最近の日記

魂を否むこと=魂の真の救い

昨日の独り言にいろいろなメールによるご意見や証をいただきました。そのひとつに「魂を否む」とはどういう意味ですか、とありました。これはよく勘違いされるところで、下手をするとクルシチャンを生み出します。「自我を十字架につけて〜」というエキセントリックな説教になるわけです。

みなさんは風邪の引き始めの状態をご存知ですね。体がかったるく、ほわ〜っとして、ある種気持ちがいいのです。この時って、普段よりも心が穏やかになりませんか?これが魂を否むことです。この時には内的精神的エネルギー(たぶん生理的現象と関係しています)が風邪のために弱くされているのです。そこで魂の中に注ぎ込まれるエネルギーのレベルが落ちているのです。これが独特の平安と安らぎを生み出します。でも魂の機能は損なわれていません。私は私ですし、好みもありますし、物事も考えていますし。パウロとヨハネの文書の味わいが違うように、それぞれの魂の形は違ってよいのです。

お分かりになりますか?魂のエネルギーが落ちること、そのときに御霊の霊のエネルギーが魂を駆動するのです。魂の機能そのものは壊れることもありませんし、むしろもっと豊かに機能します。知性はクリアにされ、感情は豊かに、意志はやわらかくなります。魂を否むとは、私がなくなったり、別人格になるわけではありません。だからパウロは、

もはや生きているのは私ではなく、キリストである。今、肉にあって生きている私は、神の子の信仰によって生きている(ガラテヤ2:20)

と証しています。生きているのは私ではないのに、肉にあって私も生きているのです!御言葉を勝手に読み込んで、勝手な解釈(特に日本人は儒教あたりの匂いが強いです)で、自ら苦しめて、ビョウキに落ちているケースがあまりにも多いのです。その一方で、その反動かのように「ありのままのあなたでよい。すべては受け入れられている」式の砂糖まぶし的ヒーリング・ミニストリーがはやっています。そこには真の十字架がありません。十字架は魂のエネルギーを霊のエネルギーに切り替える働きをするのです。

ニッポンキリスト教界=神経科?

ニッポンキリスト教という業界と関わるようになって、すでに丸7年が経過した。で、よくよく分かったことは、心に病を持つ人が実に多いと言うこと。彼らは心が弱いのではなく、実は魂の力が強すぎるわけ。欝病者なども、実に落ち込んで自己評価が低いときと、逆に増長して自己肥大を起こすときを繰り返すが、彼らの魂の中には鬱屈したエネルギーが充満している。自分でもそれを持て余すわけ。自分のことが自分で処理できない。

それから人格障害。特に自己愛性や境界領域性、そして妄想性の障害が実に多い。いわゆる教役者で、預言だの、悪霊追い出しだのに入れ込む人は、妄想性+虚言症の人が多い。信徒あたりでも、変に神学に入れ込んでいたり、霊的知識があったりすると、妄想と知識が渾然一体となってくる。

前にもちょっと書いたが、彼らはだいたい一目見ればその風貌や表情や物腰から容易に判断がつくが、彼らの特徴のひとつがすべてを自己を基準とすること。自分にとってどうか、自分をどう扱うか、自分をどう評価するか。

彼らに対して十字架を取ることや、魂を否むことを期待することはほとんど無理のようだ。ここでいわゆるヒーリングが繁盛するわけ。この業界でいかがわしい商売をしようとすれば、いくらでもできることも分かった。人は幼稚なことや馬鹿げたことにけっこう金を惜しまないからだ。自分を救うためには。

一方で見栄えのするもの、力のあるものなどの、肉を喜ばすパン種で空虚に膨れただけのところもある。いやはや、現状はリバイバルどころではありません、サバイバルなのです。ニッポンキリスト教は。

かくして私たちは、古いパン種や悪意および邪悪のパン種をもってではなく、むしろパン種の入っていない純粋さと真理とのパンでもって、祭りを祝おうではないか。

自分を知ること

老子でしたか、荘子でしたか、「自分を知り、敵を知れば、百戦危からず」と言ったのは。私たちサイエンティストはつねに自分の認識し得る能力と射程を意識しながら、物事に当たるのですね。

「学」とは、「何か」を客観的に対象化して説明することなのですが、実は物理の最前線では、この客観化がなし得ないわけです。すでに主観と客観の線引きができない領域に立ち至っているわけです。ここで前に述べたような、カオス理論や、量子力学における観測の限界を与える不完全性原理や、論理自体の限界を与えるゲーデルの不完全性公理などが発見されているわけです。

ところが神学では、すべての創造主なる神を客観化して説明しようとする!?われわれからすると何と大胆と言うか、無理なことをするものぞ、と感じるわけです。もっと言えば、ドン・キホーテ。時空間を超え、われわれの知性のフレームを超えている存在を、われわれの認識の中に収めようとしている。

神学の最も根源的な問題はですね、人間を知らないこと、なのです。デジカメで画素数がいくらかを知ることは、デジカメがリアリティをどれだけ正確に写し取ることができるか、つまりその性能を決定する最も本質的な要素でしょう?ちなみに私たちの視覚だって、すでに相当に騙されているわけ。だからマリックさんやセロさんたちが商売できるわけです。

自分を省みることができない人、自分を知らない人は、病んでいる人です。人から批判を受ける時、私は「ああ、この人の心にはこう写っているのだな」と見るわけです。つまりその人の心の平面が平面ではなく、相当に歪んでいるわけ。で、このような心から生まれる「学」ははたしてどのようなものになることでしょう。神学オツムの方々にはぜひその辺を再考していただきたいと感じている次第です。

神学という学問のレベル

神学によると宇宙は15の主権領域に分かれており、数的領域から始まって、物理的領域、生物的領域、・・・、審美的領域、信仰的領域へと展開するのだそうだ。私たちサイエンティストから見ると、何だか乱暴な意味不明の分類だなというのが実感ですね。数的領域と物理的領域を分ける???これはそもそも「数」を知らない人、また数学と物理の関係を知らない人の発想ですね(笑)

前にカルバンとアルミニウスの議論(決定論と偶然論)が無意味なものであることを指摘しましたが、やはり神学はニュートン以前と言わざるを得ないようです。これではとても自然科学者に対する弁証には成り得ません。もう少し人間の認識の限界や、認識と存在の関係などについて基礎的な勉強をしていただく必要がありましょう。

私たちからすると、神学者に、例えば原子力や医学などを任せることなどはとてもできないわけです。それはとてもコワイことであります。率直に申しまして・・・・。

Dr.Lukeの一言映画評-ミュンヘン-

スティーブン・スピルバーグの社会派映画『ミュンヘン』。1972年9月5日、ミュンヘン・オリンピック開催中に、パレスチナゲリラによるイスラエル選手団襲撃事件が起こる。人質選手11名は全員死亡。激怒したイスラエル機密情報機関“モサド”は、秘密裏に暗殺チームを編成、首謀者11名の殺害を企てる。リーダーに任命されたアヴナーは、仲間4人とともに殺害を実行していくが、次第に自分たちの任務に疑問を感じ始めていく(以上チネッチッタの紹介文から)。

当初は娯楽ものが主体であったスピルバーグも、彼自身ユダヤ人らしいが『シンドラーのリスト』など、ユダヤ人問題による裏社会を映画化することが多くなった。ユダヤ問題はクリスチャンにとってもややこしいことになるようで、普段は理性的な人物もこのことになると感情先行型になるくらいに、ある種の霊が働くようだ。私的には関わらないほうが無難というのがこれまでの経験で得た結果。世には裏があるのだ。

ライブドアも集めた資金を手の込んだ方法であちこちに回してマネーロンダリングしていたようだが、当然に闇社会との絡みが出てくる。ホリエモンも知ってか知らずか、そのような世界と関係してしまったのだろう。あの野口氏の死も常軌を逸しているし、立花隆氏によると、地検特捜部が100名も動員する事件は10年に一度くらいのものであり、必ず政界とも絡み、かなり大掛かりな事件へと発展するであろうと予言している。

再建主義者によると国家はできる限り小さくあるべきなのだが、極論的に個人責任で犯罪などにも対応しなくてはならない世の中を考えてみてほしい。地検特捜部もなく、個人が、もっと言えば烏合の衆が、どうやってこれらの闇の犯罪に対応し得るのか。国家(たとえモーセ律法を司法適用していなくとも)があることによって、神は間接的にご自身の主権を行使しているのだ。私は大いに地検特捜部に活躍してもらいたい。

世の闇は深い。これは陰湿さと、妬みと、プライドと、自己欺瞞に満ちるニッポンキリスト教界にも言えること。あのクリスチャン議員木俣氏の事件などはかわいいものであり、現状はとてもではないが、聖なる神の霊が働ける状況ではない。霊的地検特捜部の働きがまず必要だろうと思う。

本日も・・・と思いきや

一般入試。午前2時間の試験監督。午後は16名の面接。いつもながらのワンパタン。中にはニートかつ引きこもりで、何とか自立したくて看護を志望した男性29歳という猛者も。だいたい、私たちが見ると、分裂病者や鬱病者はすぐ分かるし、対人恐怖症や引きこもりなども見当がつく。それなりの「におい」があるわけ。分かりにくいには、人格障害。これはしばらく付き合ってみないと病理が見えてこない。

その他は、まあ、いつもどおりかと思いきや、一人面白い女子がいた。看護を志望しているのだが、「その動機は」と尋ねると、「はい、祖父がむかし病気で入院して、そのときにお世話になった看護士の方が・・・」(小生の心の中で、まただよ、すばらしくって、それであこがれたんだろ・・・ところが)「祖父のことを、言うことを聞かないと張り手をしたんです。私はなんてひどい看護士なんだろって思って、こんな看護士だけにはなりたくないと思って、看護士を志望しました」。(小生心の中で、うん、座ぶとん1枚!と思いつつ・・・)「へえ、面白いね、そんな看護士がいたの?その人女性?」、「はい、そうです。」

まあね、これがネタかどうかは分かりませんが、たまにはずされるとホッとするわけで、こちらを読んでの回答だったら立派だし、真実だとしても面白いので、つい「A判定」をつけちゃいました。

キリスト業界と予備校業界

本日は一般入試。都内の某予備校を借りて、午前中2時間のテスト、午後は16名の面接と・・・。テストは丸2時間、手持ち無沙汰で、薬を飲んでいるので、ポカポカしてついうとうと。面接はいつもながらのワンパタン。試験されているのは実はこちらでして−そう忍耐のテスト・・・。

 * * *

BBSでは何だか物騒というか、「羊泥棒」なる言葉まで出てきていますが・・・。やっぱり大変ですね、このギョウカイ。自分の教会の教勢がどうのこうのとか、ごっそり引き抜いたとか、互いに相手の中傷をし合ったりとか、予備校の生徒争奪合戦みたいですよ。どうも似ているのです、ニッポンキリスト業界とニッポン予備校業界。牧師も予備校講師も共にホスト・ホステスなんですね。何とも寂しいことです。

私的には、主からの任務を下ろして、早く引退したいのですが。その日まではセルフレスな礼拝にとどまりたいわけです。しかしこれでDr.Lukeも「羊泥棒」のレッテルを貼られるのか知らん。ただでさえ、悪評判が多いというのに・・・涙。

長引いています

どうも気管の炎症が取れませんで,しゃべろうとすると咳き込むありさま。冷たい空気が沁みます。もともと気管支が弱く,ドッグでは必ずスバイロメーターでひっかかるのですね。要するに換気能が低いわけ。まあ,ぽつぽつといきましょう。

BBSでは「尋問された」とか,なんだかこわいことになっているようですね。一体信徒は誰のものなのでしょう。牧師先生の所有物?アブソリュートリー・ノー!イエスの羊でありましょう。そのあたりを勘違いしている御仁が多いのです。

私のメッセージを聞くと,ひとりひとりが目覚めてしまうので,そのような先生には都合が悪いのでしょう。「起こさず・眠らさず,(自分に対して)従順に・・・」の呼吸で牧するわけです。これから生まれる「リバイバル」って果たしてどんなものだと思いますか?どこか病んでいるのですね,このギョウカイ。

ようやく・・・

本日で試験も終わり。採点も終了して,あとは400名分の成績報告書を作成するのみ。これで実質的に2005年度は終了で,4月まではわりと時間が取れる。これが大学教師のいいところでして・・・。しかしインフルエンザがまだ気管に残っていて,冷たい風で狭窄を起こして苦しくなる。体力もまだ十分に戻っていない。今日も試験監督をしている間についうたた寝をしてしまった^^今晩は早く寝て,あすは少し寝ていよう。

時代の霊に逆らうこと

時代は英雄を求め、たてまつる器を拝し、強いリーダーを求めている。美しいもの、見栄えのするもの、力のあるもの、影響力のあるもの、言葉の立つもの・・・。時代のアイオーンが私たちに迫ってくる:「お前に何ができるか。この時代の霊に服し、私を拝するように。そうすれば、あなたは繁栄し、富を得、影響力を行使できるであろう」と。主イエスを誘惑したとおりに、語りかける存在がある。しかし孔子ですら言っている:

子曰、巧言令色、鮮矣仁。
(子の曰わく、巧言令色、鮮なし仁。)

先生がいわれた、「ことば上手の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、人の徳は。」

見栄えのしないもの、力のないもの、小さなもの、魅力のないもの、弱いもの−それらを顧みてくださる主の真実を求めたい。

Step Forward

一歩を踏み出すことは、もちろん、日常の生活でこれまでできないと思っていたことにチャレンジすることも、奉仕や伝道に踏み出すこともそうですが、もっとも本質的なことは、「自分から離れること」です。足りない、足りないと、求めてきた自分、傷ついて自己憐憫に閉じ篭っていた自分、その自分から一歩を出ることなのです。禅の天才道元もこう言っている:

仏道をならうとは、自己をならうなり。自己をならうとは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるいふとは、自己の身心、および侘己の身心をして脱落せしむるなり。−正法眼蔵・現成公案

この「万法」とは「自然の法則」であり、もちろん私たちの得ている「いのちの御霊の法則」ではありません。しかし私たちも自分を忘れて身心脱落するならば、いのちの御霊の法則に証せられるわけです。禅学の大家鈴木大拙は「わしはイエスが覚者であることは分かるが、聖霊と言うものはどうしても分からん」と言った。ここに禅者とキリスト者の違いがあります。

再建主義者はこのいのちを見ていないので、あくまでも廃棄されたモーセ律法の適用となるわけですが、私たちはこの法則に乗るのであれば、孔子も言っているとおり、

七十にして、心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず

となるわけです。手離しで自転車を走らせるようなものと私は喩えていますが・・・。

One Desire

地上の幕屋に制限されている現在,その制限のゆえにパウロですらうめきをもっていたが,ひとつのことを願っている。それは一度でもいいから真に自己から離れた,セルフレスな礼拝を捧げる経験を得たいと言うこと。

Lord, I'd like to worship you solely for what You are, apart from and denying myself.

真の礼拝

今のキリスト教界を見ていると、自分の必要の満たしのための礼拝、教会生活、学び、奉仕ばかりである。救世軍の山谷氏が指摘されていたが、米国のメガチャーチの成功の鍵は、あらゆる必要の満たしの設備とスタッフをそろえて置くことだ。

ここにあるのはまず神を拝する事ではなく、自分の問題解決や必要の満たしを得るために神を拝すること。つまり神を手段としている。すべての判断が「自分にとって」に基づいている。自分にとってやさしく、自分にとって益になり、自分にとって満足を与える者がGOOD。

これは特に心を病んでいる人たちに言えることであるが、彼らは自己の確立が不明確であるために、絶えず自分を受け入れ、自分を認め、自分を評価してくれる存在を求めている。この期待にこちらが沿っている間は、「Dr.Lukeは素晴らしい!」なのだが、いったんその期待をはずすならばエライことになる。お分かりになります?すべての基点が自分にあるわけ。

かくして教会ジプシーがあちこちをさまよい、様々の噂を流しつつ、このギョウカイを混乱させていく。本人自身も真の満足を得ることができないので、フラストレーションをさらに発散しつつ、悪循環に陥る。

真の満足や真の喜びは自己を離れる時に味わえる。礼拝を自己実現の手段とすることがないように。礼拝はただキリストにあって、キリストのため、キリストの満足のためのもの。自分にとってどうか―このような幼児性から一歩踏み出す必要がある。

しかしセルフ・オブセッション(自己がすべて)の今日このようなメッセージはあまり好かれないだろう。現代に主が地上におられたら、多分言われるであろう:「今人気がない者は幸いである。天において神の心を勝ち取るからだ。」

ホリエモンばかりでなく、私たちもすべてをゼロクリアして初めの一歩を踏み出す必要があるようだ。

どうも東大出身者は・・・?

TVでかつての東大生山崎氏の光クラブ(高利貸業)、江副氏のリクルート、そして今回の堀江氏のライブドアと、歴史的な大経済犯罪事件を解説していた。キリスト教界でもある人が東大は偏差値教育で歪んだ連中が多いからだと言っていたが、ちょっと、ちょっと・・・と私などは思うのだ。確かに東大出身者が派手にして複雑な経済犯罪を起こすことはあったでしょう。が、彼らは東大出身者のごく一部の連中なのだ。統計的に見て、他の大学出身者と東大出身者の間に優位な差があるかどうか、きちんとサンプリング調査をしてから結論付けて欲しいもの。

どうも何でもかんでも偏差値教育の歪みとする人たちは、偏差値に代表される学歴に対して何か屈折したコンプレックスをいだいていますね。偏差値は実に便利なひとつの物差しなのだ。われわれはそれを利用するが、縛られてはいない。事実私などは偏差値から見たら東大合格可能性は40%だったのです。

牧師なども世の価値に縛られないとか言う人ほど、実は学歴とか社会的地位に対するコダワリを抱いているもの。実はわれわれから見るとこの手の人はすぐに分かってしまう。ニッポンキリスト教界の妬みや嫉妬などの陰湿さは、世で得られなかったものを補償的にこのギョウカイで得ようとすることによるのだろう。真に貧しくあることを喜こべないのであれば、世で大いに儲けたらよかろう。真に低くあることに満たされないのであれば、世で学歴も社会的地位も大いに得たらどうだろうか。このギョウカイでジメジメとくすぶっているよりはよほど健全であると思うのだが・・・。