最近の日記

わが希望の灯^^

本日は仕事。来週からと思っていたので、あやうく穴を空けるところ。御霊の促しでセーフ。で、疲れたので一言だけ−

今エリシャがいたら同じように感じるであろうが(?)、わが希望の灯がついに・・・涙。早く実用化を・・・笑。

人を動かすもの-ミーム-

ここで紹介されたベニーヒン・ビデオを御覧になって、どうしてこんな人物に酔う人々が多いのかと不思議に思われた方も多いと思います。実は精神病理で「フォリ・ア・ドゥ(folie a deux)」と言う病気があります。直訳すると「二人狂い」。別名「感応精神病」とも言われ、簡単に言えば、ひとりの病気(妄想など)が他の人へと伝染するわけです。「三人狂い」ならば「フォリ・ア・トロア(folie a trois)」と・・・。かくしてこのような妄想などの病理を共有する集団が出来上がるわけです。

この媒介をするのが「ミーム(meme)」と言われるもの。オックスフォードの生物学者リチャード・ドーキンスが80年代に提案した概念で、一言で言えば、「思いの遺伝子」(もちろん物理的な存在ではありません)。ドーキンスによると、心の中の情報単位であり、その複製が他人の心の中にも作られ様々な事件に影響を及ぼしてゆくもの。病気の人たちの間での妄想共有ばかりではなく、カルトでの共同幻想・妄想や、世の中の噂話や流行、世論の形成など、このミームが飛び交うことによってあるひとつの流れが形成されていくわけ。
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高専女子学生殺人事件

おそらくこの少年、彼女を独占したかったのではないだろうか。両親は「太陽みたいな子だった」と言っているが、この少年にとっては眩しくて手が届かなかったのだろう、この手段を取る以外には。保護する必要がある。

切ないことです

酒酔いの暴走車に追突されて海に転落。3人の子供を失ったご夫婦の様子に違和感を覚えた人も多いと思う。奥さんが「子供たちは写真の中に入っただけで、前と何も変わっていない・・・」と、笑顔でいる姿。そう、彼女にとってはまだ子供は生きているのだ。

おそらく彼女の中では否定(事実を認めない)と分離(感情を切り離す)が行われているのだろう。こういった被害者がよく口にする言葉は「実感が湧かない」というもの。心が壊れてしまうような感情が湧きあがる場面ではこの感情を置き去りにする。そしてこの置き去りにされた感情が深いほど、心の癒しには時間がかかる。

今後、このご夫婦がその事実に直面し、その感情を折々に経験しつつ、その事実を自我の一部として統合し得るときに真の癒しとなるが、それまでの道のりを思うと気が遠くなる感じを覚える。一方の加害者も普段は悪い人ではないのだろうが、こうなると極悪人扱いされ、彼の両親もこの事実を生涯負わなくてはならない。こちらも厳しい。むしろ彼の両親が自殺などの形にならないように配慮する必要があろう。

酒と車・・・。そしてそのタイミング。何とも言葉がない。

神経験を阻む者は誰か

下の『国家の品格』において、西洋人と日本人では大脳の使い方が違うことを指摘したが、日本人にとって哲学や神学が「小学生にダブルのスーツ」となる理由もここら辺にあると考えている。だから、私はこういった議論には巻き込まれたくはない。

鈴木大拙は対象と自己の間に隙間のない経験、あるいは客観と主観が未分化の経験を「即非の論理」と表現した。「AはAにしてAにあらず」。臨済禅の公案と同じ。アリストテレス的論理学では決して理解し得ない。大拙の盟友であった西田幾多郎は「多即一の絶対矛盾的自己同一」と表現した。一方科学はこの主体と客体を分離しようとするが、その物理的実在ですら、例えば電子は波動にして粒子でもある。物質自体がド・ブロイ波として波動なのだ。かくしてミクロの世界では客観的観測自体が成立し得ない。客観と主観と言う概念が意味を失うのだ。
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やれやれ・・・

それにしてもこの妄想男は人騒がせなこと。ジョンベネちゃん事件は振り出しへ。この男、目つきが明らかに変。分裂病者などのこういったおかしな雰囲気をプレコックス感と言うが、キリスト教界にはけっこう多い。妄想持った人たちは最近はネットやゲームの影響でますます妄想を膨らませます。正常世界へ妄想者の世界が介入することにより、波紋を引き起こす場面が今後さらに増えるでしょう。西側世界にイスラム世界が入り込むようなもので、一種の"文明"の衝突とも言えます。特にキリスト教界はそのリスクが高いのです。

 * * *

温泉を探している。この時間がまた楽しいのだ^^

『国家の品格』読後感

アップロードファイル 49KBさっそく買って読んでみた。藤原氏が講演会で話したことをまとめたもので、1時間ほどで読める。内容はと言えば、先にふれた『学士会』での論考と『文藝春秋』での論考のまとめ的内容。ご本人も「話の半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷」と言う意見があることをことわっている。

で、結論は−どうも私も白痴と呼ばれそうな予感(汗)。基本路線では同意。日本古来の「情緒と形」を重んじるべしと。私的に言えば「情緒」が形化されたのが「道」である。桜の散り際が命であると。もちろん彼は真の神を知らないし、罪の問題への言及もない。が、ローマ書にあるとおり

たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

の意味における自然人としてのあり方を言っていると私は感じる(下手をすると再建主義との議論が再燃しそう・・・汗)。
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香の話

私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

と言う聖句はお馴染みであるが、私たちは無意識のうちにある種の香(物理的にしろ霊的にしろ)を放っている。香と言うと富良野のラベンダーなどをイメージするが、臭いと言うとやや不快な気分がする。家や車なども特有の臭いを放つが、そこにいる本人には分からない。

で、今、中年男性の間で食べると薔薇の香りが体から発散するガムが大流行とか?ギャルから「オジサンは臭〜い」と言われるところの加齢臭対策だそうだ。実際私も大学のエレベーターで年配の先生が出た後に入ると「うっ」と来るもの。逆に気にし過ぎて、病的になると、神経症の一種で自己臭恐怖症があるが、この人たちは外出もままならなくなる。

私はと言うと、面白いことに脇の下の匂いがなぜか甘いのだ!どうも芳香族系の酸が分泌されるようで、なんとシャツが融けてしまう!?講義をして汗をかくとプーンといい香りがしてくるわけ(自分の体臭をいい匂いと感じるのもアブナイかな?)。それでも一応グランドマリン系のコロンはつけている。若い連中を相手にしているので、「くさ〜い」とは言われたくないという中年男の気持ちはよっく分かる。

・・・はたして地上におられた時のイエスの放つ匂いはどうだったのでしょうか?

亡国の書-『国家の品格』?

アップロードファイル 6KB前に数学者の藤原正彦氏の論考を参照してある論説を書いたことがあるが、今回BBSでご紹介いただいたエゼキエル氏のBlogで同氏のベストセラー『国家の品格』が酷評されていたので驚いた。

この方は私と同様に実名をもってネットで批判や主張を繰り広げておられる方で、その主張には大いに耳を傾ける価値があると感じているが、藤原氏を「白痴」とまで言われているので、かなり驚いている。藤原氏の言う感性とか情緒についてやや誤解されている部分があるのかなと感じている。数学者の情緒は相当に普通の方のそれとは異なるからだ。厳密な論理の上にある研ぎ澄まされた情緒だから。

個人的なことを言えば、藤原氏の父上は新田次郎氏であり、私と同郷の諏訪出身。高校は諏訪清陵高校。私はその格下の高校だったが^^同氏の彦の兄が気象学者の藤原咲平氏で、実は喘息と気圧の関係などの気象医学の創始者でもある。私もお弟子さんにお世話になったことがある。というわけで、藤原氏に対してはやや思い入れがあるわけ。

ただし、読まずしてこれ以上語ることはやめておこう。私は天の邪鬼なのでベストセラーもすぐには読まない。人々が忘れ去る頃にこっそりと読むことにしているのだ。

再度タイムスリップ

アップロードファイル 55KB午前中はプールとサウナ。午後は6時から昔の仲間との会食。場所は前にご紹介した日本橋たいめいけん。この人たちはかつて禅を追求した時代の仲間であり、私の青春の一コマ。クリスチャン化したのは私ひとりで、やや異端児なのだ。久しぶりに会った人もいて、いやあ、お互いにオツムがかなり淋しくなったり、白くなったりで、それぞれにいい歳の取り方をしておりました^^

メンバーはと言うと実に多様で、CPA(公認会計士)、製紙会社の社長、某大出版社K社の元局長など。それになぜかM.D.(医師)が多く、ひとりは産婦人科病院の経営者(助産婦問題はクリアできているとか・・・?)。他に今回の幹事を務めて下さった癌研のドクターなども。それぞれ身の上話をしつつコース料理を堪能し、ひとときの話しに花が咲いた。しかしいろいろ考えておくべき課題も与えられた。

マスターの茂手木さん、出血サービスを感謝でした。たいめいけんは凧の博物館があり、テレビでもよく紹介されるが、今度ナイアガラの滝で凧を揚げてくるとか・・・。主婦の皆さんにはこちらのレシピをご紹介します。

次会は11月と言うことで、またそれまでダイエットし貯めをしておかなくては。

にごり湯とコミック

アップロードファイル 23KBにごり湯百選』(山と渓谷社)。ジョッギングを終え、風呂から出たところ。冷たいビールが沁みる。私はかなりの風呂好きにして、特にある時期を置くと禁断症状のように温泉が恋しくなる。で、つい手にとって買ってしまった。紹介にあるとおり、眺めているだけでワクワク気分を味わうことができる。病んで倒錯したニッポンキリスト教はちょっとご遠慮だが、ひなびた温泉に入るとき、嗚呼、日本人で好かったぁ・・・と、そのクオリアに包まれて心底幸せを味わう瞬間。この28日にて結婚24年目に入るので、これを口実にして、ちょっとふらっと・・・^^

        * * *

20世紀少年』−時代背景の郷愁も誘って、実にはまる。たかが漫画、されど漫画。手塚治虫で育った私にとって、漫画は立派なメディアのひとつなのだ。ついに"ともだち"は正体を隠したまま、死んで復活し(!)、世界の救世主として崇められるに至る。"ともだち"の真実を知る者たちは反逆者・テロリストとして排除される。大衆はものの見事に"ともだち"を崇拝し、彼に従う。ヤクザあがりの神父なども登場してきたが、う〜む、この物語ってキリスト教界でもよくあること。

アップロードファイル 20KB欺かれている人たちは、自分が欺かれていることに気がつかないし、また指摘されても決して認めない。それが自分自身と一体化されているため。こうなると行き着く処まで行くしかない・・・。主は「あなたがたは何をどう聞くかによくよく注意せよ」と言われたが、信仰はあくまで自己責任。今日、"預言者"を自称する者が多く現れていることは周知のこと。しかし主はこう言われる:

わたしのひつじはわたしの声を聞き分けて、わたしに従う。

関連してこんな本もある。「何か変・・・」と感じつつある人たちに一読をお薦めする。

さらに奇々怪々

われらをじさんは幼少のみぎりより、太陽系の惑星をもて、水金地火木土天海冥と覚えおりしが、なんとちかどころにては惑星、さにあらず。その数をもて、9個から12個、いや8個と学者のうるさき論争にいふ。

と、頭を悩ましをりしが、くわへて「ワニは魚なり」との決議がなされたり!嗚呼、われらをじさんの固くなり、忘却の容易なりしオツムもここへきてつひに窮せり・・・。

基督教界に人の神にならんといふ"預言者"もをりしが、ひとの目玉を傘で突くものなど、目の点にならん事、この暑き日々にありてうちつづくなり。つれづれなるままにそこはかとなく書き連ねるに、わが心ものぐるをしけれ。

SNSデビュー?

アップロードファイル 133KBちかごろ都に流行るもの、われもしてみんとてすなるなり。その名をもてSNSといふ。そーしゃる・ねっとわーきんぐ・しすてむ。聞き及びしに、かの美国にては参加せしもの1億人。すめらおのわが日の下の国にてもmixiなるものがあるよし。

とかくわれらをじさんにはわかりかねつる世界なりしも、「ともだち」を求めよと、かの学士会われに勧めるなり。わがデビューせしSNSといふは、ありがたくもかしこくも、なんとその名を「東大OB.NET」。亀田にならひて「どうじゃあ!」。

と、心はやりつつ入りしが、何をどうせしものか不明なり。われらをじさんには名簿にて住所電話をしらべおり、手紙をしたためるか電話すなるが容易。さては奇々怪々なる世界のあることを知らん。はたして「ともだち」はいかほどつくりべかりしに・・・。

(写真は駒場東大前駅のカンバンといふ・・・)

ペレルマン氏フィールズ賞辞退

孤高の数学者ペレルマン氏がポアンカレ予想を解いたが、40歳までしか受けられないフィールズ賞を辞退したとか(→記事)。彼の数学の動機は金や名誉ではないのだ。こういった世離れした人は数学界にはかなり多い。私の友人にもひとりアブナイのがいるが。

多様体におけるポアンカレの予想と言われても、私もこの分野はさっぱりだが、なぜ私が数学にはまっているかと言うと、数学は脳のどこに存在するのか不思議だからだ。日本で受賞された小平邦彦先生は「仏師が木材の中にすでに存在した"仏"を掘り出すように、数学も掘り出されてくる」と言われたが、その感覚はすでにあったものに形を与える作業と言える。

イデアがどうのこうのと哲学的形而上学の話にするつもりはなく、数学と言うもっとも美しい構造体がどこに存在するのか。大脳生理学的には、ニューロンのネットワークとシナプスでの神経伝達物質の作用が脳の機能となるわけで、すると数学もこの電流と化学変化のあり方として存在することになる。

数学者は「何か」を「見て」いると思われるが、彼らの見ている対象はどこにあるのか。しかし一方で岡潔は「数学は情緒である」と言っている。つまり感情・感性の作用があるわけ。

聖書的には魂(psyche)の知性(nous)と物理化学的存在である脳の相互作用が起きているわけ。「私(ego)」が意志するとき、物理化学現象が生じる。この接点がどうなっているのかも不思議な点である。創世記2:7に

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息(霊)を吹き入れられた。人はこうして生きる者(原語では魂)となった

とあるとおり、体と霊の相互作用で魂が生じているのだ。この記述などは実は現代の大脳生理学や精神科学から見ても実にすごい本質的なことを語っているのだ。

ウォッチマン・ニーや彼のルーツであるペンルイス、さらにペンバーなどもこの辺りを考えていたようであるが、残念ながらサイエンスとして表現されていない。あるいはサイエンスになり得ない領域なのかもしれないが。

(影の声:私もノーベル賞を辞退してみたいが・・・^^)