最近の日記

今年の仕事は終わりました:T-7days

今日でセレブレーションは終了。来週は賛美と交わりの会です。元旦はお休み。一般的には元旦礼拝とかするのでしょうけど、私たちは家族で水入らずで過ごしたいのですね。というわけで、メッセージも新年8日まで更新いたしません。ワーシップは少し長めに収録して置きました。

大学の講義もあと残すところ3日。木曜日から週末までは福島のS兄弟の山小屋に泊まりに行きます。そして来週月曜日からは温泉と・・・。ここのBlogでもややこしい話もあったり(こういったサイトを開いていると変な人たちに絡まれるのは宿命かな・・・^^)、今年もイロイロありましたが、それぞれが主ご自身と主の真実を経験し知ることができたことは幸いでした。これだけが主とお会いする時まで残るものです。

すべては主を知ることのゆえに配剤されてあることを感謝します。

ピグマリオン症候群

って何?と質問をいただきました。ちょっとややこしいことを述べますが、私たちが何かのリアリティ(物理的・精神的・霊的)を認識するとは、それを適切な感覚器を通して内側に取り込み、それを言語化することなのです。言語は世界の映像です。ところがその映像をリアリティを差し置いて大事にすることがあるのですね。

ある所にピグマリオンという彫刻家がいまして、美女の像を造ったのですが、本人を差し置いて自分の作品の像に恋してしまったわけ。これが「ピグマリオン症候群」です。一種の倒錯的状態ですね。

私たちは人と関係するときに、その本人とつねに関係を持つわけで、その経験を通してその人のプロファイルを構成していきます。この人は明るいとか暗いとか、活発だとか内向的だとか。このような何かを記述する言語を「メタ言語」と言います。

カルバンにせよ、ウエスレーにせよ、彼ら自身の神との関係からそのプロファイルを作り上げたわけですが、そのプロファイル書を読んで、本人を分かったつもりになるとしたら、これはおかしいわけです。あるいは本人を差し置いて、互いの報告書を批判し合うと。神学者はメタ言語内でこのような議論をしているわけです。

私たちにはすでに聖書と言う主イエスの第1次のユニークなプロファイル報告書があります。ここにとどまればよいのです。さもないとカルバン神学の講解、さらにまたその講解・・・と言う無限後退性のジレンマに落ちます。ウエスレーについてBBSでどなたがお書きになりましたね。誰々によるウエスレー神学の解釈とか。ナンセンス!

へブル8:11にこうあります:

また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。

主は、「マイ・ジーザス」であり、「マイ・ゴッド」。そしてスウィートな方です。無意味な疲れる論争は専門の神学者に任せて、私たち普通のおじさん・おばさんは主ご自身をエンジョイしましょう。

Dr.Lukeの一言映画評-キング・コング

昼はチネチッタでシャブシャブの食べ放題。1,980円で90分イヤと言うほど食べられる。ホットの芋焼酎がこの時期イケル。

野外でネギッコとか言う十代の4人の萌え系少女のコンサートがあったが、見てる人が独特の雰囲気を醸したオジサンばかりで、しかもあんな狭いところなのに望遠つきカメラで狙っていた。ロリ系は正直ちょっとキモイ。

映画はけっこう楽しめました。設定はオリジナルと同じで、第一次大戦前後くらいの時代背景。秘境の島に巨大生物が生息しており、そこからコングをニューヨークへ。美女に恋したコングが、彼女を追って大暴れし、エンパイア・ステート・ビルの天辺で飛行機からの機銃照射を受けて哀れな最期を遂げるおなじみのストーリー。

映像はCGを駆使し、ジュラシック・パークのノリでかなり楽しめる。特に巨大昆虫に人間が食べられたりするシーンはコワイ。またエンパイア・ステート・ビルの天辺のシーンでは高所恐怖症の私はつい足がムズムズ。それにしてもこの美女がコングを思いやって、ハイヒール(!)でビルのはしごを上るのはちょっと無理でないかな、と要らぬツッコミを。

年末から年始にかけて、けっこう楽しめそうな作品が続く。いやあ〜、映画って本当にいいものですね。

土曜日の楽しみ

私の休みは実質土曜日だけ。実に待ち遠しい。土曜の朝の楽しみは『ぶらり途中下車の旅』。もう10年近くになるのでは。この番組で紹介される苔のむしたような石垣や、下町の雑然とした町工場の群れ、裏町のさびれた小道や、町のおっちゃん・おばちゃんの生活、手作りの作品の店、ちょっとした粋な小料理屋など、ああ、人が生きている、と言う安堵感を覚えるのですね。

こんな商売していてやっていけるかなとかも思うときもあるのですが、今日のアメリカ式の大量生産・大量消費のメガストアなどにはない、人の営みと温もりが感じられる。LAなどは方眼目盛りのような計画街路で、規格品的な家並みが続き、整然としていてもある種の渇きを覚えてしまう。

日本の町並みは雑然とするようであるが、あの角を曲がると何が現れるか、といったワクワクする作りなのですね。それはまさにカオスであり、複雑系なんですね。日本人でよかったと実感できる番組です。

さて、これからプールとサウナ。午後は『キングコング』を観てまいります。

カウントダウンT-9Days

ふう、今日も一日終わり。温泉まであと9日と。ニンジンをぶら下げて、カウントダウンしている間がいいのですね。食べてしまうとややさみしくなるわけで・・・。

で、どこかイイ温泉を紹介してと兄弟姉妹にも言われますので、Dr.Lukeお薦めの宿をちょっと(伊豆に絞ります):

南楽:瓶の露天風呂があり、天井の低い和屋敷で、色は黒を基調としてものすごく落ち着く。囲炉裏つき和室で懐石風料理を堪能できる。

金屋旅館:何と言ってもプール並みのヒノキ造りの千人風呂。ちょっと古いがそれが魅力。

堂ヶ島温泉ホテル:西伊豆の海辺にあるヒナ壇作りのホテル。三四郎島へトンボロ現象で歩いて渡れる。露天風呂は駿河湾の夕日を見ながら最高。

土肥館:若山牧水ゆかりの旅館。露天風呂には巨大なゴムの木が。太鼓で出迎えてくれる。

玉樟園新井:今年の予定。土肥の老舗。TVドラマの舞台や将棋戦の場としても有名。

伊古奈:温泉婁がみごと。別館への回廊は見もの。

白壁荘:石川さゆりの「天城越え」の舞台となった宿(今日のTVででも紹介されていた)。露天の巨石風呂と巨木風呂がすごい。仲居さんが新宿2丁目系の野太い声で世話してくれる。わさびが最高。

山海亭:駿河湾と富士を一望する露天風呂が最高。西伊豆は魚が新鮮。

湯本館:川端康成が『伊豆の踊り子』を執筆した渓流のほとりにひっそりと立つひなびた宿。夜は星がキレイで、シーンと静かです。

白雲荘:万葉の里。白壁造りの落ち着いた宿。高級な料亭風で、懐石料理が美味い。

北川温泉ホテル:太平洋を一望するロケーションが最高。料理は豪華。食べ切れない。温泉は豊かにあふれている。

黒船ホテル:豪華絢爛のホテル。設備、料理共にすごい。風呂は下田港を一望。実は私どもが新婚旅行で泊まった想い出の処でして、当時はこんなに立派ではなかった・・・。

と言うわけで、これまで訪れた温泉の中でごく一部の思い付いた処をご紹介しました。また思い出したらご紹介します。

主をあがめます

Salt氏のお父上が勝利の凱旋をされたことのゆえに、主を褒め讃えます。

究極のメタ言語

パウロは言っている。

あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

つまりコリント人そのもの、彼らの生そのものがキリストを語るものであり、すなわち彼ら自身がキリストを説明する言語、つまりキリストのメタ言語だと。キリストのメタ言語の特徴は次のとおり。

真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

「生」の共有−鈴木大拙と西田幾多郎

彼らは生涯禅を通じての盟友であり続けた。鈴木禅学と西田哲学の創始者であることは言うまでもない。彼らの哲学は、一言で言えば(禅は「不立文字(ふりゅうもんじ)」であることを知りつつも)、「生きること」そのものを定式化したものであり、大拙は「即非の論理」(A∧¬A、つまりAがAでありかつAでない)、西田は「多即一の絶対矛盾的自己同一」と表現した。要するに私たちの限りあるオツムで静的にこねくり回すと矛盾に見えることが、動的に生きることにおいて、その生的実存において矛盾なく成立すると言うこと。

これは例えば、「神は父・子・聖霊の三位格をお持ちで、かつひとり」と言う、人間の知性には収まり切らない実存が、いのちなる神においては何らの矛盾もなく成立することと同じ。またイエスは神にして人であるわけだが、いのちなるイエスにあっては神性と人性の結合は矛盾なく成立している。もちろんイエスは自分の意志をお持ちであったが、彼の意志は常に父のそれと矛盾なく同時同在し得た。そのクライシスはゲッセマネで起きたが、なおその危機をイエスは十字架によって乗り越えた。

これらを神学では、私たちの知性に納まるように「神は3つのペルソナをお持ちでひとつのウシアを持たれる」とか、「神と人のヒュポスタティク・ユニオン」とか表現するわけだが、これですでにいのちから離れている。神は定式化される方ではなく、いのちそのもの。いのちにあっては、もっと言えば、実存的生そのものにあっては、三が一であって、何ら矛盾はないのだ。

大拙と西田はダイナミックな「生」、「生きること」そのものを共有したが(もちろんアダムにあるいのちではあるが)、果たして今のニッポンキリスト教のクリスチャンたちは、そのようないのちの共有を経験的に了知し得ているであろうか。それとも立体的で動的ないのちの次元から落ちて、いのちを喪失した平板な静的な議論によって、無残な荒れ果てた状況が展開しているであろうか。

娘とデート

長女が公務員試験対策の本を探すとのことで、手伝って欲しいと請われ、横浜のモールの有燐堂で待ち合わせて、しばしの探索。で、その後喫茶店でコーヒーを飲みつつ、1時間ほどを過ごす。周りのおばちゃんたちがチラチラと私たちに視線を送ってくるのに気づいたが、アブナイ関係じゃあないんだよ^^

彼女が生まれた夜のことははっきりと覚えているが、あの泣き声がいまだに耳にこだまする。イロイロあったが、節目節目で主の御手を感じてきた。それが今や就職に向けてアレコレ迷っているわけ。主が道を用意して下さっていることを話し、自分の責任を忠実に果たせばいいんだよと、ちょっと金八先生的な話をしている自分に気づいてしまった。

こうして娘とデートできる当たり前の生活にあって、ますます主の配剤と恵みに感謝するのみ。家の駐車場に車を止めて、ふと空を見上げると、放射冷却がきついだけあって、満月がやけにキレイだった。

閉鎖性の病理

カルバンとアルミニウス(決定論と偶然論)の議論が現代科学ではまったく意味のないことをすでに述べましたが(「いや、神学的には意味があるのだ」と言われれば、「ああ、そうですか、勝手にどうぞ」となります。ますます神学は・・・となるだけですね)、文句の言いついでに、進化論に対する批判について、私はクリスチャンですが、批判してみましょうか。

よくご丁寧にエントロピーを持ち出して無秩序から秩序が生じないことを「論証」しますが、われわれから見ると、足し算引き算しか知らない小学生が、微分積分に異議を唱えるようなものです。無秩序から秩序をエントロピーの法則に矛盾しないように作ることができるのです!これを「自己組織化」あるいは「散逸構造定理」と言います。

また確率論を持ち出して、DNAができる確率は、バラバラの部品を空に投げたらジャンボができる位の確率だとして、自然にはできないことを「論証」しますが、これもナンセンス。

自然数の個数は無限個ですね。では自然数の比で表される有理数の個数は、もちろん無限個です。ではどちらがたくさんありますか?もちろん分数・・・ではありません。自然数と有理数は同じ個数です!しかも任意の二個の有理数の間には無限に有理数があります(これを稠密性と言います)。

さて√2などの実数は有理数ではありません(整数比では表せない)。で、無理数は無限個ありますが、これは自然数や有理数の無限個よりもさらに大きな無限個です(正確には「濃度」と言います)。この有理数と無理数をあわせて実数と言いますが、かくして「自然数の個数/実数の個数=0」なのです(正確には測度論を必要とする)!言っていることが御分かりでしょうか。確率をパスカルの古典論でいじくりまわして「確率が限りなく0に近いから起こり得ない」とする神学者の「論証」はナンセンスなのです!

このように私たちサイエンティストから見ると、こう言った幼稚な進化論批判などはますます真摯なサイエンティストをのけぞらせ神から遠ざけるだけでしょう。独り善がりのオメデタ・キリスト教徒となるわけです。これは神の創造を信じる私ですら、このニッポンキリスト教界と触れているとますます強く感じることです。閉鎖社会の中でメンツを張り合って空回りしているだけの「井の中の蛙」なんですね。

「リバイバル音頭」で酔ったり、「何とか神学」を狂信する前に、もっと真摯かつ謙虚に学ぶべきでしょう。

聖書の読み方

赤子さんがハードコアでとても大切な問題提起をして下さっています。私が神学について苦言を呈する理由もそこで述べておきましたが、神学は単なる「メタ言語」に過ぎないのに、その対象である御言葉に置き換わる危険性を指摘しておきました。御言葉から離れて「メタ言語」内での空理空論に落ちる危険があるのです。(これを「ピグマリオン症候群」と言います)

メタ言語の病理については→科学と信仰

はっきり言って、私はカルバンとアルミニウスなどまったく知りませんでした。が、一応クリスチャンと思っています。御言葉を読む時に、別に神学を知らずとも、御言葉を理解することができます。

例えば、神学で「義認」と言いますが、「義認とは・・・である」などど神学的定言を知らずとも、私は次のようにアプローチします:

ローマ4:6以降で「行いによらず神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸いである。主から罪があるとみなされない人は、幸いである』」

ここを読めば、「罪を赦され、覆われる」ことがひとつの段階であり、次に「罪があるとみなされない」ことが続きます。ですから私は、神学書など一冊も読んでいませんが、「義とされることは罪があるとみなされないこと」と理解するのです(※)。これが何神学かは知りません。

※Darby訳では欄外注に"not account of him as having any"の意味であるとあります。さらに意味が明確になりますし、確信が沸いてきます。つまり「たったひとつの罪も持っていないとみなされる」のです!

たとえれば、交通違反をして切符を切られますと、罰金を払います。これで不法が赦されます。払わないと逮捕されます。しかし点数は残ります。しかし神は点数も残らないと見てくださるのです。つまり私の神の前の点数は0点です。これが義とされることであると私は理解するわけです。

かくして聖書があれば、神学書がなくても、義とされることを理解することができるわけです。この理解が神学的に正しいかどうか、私は知りませんし、そんなことはどうでもよろしい。私と主との関係はこれによって確信をもち、ますますイエスを慕わしく思え、イエスとの交わりに大胆に入ることができます。

これが神学書など一冊も読んでいない、一サイエンティストとしての私の方法論なのです。

(本音:そもそも主流派とか福音派とか聖霊派なんていうのも知りませんでしたが、知らなかったほうが幸いですね。)

蚕のように・・・

メタモルフォーシスはひたすら霊なる主の働きによる。私たちは何もせず、ただ主にぶるさがればよい。そのとおりです。それは主の責任の領域です。

では、新しいいのちを宿した妊婦はどんな生活をしますでしょうか?そうです、食べるのです。特にカルシウムや鉄分が不足しますから、あえてソレ系食品を食べるのです!胎児のために。

私たちも同じです。蚕のようにひたすら食べる。何を?御言葉です。御言葉はケンケンガクガクの神学論争のネタではなく、霊のいのちの糧、全栄養素をバランスよく含んだ、霊的食品です。頭の痛くなる神学書を読む時間があったら、単純に御言葉を祈りつつ読みましょう。私たちの霊は豊かに潤され、養われます。

みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。

ある日、ついに脱皮して、栄光に与ります。

単純と簡単

下で「霊的成長は単純」と書いたら、けっこう気に障る人がいるのですね^^どうもこの手の人は人の書いた文章をそのままに読めないで、自分のオツムの中で勝手に読み込むようです。私は「霊的成長は簡単」とは書いていません!

単純と簡単−お分かりになるでしょうか?

家康とキリスト者

徳川家康:人生は重荷を背負って、坂道を登るが如し。

主イエス:わたしについて来たい者は、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい。自分の魂を救おうとする者はそれを失い、わたしのために失う者はそれを得るであろう。

ある未信者:何だか同じだよ〜。クリスチャンになるの、ちょっとまだやめとこ。もう少しこの世を楽しんでから、そう、死ぬ直前に洗礼受けようと思います。

なるほど、現状では正解かもしれない。

クルシチャン諸氏よ、十字架は解放です!自分のために苦しむから苦しいのです。それは逃げようとするから。それは魂の粘着性。

ガイオン婦人は「十字架は甘い。私は私の十字架に口づけする」と言っています。