。

こう見てくると、日本はアメリカの見える部分だけを真似しているだけとも思えてきますね。教界も、社会も。まあ、ベニー・ヒンがニッポンキリスト教の総帥となり、再建主義社会が実現するようなことはないと思いますし、そうならないことを祈りますが・・・。(考えただけでも震えます。)