最近の日記

アメリッポン

アメリカ軍の移転で3兆円。米軍と自衛隊も融合する模様。日本国憲法も曲がり角に差し掛かっている(→記事)。いっそのこと大和魂は捨てて、アメリカの属州化した方がいいかも。

デザイン・チェインジ

私の好きなジーンズです。家では作務衣ですが、大学ではジーンズ、チャペルでもジーンズ。いつもジーンズです。

学生との対話

セミナーで昨今の経済状況についてディスカッションした。と言っても双方向にならないのだが・・・しょぼん。しかし一人、私に刺激を受けてFXに関心が出たと言い出した学生がいた。

FXとは「外国為替証拠金取引」のことで、要するに外貨の信用取引。手持ち資金が小額でもレバレッジを効かせることが可能。つまり保証金を入れて、その何倍かの取引ができる。もちろんゲインも大きいが、リスクも大きい。この信用取引のルールと、追証や、建て玉(ロングとショート)、さらに株における板の見方などを説明した。かくしてこの学生をダシにしてけっこう楽しい時間を過ごせた。

おい、学生諸君、もっと欲を出してくれよ・・・。株を勉強すると絶対世の中面白くなって、いろいろな興味が出て、勉強する意欲が出るから!(と、これはオタク化したニッポンキリスト教徒にも言いたいかな?)

律法の廃止は地獄を招く

再建主義ではどうしてモーセ律法にこだわるのか、実に不思議だったのですが、富井さんの次の主張を読んで理解できたような感じがします:

--以下引用--
神を否定し人間だけでやろうとすると地獄が来る

今の流行の神学では、「新約時代に、キリストにあって、旧約律法はすべて廃止された」という。律法が廃止されたと聞いて、何か解放感を感じているならば、大きな間違いである。神の法がなければ、人間の法がやってくるからである。
「神に縛られずに人間だけでやっていく。なんて自由なんだ!」
1917年まで、人々はこのような感想を抱いていた。しかし、実際に人間だけでやっていく社会がどのように過酷なものであるかをロシア革命やそれに続く社会主義革命が教えてくれた。それまでは、神の超越法によって、人間の恣意的な支配が抑制されていた。しかし、革命によって神を廃位させた結果、もはや、統治者のわがままを抑えるものは何もなくなったのだ。
毛沢東のもとにおいて、万人に鉄の生産が命令された。農民もだれもみな鉄を作った。農業や自分の仕事がおろそかになり、社会は大混乱した。「神の法なんていらない。人間の法でやっていく!」と叫ぶと、人間は自分の首をしめることになるということを歴史は証明した。
--引用修了--

共産主義のソ連や中国の悲劇も律法がなかったからだと。モーセ律法の廃止はただちに混沌を招くと言うわけです。う〜ん。旧い律法は廃止されたことはヘブル書のとおりでして、それに代わって新しいいのちの御霊の法則が導入され、内には栄光の希望であるキリストが存在論的におられることを知れば、こういった恐れからは自由になるのですけどね。彼の真剣にして必死な生き方には少なからぬ共感を覚えるものです。

日本の教育の病理

東京裁判を知らない人7割。20台では9割。かなりヤバイ。これでは韓国や中国にかなうわけがない。(→記事

ますますクラゲみたいな茫洋とした、焦点の定まらない国になるだろう。三島由紀夫の予言のとおり。

精神保健学の講義

毎年7-800名の学生に教えている。精神医学のごく基本、精神分析理論による精神病理を話すのであるが、自分でもよく飽きずに話しているものと・・・。と言うのもネタが尽きないからだ。毎年犯罪は増える一方であり、しかも質も年々悪化する。コワイことはそのような事件が起きてもあまり驚かなくなってしまっていること。感受性の磨耗が起きている。これはその度に敏感に反応しているならば神経が参ってしまうために、感性の閾値を上げることによって防御するメカニズムがあるため。要するに、たとえると、「面の皮が厚くなる」わけ。

最近『脳内汚染』と言う本が出た。パソコンゲームやインターネットに曝されているうちに脳の中にある種の「汚染」が生じ、人を殺すことなどに感受性を覚えなくなるメカニズムを説いている。アメリカの軍隊では実際にゲームで殺人場面に何度も曝して、実際場面でも殺人に対して抵抗を覚えなくする訓練が行われている。大脳は刺激に対して慣れるのだ。

クリスチャンも同じで、徴だ、不思議だと、その刺激になれるうちに、真の主の声に対しては感受性を失う。かくして聖会だの、油注ぎの器だの、預言者や使徒だのをおっかける一種の依存症に陥る。私もニッポンキリスト教界と触れる中で、クリスチャンと称する人たちの実態や、病的な人々による種々の出来事に否応なく巻き込まれるときに、目が点になることを味わってきたが、元々気の小さい私が、徐々に慣れてきていることに気がつく。これはちょっとやばいかも知れない。無益な情報や刺激からは意識的に離れる必要がある。

かくして講義で毎年、これからますますわけの分からない事件が起きるよ、と「予言」しているのであるが、ニッポンキリスト教も今後ますますわけの分からない世界になるだろう。クリスチャン・メディアで取り扱う記事や売れ線の本を見てみれば、現状がどうであるかは明らか。どなたがBBSでも言われたように、このような偏向した刺激に慣らされていくわけで、その結果にこわさを覚える次第。リバイバルどころではなく、サバイバルの問題なのだ。

1年の1/3が終わり

早いものです・・・と、しみじみ。

私は今週からほぼ6週間、土曜日も休みがなくなり、<月月火水木金金>状態です。ちょっと気合を入れなくては。

私も逮捕されるか・・・

偽造建築事件で、不正に気づいて告発したイーホームズの藤田社長が架空増資の容疑を認めたとのこと。要するに会社設立や増資の際、他から金を借りてきて、それを資本金に繰り入れた形を取った後、すぐにその金を返済する経理操作のことだ。「見せ金」とも言う。

実は何を隠そう、私も有限会社のオーナーなのだが、設立の際は実質的にはこの手法を使ったのだ。親から借りるなどして手当てするのだ。つまりこの手法はよく使われる手法なのだ。下でも言ったが、実質大赤字のアメリカなどはまさにこの手法でやっているではないか。

今回彼が告発したから、明るみに出たのだが、しばしば告発者は自らが傷を受けるもの。雪印の牛肉の不正輸入を告発した倉庫会社の社長は今極貧の状態にある。果たしてこの容疑で彼を逮捕して、彼がそれを認めて、今回の偽造事件の本質的な解決になり得るのか。もともとは国が持っていた審査権を、いわゆる規制解放の方針にのっとって、民間に下ろす際に制度上の不備があったわけであろう。リバータリアニズムの主張する国家機能は最小にして、個人(民間)レベルですべてを処理することの無理が露呈したわけだ。

どうも今回も官僚がきわめて責任を回避する術に長けていることだけが証明されるような予感がする。それはメンドーなことに首を突っ込むことを避ける「見ざる・聞かざる・言わざる」を助長するだけとなろう。

格差社会は悪くない!

『文藝春秋』で竹中氏が「日本人よ、格差社会を恐れるな」と論じていた。私は彼の主張はけっこう理解できるのです。再建主義の富井氏も、元キャバ嬢の太田議員の負け組みゼロ社会の実現政策を、例によってこき下ろしている。しかし、実は私も彼とまったく同意見なんですね。勝ち負けがあるから社会は成立するのです。主ご自身が、持っているものはますます豊かに、持っていない者は持っている物までも取り上げられると言っておられるのですから。小学校の運動会で手をつないでゴールとか。アホか、と私も思うわけです。

富井さんはソ連の末期症状をごらんになったようで、この手の社会主義的価値観には相当のアレルギーがあるようです。が、再建主義の価値観を究極的に推し進めると、実は「社会的ダーウィニズム(適者生存)」になるわけです。進化論の根本思想ですね。これがリバータリアニズムです。(有神論の再建主義の理想社会モデルと無神論的リバータリアニズムの社会モデルが同一に成ることの指摘は救世軍山谷少佐の考察によります。詳細はこちらを)

憐れみに満ちた神は敗者復活と言うか、負け組みに対するケアを下さる方です。貧しい者、能力のない者、弱い者に対する配慮があるわけです。もちろん今増えている「働かない落伍者」は自己責任でやってもらいたいですが。で、実は、この世のほうがある意味で健全化されており、今のニッポンキリスト教界こそが、まさに富井さんの言われる偽愛に満ちた社会主義状態なんですね。自己責任で自分の救いの達成を心がけない人が多過ぎます。

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい

ユダの福音書

今話題のNational Geographicの『ユダの福音書』の記事を読んでみた。

エジプトで発見されたこの写本。要するにキリストの肉体を滅ぼすことにより、キリストの内なる神を解放するために、ユダはイエスから特命を受けていたと言うわけ。イエスはユダに対して言う「その任務を果たせば、他の弟子たちからは裏切り者扱いされるだろうが、私に忠実であれ」と。ユダがえらく英雄視されている。

5月に封切られる『ダ・ビンチ・コード』にせよ、最近やけにこのような路線物が目立つ(私は冒涜とか叫んで目くじら立てるまでもなく、エンターテインメントとして楽しんだろ)。私たちは普通「聖書のみ信仰」を標榜しているわけだが、クリスチャンと言っても、カトリックやギリシャ正教では使徒伝承だの、聖人の言葉などが重んじられ、聖書66巻だけと言うわけではない。現に共同訳には外典がついている。福音書にしても20種もあるそうで、私たちとしては神の主権によって今の4福音書に整理されたと理解しているわけである。が、どこで線引きをするか。まさに信仰が問われるわけ。

そもそも聖書66巻だけのクリスチャンの間においてすら、主の再臨をめぐり、あるいは律法の取り扱いをめぐり、まったく正反対な説があるわけ。う〜ん。まあ、普段はあまり気にしないでいるわけだが、このような機会に当たり前としていることについてちょっと祈るのもいいかも知れない。

ところで、かのホリエモン氏が保釈された。1,200Calのダイエット食でえらくスッキリしてしまった。私も見習うぞ。その彼も、かつての忠臣宮内氏の供述調書を読んで「俺を売る気か!?」と憤慨しているようだ。まさか、それは太り気味ホリエモンにダイエットさせ、健康にするためである、とか言う『宮内の福音書』なんて出てこないとは思うが・・・^^

文藝春秋五月号から

ドル大暴落が始まる−『東西逆転−アジア・30億人の資本主義者たち』(NHK刊)の著者プレストウィッツ氏と国谷裕子氏の対談。財政赤字と貿易赤字で苦しむはずのアメリカを下支えしているのは日本からの資金。個人資産が1300兆あると言っても、大半はアメリカに。で、まず戻ってこない。GDPは5%成長予測。ダウも6年ぶりの高値更新。絶好調のアメリカ景気・・・のはずが、実はドルがきわめて危ないところにいるとの警鐘を鳴らしている。

今回も米軍再編に伴って3兆円の資金を日本から取り付けたアメリカ。で、貢君状態の日本。日本が自立して米国債を売却し、保有外貨をドルからユーロなどに移せば、ドルは一発で大暴落をするわけ。前に橋本氏がちょっと脅したことがあったが・・・。アメリカ人は赤字なんのその、他の国から還流する金の上にあぐらをかいている。これからは中国が10年程度のスパンで日本経済を追い越し、アメリカが中国頼みとなるであろうとの予想。つまりアジアの時代に入ろうとしているのだ。

イラク戦、牛BSE問題や基地移転に見えるとおり、アメリカの独善的自己中心はほとんどビョーキですね。幻想的世界に閉じ篭って自分勝手な論理を妄想的に膨らませている自己愛性+分裂病質人格障害です。私的には小泉氏のコメントを聞いていると腹が立つ。米国債を売り払うぞ!と一発言える政治家はいないのか!

その他、われらの昭和30年−例の『三丁目の夕日』の世界であり、何とも懐かしい。日本はどっちだ−今後の日本を占う、等々。いつもどおりなかなか面白い。

偽装建築事件

ついに別件ながら関係者が逮捕された。被害者の立場は十分理解しつつも、企業の論理の中で翻弄された姉歯氏については、なんとも一抹の哀れを感じる。仕事をなくし、妻を亡くし、家族を亡くし・・・。この世的にも罪を清算する中で、霊的にも彼が主に出会うことを祈る。

触覚の短い学生たち

本日のアドヴァンスト・セミナーでは昨日の株価の大幅安の原因について論じ合った。原油価格高騰による米国経済の失速懸念から金利上昇が抑えられ、日米の金利差が縮小するため円高になり・・・と、言いたいのだが、学生はまったく関心なし。株価が500円も下がることの意味どころか、下がったこと自体知らない。経済は「風吹けば桶屋が儲かる」の世界なのだが、その論理の連鎖が追えない。テレビも観ない、観てもギャグ連発のお笑い系。新聞は見ない、見てもテレビ欄のみ。

とにかく彼らの状態は一種の分裂病の陰性症状状態。周囲に対する関心がほとんどなく、自分の肌すれすれの事態に対してしか反応しない。ある面で不気味なのだ。ガラスのケースに入った人形のようなもの。彼らという存在に触れることができない。現実から引きこもっているわけ。何が楽しくて生きているのか。何を目的に生きているのか。まだ彼方此方でペチャクチャしている学生たちの方が健全だ。

これは実はクリスチャンも言えることで、自分の問題や信仰のあり方にとらわれている人格障害傾向のある人たちの雰囲気とソックリなのだ。関心は自己のみ。自己に触れることには過敏に反応するが、それ以外のものにはまったく関心を示さない。かくして神学の仮想世界にはまって空回りをしているオタク・クリスチャンも、わが学生も同じ匂いと雰囲気を醸している。

人間金儲けに関心を示さなくなったらほとんどビョウキと言える。社会は金の動きで理解できる。しかし彼らはアンテナが短く、世界が自分を中心としたほんの半径1bの世界。ニッポン社会もニッポンキリスト教界もこれからこういった病的傾向がますます顕著になるだろう。30歳を超えたヒッキー(引きこもり)が母親を殺して遺体を解体し、煮たり焼いたりしてゴミと一緒に捨てるといった事件がフツウに起きてしまう現状。カナリ寒い・・・。

サイボーグの可能性

立花隆の『プレミアム10』。マン・コンピューター・インターフェイスによって、脳とマシンを直結することにより、機械を脳が感覚のある肢体としてコントロールできるようになるわけ。かくして人間とマシンの境界線が消失する。

すると問題となるのは「自己」とは何か。少なくとも今私がこうして文章を書いている私の手は、マシンに置き換えても、「私の手」と成り得るわけ。目も人口眼球に置き換えられる。内臓も・・・とやっていくと最後は脳が残る。これを取り替えたら私が私ではなくなる。ここで養老先生の『唯脳論』となるわけ。しかし私の大脳とまったく同じネットワークとファンクションを持つICチップができれば、私はそのチップの中に生きることができる。現に人口海馬(脳の記憶装置)チップはすでに完成されている。

が、このような見解は、脳と霊の関わりを一切考えないサイエンスの世界の話。脳は電流と化学物質によって動作するが、では自由意志も物理化学現象だろうか?実は今日の講義でココを話したのですが、私たちの意志はどこから生じるのか。もし物理化学現象であれば、偶発的な電流の発生や、分子運動論的な化学変化によることになってしまう。

すると脳が自然界を理解することは、物理化学現象が物理化学現象を理解することになるわけ。もっと言えば自然界の法則自身が、自分自身を理解することになるわけで、これは明らかにおかしい。ユング派の河合隼雄氏が、主観的世界はサイエンスでは解明できないと言っていたが、鏡がなければ自分の顔を見ることができないのと同じこと。つまり自分の脳を理解することは、自分の脳自身には不可能なのだ。

また彼は自己(意識)の本質は「インテグレーション(統合性)」にあると言っていたがこれはまったくそのとおりと。分裂病などはこれが壊れるわけ。昨日の人格障害などはこの統合のあり方が歪んでいるのだ。

かくして脳の情報信号を取り出して、それによってマシンをコントロールすることはできるであろうが、そのマシンをコントロールする意志を作り出すことはできない。意志は物理化学の世界の外に存在するから。ここで魂と大脳の関わり方のメカニズムがどうなっているのか、つまり意志を持ったときに大脳に電流情報が生じるわけで、私たちの意志は物理化学的世界と関わることができる。その接点がどうなっているのか、私はこれを知りたい。

創世記2:8において、神は体をチリから造り、霊を吹き込むこと、人は生きる魂となったとあるとおり、霊と体の接点として魂が生じたわけだが、その接点のメカニズムはいぜんとして解明されていない。物質界と霊的世界の関わりは現在のサイエンスでは取り扱われていないが、私が今もっとも関心を持っているテーマである。