最近の日記

サーバーへのアタック

掲示板に一連のおかしなカキコが連続してなされたようです。どうもIPを自動的に変えつつカキコするソフトでのアッタクのようです。サーバーはファイヤウォール、ワクチン、スパイウェアの監視ソフトを常駐しており、今のところ検出されていませんが、念のため皆さんも対策を怠ることの無いようにお願いします。

このサイトの扉ページを開くとポップアップが開くとの報告を受けておりますが、そのようなおかしな現象に遭遇された方はぜひご連絡ください。私はあすドッグですが、サーバーも一度ドッグする必要があるかも知れません。

Dr.Lukeの一言映画評-ナルニア国物語-

ご存知C.S.ルイスのファンタジー。子供たち4人がナルニア国に入り込んでの冒険物語。でも、これが聖書の話の焼き直しであるわけ。その国は魔女によって支配されており、魔法がその国の住人を縛っている。そこにアスランというライオンが現れ、魔女の誘惑によって裏切り者となった少年の身代わりとして、自ら石の舞台に縛られて、悪の家来どもになじられ、いたぶられつつ魔女に殺される。

しかしその死を目撃して悲しむ二人の少女の前でアスランは復活する。すると石の舞台は砕け、魔女によって氷付けにされた者たちも、アスランの吹きかける息によって生き返る。アスランは言う、「善なる者が裏切り者のアダムの子に代わって死ねば魔法の力は失せ去る」と。かくして最後の戦いの場面でアスランは魔女を滅ぼし、赤い液体(アスランの血?)を飲ますと魔女に刺された少年も癒され、アスランと共に凱旋し、彼は4人の子供たちを東西南北の王・女王として立てて、自らは旅に出ると。最後に「目を覚ましていなさい」とのメッセージ。

お分かりになりますよね。

 アスラン=キリスト、
 子供たち=アダムの子孫、
 魔女=サタン、
 魔女の手下=諸霊たち、
 魔法=この世の霊力
 石の舞台=律法

映画としてはあまり大したこと無い。『ベン・ハー』の方がはるかに福音的で、深みがあります。終わりの場面は『スターウォーズ』(1作目)を思い出してしまった。『スターウォーズ』もオビワン・ケノービがダース・ベイダーによって打たれ、フォースの世界に生きる者となり、ルークに対して「自分の目に頼るな、フォースに頼れ」と言うわけで・・・。最後は凱旋場面で終わるのですが、ソックリでした。

ちなみに『週刊文春』の映画評でも「幼稚・ちゃち・つまらない。大人の鑑賞に堪えない」と酷評されていました。聖書を知らない人には、何でいきなり復活するのか、息で生き返るのか等など分からないことばかりでしょう。まあ、この手のファンタジー物は私的にも苦手かな。私の年齢になりますと、人間の「実存的生(生きること)」を深く鋭く暴き出す作品(ex.山崎豊子作品)に惹かれるのですね。

転換点

今日発表のCPI(消費者物価指数)がプラスだった。これで日銀の量的緩和策が解除される条件が整ったわけで、その時期をめぐって思惑が錯綜している。株式市場はそれを織り込みつつ、上値の重い展開となっており、今日もダウン。要するに量的緩和を解除すれば金利が上昇するから、理論的には株は下がる。

さらに円高へ誘導され、輸出産業へはマイナス。輸入にはプラスとなるが、それ以上にオイルは上がっている。だいたいオイルが上がり出したのはアメリカのイラク侵攻以来であり、誰かが必ず儲けている。そもそもCPIが上昇しているのも、原油高による部分が大きいのであって、今回のCPIプラスから直ちにデフレ脱却を宣言できるものであろうか?

タクシーの稼働率も上昇しているらしいので、確かに景気は上向きであるが、どうも庶民の生活実感と統計値はずれている。中流が上と下に分かれ、年収300万以下の人たちが増える中で、ジニ係数がマスコミでも取り上げられるようになったが、金は、実は余っているのだ。日銀の当座預金残高は量的緩和策で30兆を超えている。コール金利はゼロ。問題はその余った金が、どこに、どのように流れるかにある。金はその使い方が実に難しい。人を生かすための使い方が実はなかなかできないのだ。

と、わが税金の使い道を気にしつつ、そろそろ確定申告をしなくては、と思う時期であります。昨日部屋を片付け、今日は新学期の講義のシラバス原稿を入れ、月曜日は人間ドッグ、そして確定申告と。それが終わればもう3月も半ば。何と日の経つのは早いこと。で、4月にはめでたく50を迎えるわけで。まさか自分が50になるなんて思ってもいなかったが・・・。私も人生の転換点です。

では、これから家族でカルビ焼きを食べてまいります。

やっと・・・

わが部屋の片づけが8割方できました・・・。ここに至るまで、かなりつらかった・・・。でもね、けっこう気持ちがイイ♪

PCはXPを再インストールして、何とか安定しているかと思っていたら、今日また突然ブルー画面が出てダウン。何かのドライバがミスマッチしているらしいが、分からない。嗚呼、欝だ・・・。

 人生、勇気が必要だ。
 くじけりゃ、誰かが先に行く。
 歩いて行くんだ、しっかりと。
 自分の道を、さあ、歩め・・・と。

水戸黄門って、けっこう聖書的!?

 * * *

日銀の量的緩和策が転換期を迎えている。CPIの具合で4月にもこれを解除するらしい。すでに金利はそれを織り込んでじわじわと上昇してきている。日銀は低金利策を堅持すると言っているが。すると住宅ローンにも反映されるわけで、私もこの6月の金利見直しが気になるところ。国債は下がるわけで、すでに未消化分が出ている。これで郵貯が自由化され、350兆がアメリカに流れるならば、誰が引き受けるのか?1300兆の個人資産に匹敵する借金が積み上がっているわけで、オイルも確実に上がっており、貿易黒字も減少している。さあ、ニッポンの舵取りはどっちに向かうでしょう?ここしばらくはちょっと目が離せません。

信じることとは?

昨日のようなことを語ると、また質問が来るのですね、「私は自分が本当に信じているかどうか、分からないのです。どうしたらわかるのですか?」。嗚呼、もうアカン・・・涙。

使徒信条を「一、われは・・・を信ず・・・;二、・・・」とやったところで、それは信仰ではない。それは教義だから。実際、正教からすれば、プロテスタントも異端であって、プロテスタントの使徒信条は認めていないわけですから。再建主義からすると私はクリスチャンではないわけで・・・。

では、クリスチャンって何なの?信仰は頭で一連の体系化された神学や○○信条を信じることではありません。その「方」とひとつになることです。英語では"believe"と"believe into"とありますが、前者は対象を客観的に信じること。後者は対象とひとつになってしまうこと(into)。

「私は何をすべきか」とか「私は信じているのだろうか」と問いを発したときに、すでにその「方」を対象化(客観化)している。森の中に入ったら、その森自体は見えません。見えるのは1本1本の木々です。森の中にいて、果たして自分は森の中にいるのだろうか、と誰も問いませんよね。そのようなオツムのグルグル回りに客観的な回答を得ようとして、不毛な努力に陥る人があまりにも多い。

主は私たちのうちにおられ、私たちは主のうちにおり、こうして父と子がひとつであるように、私たちもひとつになること。これが信仰。そして信じた者は自らのわざをやめて安息に入る、ピリオド。アーメン。

はい、以上で質問は打ち切りです!

ご紹介-「事」ではなく「方」-

私がある意味でウンザリしていることは、「クリスチャンとして私は何をすればよいですか。自分は何をすべきか祈ってもよく分からないのです」と言う問いである。私は率直に言って、こう思っている:「私はあなたの主ではないから、私に分かるわけないでしょう」。

きょうemiさんのBlogを拝見したら、ホッとすることが書かれてあった。実にうれしくなりますね。「神の御旨を行うために、私たちは何をすればよいですか」と尋ねる弟子たちに、主は「神が遣わされた者を信じることだ」と答えられました。

「私は何をすべきですか?」との問いには実は自己が隠されている。自己を受け入れ、自己を認めてもらいたいと言う動機が巧妙に隠れている。自己から解かれることをメッセージすると、「どうしたら私は自己から解かれるのでしょうか」と尋ねられ、そろそろめげて来ていたので、ほんと励まされます:

              −源へ−

何かのメッセージがあった時、私たちの反応として、「では、私は何をすればよいのか。」という問いは、ある意味、見当違いなのでは、と思う。間違いではないとしても、かなり遠回りであり、ともすると、そこからでは目的地へは着かないかもしれない。

そのメッセージの源である方を知り、愛し、その思いを知りたい、似た者になりたい、という方向に導かれない限り、すべては応用不可能なバラバラな事柄であり、そこからどんな実が得られるのだろう。

(中略)

御言葉を読むとき、その中に自分のなすべきことを探す以上に、書かれたお方を探したいと思う。

民主党の行方

おぼっちゃまたちなんです。東大出て、大蔵省からすっと政治家になった人は、要するに人が良すぎるわけです。ニッポン政治界は一筋縄ではいきませんし、道理や高邁な理想で動くわけでもありません。これはニッポンキリスト教界も同じ。真理や神の御旨で動いているのではありません。裏と言うか、実際に動かしているダイナミクスは何だか同じのような・・・。私も永田氏とけっこう同じようなものでして、このギョウカイではとてもではないが、やれません、としみじみ。

キリスト教界って・・・

BBSで正教と福音派の対話をご紹介いただきまして、私もざっと目を通してみました。とても面白かったのですが、困ったことは、ICHIROさんも言っておられますが、用語がよく分からない。「奥義」を「機密」としていたり、「聖霊」を「聖神」としていたり、人名も発音が相当に違っています。

まあ、それらのテクニカルな部分はおいといても、自分たちは使徒直伝の正統な教会(オーソドクス)であり、福音派は1500年以降に出たものであって、初めから存在していなかったではないか、と。さらには、私たちから見るとカトリックとどこが違うのかもよく分かりませんが(聖霊の発出処が問題らしいですが)、カトリックは邪教的なものを入れて異端化していると。これは逆も言えるわけでして、正教のいわゆる聖伝なるものが何なのか、私たちには異物混入と感じられて、カトリックとあまり変わりないではないかと思えてしまうわけです。

BBSにも書きましたが、一言でまとめれば、カトリックは「自分たちはもっとも普遍の教会である」と、正教は「自分たちはもっとも使徒伝承の教会である」とし、福音派は「自分たちはもっとも聖書信仰の教会である」とするわけで、さらに聖霊派が出てきて、「自分たちは聖霊を知っている教会である」とし、これがまた異言をめぐってペンテコステとカリスマがあるわけです。さらに再建主義なるものが出てきてモーセ律法で教会を再建すると、さらにそれぞれの中は細かく分かれ、互いに相手を異端・カルトとレッテルを張り合っているわけで・・・。

私などもカルト教祖にされたり、ヒューマニストであってクリスチャンではないと断罪されたり、異端だとのラベルを貼られたりと、ニッポンキリスト教と関わってからと言うもの、目が点になるめくるめくような経験をたくさんすることができたわけですが(汗)、改めて、いやあ、一言、何なの、キリスト教界って?

主は言われたはずです:

わたしは、もはや世にはいません。・・・わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。・・・父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。

世が神を知ることは、しるし・不思議でも、立派な"油注ぎの器"でもなく、ひとつであることによると書いてあるのですが・・・。それは教義や実行の一致ではありません。いのちを知ることです。なにぶん私などは悲観主義ですから、クリスチャンメディアなどが"リバイバル"の音頭を取ったり、アメリカあたりの立派な"預言者"たちが"大リバイバル"のラッパを吹けば吹くほど、遠ざかりたくなります。彼らは果たして何を求めているわけ?

聖書はいのちの書ですが、文字で触れるとキリストの体をバラバラにするもののようです。霊は人を生かし、文字は殺す、とあるとおりです。私的にはキリスト教界を離れて、この世で主と静かに交わることにしましょう。

キョウビの若い娘ときたら・・・

最近の若い娘さんは包丁の持ち方も知らず、下手をするとハサミで野菜を刻む輩もおるようです。親の顔が見てみたい・・・と、少々憤慨しておりましたら、うちの長女の話。「あのね、パパ。今日J大学病院の実習で栄養教室の先生に缶詰を開けといて、っていわれたの。でもあたし、缶切りどうやって持ったらいいか分からなくて、開けられなかった。先生が呆れたよ。ははは・・・」。いましたね、キョウビの育て方を間違った親が、ここに・・・(^^;A

手放すこと

フィギュアを見ていて感じたのは、スルツカヤなどは荒川のことを意識して練習していたが、荒川はひたすら自分のものを出し切ることだけに集中していた。自分と対峙していた。彼女自身、天才少女と言われて、人に流されていた自分から一歩を踏み出したと言っている。あの練習風景を見ていても、荒川が勝っていたことが分かる。

本番でも他人のスコアを聞かないようにヘッドフォンをしていたが、これで彼女は心を騒がせることがなかった。人を一切寄せ付けない中で、ただ演技に没頭した。結局勝負は人ではないこと、自分と対峙し、自分の何かを十分に注ぎ出せるかどうか、これがすべて。自分に対して自分がどう関わるか。相手は自分なのだ。

クリスチャンも同じ。人と比べ、自分の不遇を嘆き、人の責任を問い、神と人からただ受けようとし、自分の満足だけを求め、自分は決して損をしたくない、傷を受けたくない。これが現今のキリスト者の貧しさ。物や人や神を消費するだけのキリスト者。前に花見酒の経済の話をしたが、互いに互いの資産を食い潰すだけになっている。

その中心にあるのは、強烈なエネルギーを蓄積した自己(Self)。「明け渡し」も自己責任を負いたくないところは「あなた任せ」、自分のものとしていたいところはけっして手放さない。かくして問題を抱え、あくまでも神と人の責任を問い続け、消耗する。自分を省みて、自分を手放せば、よほど楽になれるのにと思うのだが。

表情台の荒川はただ金を取っただけの輝きではなく、自分から解かれた解放感を漂わせており、ほんとうに美しかった。

荒川静香の舞い

実に美しかった。日本女性もここまで来たかと。コーエンやスルツカヤにまったく遜色なく、むしろ彼女たちを圧倒するオーラがありました。鶴のような気高さを感じますね。感動をありがとう、と言いたいです。

(影の声:同じ静香でもK氏とはえらく違うなとか、ふと思ってしまった・・・)

村主はミスはなく、表現も豊かだったが、伸びというかダイナミクスさがいま一だったか。2,3位は転んでいるのに、彼女たちに勝てなかった。

美姫ちゃんは4回転失敗で、後は頭が真っ白になってしまったようですが、観客が「ありがとう!」と励ましていた光景にも感動でした。こういった高貴な交流は人を生かしますね。キリスト教界ではあまり見られない人と人の関わりです。彼女は精神的な不安定さがありますから、あまり期待したり追い詰めると、プッツンする可能性があります。拒食症や過食症などになり得ます。彼女のペースで成長させてあげたいです。

サーバー不調のため

本日のメッセージとワーシップのWeb上での公開ができません。あすまでお待ちください。FTPサーバーは正常ですので、そちらからはダウンロード可能です。FTPクライエントで次のユーザー名とパスワードで入ってください:

アドレス: kingdomfellowship.com
ユーザー名:common
パスワード:kfc

なお、ファイアウォールを通過できないときは、passive modeにして下さい。詳細は、メニュの「公開FTP」のお知らせをご覧ください。

やらねばと思いつつ・・・

わが部屋を片付けないと、と思いつつ、つい先延ばしだ。それも新しく作ったAthron64ビットのPCがエラーでクラッシュするので、何とかしようと2週間ほどもがいているが、Microsoftのデータベースにもfix法がない。これが尾を引いて次のことに手が出ない(と言い訳をしている)。しかし、いつクラッシュするかハラハラしながらPCに向かうのも何とも不安感がつきまとって気持ちがよくないもの。64ビットCPUはまだ不安定ということだろうか?ビデオなどの編集に特化しようと考えているのだが。

 * * *

花粉症がそろそろ・・・・。年中行事のはじまり。

GOT IT !

今朝はなぜか5時代に目が覚めて、フィギュアを見てしまいました。安藤は4回転失敗。荒川は欧米の選手と比べても身体も貫禄も遜色なく、ある種の風格がありました。向こうではアジアン・ビューティとされたようですが、演技も感動もの。あまり感情も出さず、淡々としているところがまたいい。で、金。たったひとつのメダルが金というのもカッコいい。