* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
バルコニーでちょっとくつろいで、これから風呂に入ります。バルコニーからの何気ない光景のショットを撮ってみました。何の変哲もない日常こそがシ・ア・ワ・セなんですね^^いずれ私も盆栽を・・・。
また金曜日の午後のひと時、iTunesのJazzでまったりしております。しかし日の経つのが早い・・・。
昨年10月16日に村上ファンドが気に食わないと書いておいたが、今回ついに特捜部が入るようだ。彼はどうもどこか病的な感じがしますね。目がおかしい。価値観がただ金だけ。自分のコンプレクスの裏返しとして金で成り上がっているような印象。特捜部が動く以上、逮捕でしょう。
主はやはりこの世の王でもあります。「再建主義」社会を作らなくとも、主は検察を用いてご自身の義を実現することができるのです!でもね、富井さんも言っていますが、例の放置自動車の民間人による摘発はちょっとご遠慮。窒息社会ができてしまうでしょう。遊びが要るのです。再建主義は厳格なモーセ律法の適用と説くのに、このようなテーマでは私と同じことを語る・・・不思議なのです。意見が一致する部分がかなりあるのですね。
最近は11時には寝ている。遅くとも11時半。12時を過ぎると睡眠の質が変わってしまうので、同じ時間寝ても体調が違う。さらに寝る前に各種ヴィタミン、特にB群とCをタップリ摂って、ホットミルクにグラニュー糖を溶かして飲む。何故かこれが熟睡を誘い、朝の目覚めが爽快感を伴っている。(いや、単に歳のせいだよとの声もあるだろうが・・・)。かくしてこの休みなしの6週間もあと1週間ちょっと。
実はこれ、かつての同僚(といっても顔をあわせる程度だったが)の著作。話的にはいつもどおりのエキセントリックな発言の数々で面白いが、やや論理が飛んでいる。彼はもしNASAが実際に月に人間を送っていることが判明したら、今後一切の筆を置くと宣言してしまった。で、これがト学会の日本トンデモ大賞を受賞。さて、さて、彼はいったいどうするんだろうか?
いつも車に乗っており、つい歩いていない。するとどんどん歩くのが億劫になってくるわけ。目的地に到着することがすべてになって、途中がすべて無駄のように感じられて、カットしたい衝動に駆られるのです。これ、かなり危険な兆候。
で、最近はお昼を学内で調達しないで、あえて往復40分歩いて、丘の向こうにあるファミリーマートで調達しています。キャンパスを離れると道の両側は竹やぶで、鶯が鳴いている。今日のような天気の日はまさにウォーキングにピッタリ。いろいろ思いを巡らせつつ、祈りつつ、かくしてけっこう気持ちのよい汗が経験できるわけです。もちろんお昼はカロリー表示を確認しつつ・・・です。
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最近私の知り合いの方が心臓の発作で62歳で亡くなるとか、映画でも認知症をテーマにしたものがあったりで(渡辺謙さんの作品は身につまされそうで観るのがややこわい)、私もメタボリック・シンドロームの懸念や物忘れの度合いがちょっと増しているので、あまり人事でないのです。その日に向けて備えるべき時期なんだなあ、とカミさんと話しているわけです。
ウェイトが順調に減ってきています。空腹感と言うより、飢餓感を克服するのにグラニュー糖がいいことが分かりました。食後に満腹感がないとイライラしてつい甘い物をつまんでおりましたが、グラニュー糖を飲むとこれがピタリと止まります。非常に満足感が得られ、甘い物がまったく不要になります。これは大脳がグルコースを必要とするからなんですね。脳は全エネルギーの20%を消費します。これまで何度かダイエットが途中で失敗したのですが、今回はいける!かつて30台半ばにウエイト62`、ウエスト73aの頃もあったのです。これを目標に・・・。
(写真は恥ずかしいので引っ込めました・・・汗)
これらは区別がない方がよい。橋田先生的には「仕事をしている時も、遊んでいる時も、同じ心持であるべし」となるかな。区別する心が苦痛を生むわけ。生と死を区別すれば、死は恐ろしい。人間の苦悩は善と悪を知ってしまったこと。この二元論的世界に生きること、これが苦悩のルーツである。歎異抄の親鸞の言葉に次のようにある:
みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ、さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まうすところの念仏をも自行になすなり。
要するに善悪の二元論に生きることは、法則の不思議に頼らず、自分の心のやりくりに頼むことであり、自力の業である、と言うわけ。まさにクルシチャンの精神状態だ。かくして親鸞の結論は 弥陀の誓願不思議に助けられて生きることが極楽浄土への道であると。聖書的にはいのちの御霊の法則に助けられまいらせるわけ。これが神の国に生きるコツ。道元もこう言っている: そしてわれらの主はこう言われる: 鍵は自己を忘れ、自己から離れること。心身脱落・脱落心身。弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の魂の命(原語)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために魂の命(原語)を失う者は、それを救うのである。
合掌(あ、ついに使ってしまった・・・)
次女がiPodを買ってきて、インストールをしてくれとのこと。iTunesは私も使っているのが、iPodは初めて。実はiPodには因縁があって、チネチッタでルーレットゲームの景品にiPodがあるのだが、これが何度トライしてもダメ。すでに相当の額を投資しているも、取れていないわけ。
で、インストールしたものの、使い方が分からない。散々あれこれいじってようやくiPodに音楽を取り込み、音楽が聞こえるようになった。若い頃は新しい機器のマニュアルを読むのが楽しみだったが、最近はオジサン化しており、目がきついし、読んでも分からん。特にケータイのマニュアルは絶望感しか生まれない。世の中便利になっているのか、不便になっているのか・・・。
かつてのジーン・ハックマンの出世作『ポセイドン・アドヴェンチャー』のリメイク版『ポセイドン』。ウォルフガング・ピータセン監督。主演カート・ラッセル。
映像ははるかに進歩するも、思想性はあまりない。前作では牧師が最後に「神は何人殺したら気が済むのだあ」と叫んで自己犠牲的に死ぬわけですが、今回は十字架のペンダントが危機一髪の脱出を可能とするとか、娘とその恋人のために父親であるカート・ラッセル(『エグゼクティヴ・デシジョン』の頃からすると老けたなぁ)が自己犠牲によって救いの道を開く。このプロットはブルース・ウィルスの『アルマゲドン』と同じ。
内容的には薄いが、水に限界まで潜る場面が多く、こちらもつい息をつめて観ており、相当に苦しい映画であった(ふぅ〜)。
センター試験でマークシートを記入ミスした生徒の処理をどうしているのか、私自身もマークシートで採点する場合があるので、長年疑問に思っておりました。受験番号や学籍番号をミスすると採点ができないのです。
ちなみに私は教育的配慮から(^^)、私のところに問い合わせてきた学生については、マークシートの山(800枚)から自分のを探し出してもらい、そこで学生自身に採点させるわけです。通っていれば、修正報告してあげると(微妙なやさしさだ・・・)。
さて、センターの場合は・・・、何とミスしたものはできる限り本人を特定して、センターの方で対応してあげていると・・・涙。これが23年前から行われているとのことでした。
私は共通1次もない時代で、東大には独自の1次試験があったのですが、理系でも社会2科目なんですね。でも英数国理で十分取れるので、社会は過去問を調べた結果、4択で「2」の正解率が統計的に有意に高い!で、本番では・・・。これで通ったのどかな時代だったのです。共通1次だったらダメでしたね。
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今日はようやく砂漠の中のオアシスで休みが取れました。午前中はプールとサウナ、午後は映画『ポセイドン』を観る予定。
禅的生き方をした人物はあらゆる分野におられる。東大医学部生理学教授の橋田無適(邦彦)先生もそのお一人。わが師が学生時代に同師の正法眼蔵講義を聴講したと言っておられた。橋田先生はつねに、「研究室で研究している時も、家にいる時も常に同じ心持ちであるべし」と教えておられたとのこと。医学的には人間をパーツのアッセンブリーと見るのではなく、一個の統合体として診ることを教えられた。これはキリストの体=エクレシア=についても同じ。しかし時代の流れは過酷なもの、最期は自決された(こちらをどうぞ)。先生の教えを端的に表す言葉がある:全機。すなわち如(タタター)。けだし名言である。
午前の講義を終え、昼食を取り、iTunesのジャズを聴きながら、6階の窓から外を眺めつつ、コーヒー片手にゆっくりしております。
救世軍の山谷氏が道元の正法眼蔵についてうれしいコメントを下さった。正法眼蔵を知るクリスチャンはこの業界になかなかおられない。うれしくなったついでに、また一言。
禅には大きく分けて臨済禅と曹洞禅がある。方法論的にやや違うのだが、目指すところは同じ。「当たり前は当たり前」。「即心即仏」。「花紅柳緑眼横鼻直」。ちなみに鈴木大拙が鎌倉円覚寺釈宋演の元で得た見性の発語は「肘外に曲がらず」であった。
臨済禅では公案を用いるが、『碧巌録』第三十九則に「雲門花薬欄」という公案がある。
挙す。僧、雲門に問う、「如何なるか是れ清浄法身」。門曰く、「花薬欄」。
(注:花薬欄とははばかりの前の植え込みのこと。)
もっとすごい公案になると、
僧問う、「何是仏(仏とは何ぞや)」、曰く「カンシケツ・・・」。
(注:「カンシケツ」とは「糞かきベラ」のこと。中国にはトレペなどはなかったのだ。)
パウロは言っている:貧に書する道、富に処する道を知り、すべてに満足することを知った―キリストにありて。
今の自分を自分勝手な幻想と比較考量することがすべての不満のルーツ。自分に絶望するならば、キリストにあって足るを知る。まさに「肘外に曲がらず」だ。
またまた本日は疲れております。これから風呂に入って、ビールをと・・・。
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ご質問いただきましたが、私はいわゆる万民救済論を唱えておりませんので、そこんとこヨ・ロ・シ・ク(しばらくぶりだ・・・)。禅ではもちろん永遠のいのちは得られません。
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あの秋田の事件はやはり意外な人が犯人のような感じですね。田舎は人が朴訥としてイイとは言えないようです。かつての音羽の事件と同じ臭いがします。それにしても悲劇です。
禅にはまっていた私が何ゆえにクリスチャンになってしまったのか。不思議な因縁(仏教用語ですが)がある。私が若い頃薫陶を受けた師(ご自身もカトリックの洗礼を受けておらられる)は内村鑑三の子息内村裕之教授主催の東大精神医学教室の出身。また先生の旧制高等学校時代の漢文の師が秦慧玉師であり、後に永平寺の76世の住職(明峰慧玉)となられた。この師から私は多くを学んだが、見事にキリストと禅が提示されていたわけ。当時は気がつかなったが、この方との出会いも主の御手にあったことを、今自分が50を迎えて深く覚えている。そして今そのわが師は97歳。大往生の日も近い。