* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
土曜日午前中は日テレの『ぶらり途中下車の旅』をもう10年以上いつも楽しみにしている。前にも書いたが、人が生きている温もりを感じる番組なのだ。手作りの、とても儲からないような商品を売っている店とかを見ると、心の底からホッとする。
その後いつもどおりプールとサウナ。この施設もかなり年季が入っており、オジサン・オバチャンが実に多い。もう92年からの付き合いだが、なにしろマイコースを持てるわけ。ささくれ立った壁とベンチのサウナもほとんど独占状態^^(→こんな話題もありましたね)。煌びやかな新しい施設もあるのだが、何か無機質な感じで私は好まない。
安倍さんが統一協会の聖会(?)に祝辞を送ったことは前に話題になった。脱カルト協会のMLで回ってきたのだが、今回は何と山崎氏が統一協会ルートで北朝鮮を訪問したとのこと(→有田芳生の『酔醒漫録』)。ワシントン・タイム紙は統一協会系のメディアなのだが、その社長がお膳立てをしたらしい。統一協会はアメリカの福音派あたりにも金を提供することによって食い込んでいるらしいし、かなりしたたかなのだ。
今回の「パワー・フォー・リヴィング」など、どうも金に物を言わせる伝道のあり方は、私的にはとても違和感を覚える次第。福音は対面の人から人への手渡しであるべきと言う古い固定観念にいまだに縛られているわけ。手作りの温もりと言うか・・・。
『ぶらり途中下車の旅』のように、ぶらぶら歩いていると人と人が主の摂理の中で出会い(サウルとサムエルの出会いのようにかな?)、その関係の中で主が語り出され、いのちが伝達されていく。私はこんなコツコツとした、草の根的な福音を願っている。大きな聖会で自分たちの力を誇示する必要もないし、大きな教団や組織を作る必要もない。カバリング教会をアチコチに抱える必要もない。2,3人が単純に主の名によって集まるだけ。油塗りがなくなったらさっとたためばよい。お互いの関係の中に主がおられ、主のいのちと互いの生を共有すること−これが教会なのだ。
昨年末の事件については、私の知人でもアーサーのバイク・ミッションに入り、アーサーを真似て刺青を入れ、妻と娘を置いて失踪した兄弟がいましたので、他人事とできない部分があるのですね。彼はバイク・ミッションのサイトの写真にも出ているのですが、最近ようやく居所が分かってきたようです。それで前々からアーサー・ホーランドや松沢さんのメッセージを時々拝聴しておりました。
まあ、彼らはいわゆるニッポンキリスト教の牧師たちの金太郎飴説教とはかなり違いますし、本音をぶつけ、愛と人情にも溢れ、確かに人々を惹きつけるでしょうね。対する私などは、愛がなく、クールで冷たく突き放されると感じられる人が多いようでありますが・・・(反省)。彼らの、「神学校なんか出ててもろくな者になりゃしない」とか、「ジーザスは好きだがキリスト教は嫌いだ!」、には少なからず同感なのです。
しかし、故人をあれこれ言いたくはないのですが、一言だけ言わせていただきますと、彼らは危険ですね。それは彼らの教えなどが危険と言う意味ではなく、彼らが危険な場所におり、また危険なことを無自覚にしていると言う意味です。盲腸しか切ったことのない外科医が肝臓を切るようなものでしょうか。あるいは放射能のある場に防護服なしに出るようなもの(霊的領域では皮ジャンは役に立ちませんし、クサリでは悪魔は縛れません)。下に書いたような人々によるマニュピレーションに、その情の熱さゆえに容易に振り回されてしまうのです。つまり彼らはあまりにも無防備であり、裸同然です。
松沢師のメッセージもイエスに対する愛と人々への情があると共に、内側に自己破壊的な衝動がしばしば感じられます。おそらく自分でも制し得ないモノがあることを薄々感じておられたのでしょう。また説教の特徴は、感情には訴えるのですが、御言葉がほとんどない。神学などいらんと言いつつ、旧約ではこうだ、新約ではああだと言ったややこしいこともいらん、とまで言ってしまっています。御言葉によらず徒手空拳で闇の勢力に裸で立ち向かってしまわれたような今回の印象ですね。
フロイトは晩年、人間性の本質はエロスとタナトス(自己破壊的死への願望)と指摘しましたが、まさにそれらを感じさせる事件でした。遺族と成増教会の皆さんは今きわめてつらい時期と拝察しますが、主の慰めと新しい道が開かれることを祈ります。
アベニバラバラ・・・と言う歌がかなり昔流行ったとおぼろげに記憶しているが、なんじゃ、これは・・・最近のバラバラ殺人事件。以前から現代は自己の病理の時代と指摘しているが、歯医者の息子も、白百合女子大卒のセレブ様も、医学的には自己愛性人格障害、あるいは古典的用語では情性欠如の精神病質(サイコパス)あたりと診断されるだろう。彼らの価値観は自己がすべて。ここでも何度も何度も書いているが(→たとえばコチラ)、この手の人格障害者にとっての現代は実に力を提供する。ネットではあることないこと、傷ついた自己の鬱憤を晴らすことができる(→粘着の精神病理@、A;日本人の病理とITメディア)。かくして仮想的全能感と共に、妄想を膨らませることは前に指摘した(→存在の薄い自己の病理)。
「2ちゃんねる」のような現象が起きるのはまさにこの病理の兆候であるのだが、ここへきてさらにその表出がカゲキになってきているわけ。死体をバラすと・・・。歯医者の息子も妹をバラすやり方を見ると、単に死体の処理をしただけではなく、その作業の間はある種の自己愛の満足を覚えていたのだろう。何もできなくなった対象に対して全能感を覚えたと推測される。白百合女子大卒のセレブにおいても同じ。自分を認めてくれなかった夫が完全に無力となり、彼女は思いのままに自己の全能性を発揮できた。遺体を処理するだけならば、もっと別の捨て方があるし、彼らの捨て方にはある種の自己の力のデモンストレーションの意図を感じる。
かつてイギリスで起きた切り裂きジャック事件のようなケースでは(最近も類似の事件が起きているが)、たとえば女性に対して不能である男が女性を弄ぶひとつの形があのような殺人手法となる。自己の不能によって受ける自己価値の低下を代償的に満たす試みなのだ。これは「2ちゃんねる」あたりでネチネチとネットリンチを行う連中も同じ。彼らは深刻な低い自尊心に縛られているもの。しかしもちろん彼らの覚える全能感は仮想的なものであり、決して実質的に満たされるものではない。
こういった人格障害傾向をもつ人々は、キリスト教界ではきわめて多いが、彼らは実に闇の勢力に用いられる傾向を持つ。精神科病棟でもよくあることだが、患者がアチコチを回っては医師や看護師の悪口や風評を流して回り、病棟の運営に障害が起きる事例がよくある。彼らは実にもっともらしく嘘(彼らにとってはリアルなのだが・・・)を語り出し、被害者を装い、人々の同情を買い、人々をマニュピレートする。
そして昨今、世でもキリスト教界でもこういった人々が目に見える形の事件を起こすフェイズに入ってきたことを最近強く感じている。図らずもこれまで私が予測している通りになってきている、否、私の予想をはるかに越える速度で現実は進んで来ている。テレビでも歯医者の息子の事件については和田氏がしどろもどろでコメントしていたが、彼に深い同情を覚える次第。自己愛の病理と仮想化の病理―これが現代なのだ。
と題する記事が今週のTIME誌にあった。方やオックスフォードの進化論者リチャード・ドーキンス(このBlogでも何度も紹介しているが、例の『利己的な遺伝子』でミームを提唱した学者)、方や国際ヒトゲノム計画の代表フランシス・コリンズ博士。彼はクリスチャン。
ドーキンスはひたすら物質界での現象を積み重ねるならば神の不存在を結論すると主張し、生物の巧妙なデザインなどもすべて進化論的に説明できるとする。コリンズは科学と信仰は矛盾しないとし、進化論では、例えば人の高度なモラル性を説明できず、その価値観の源である時空間の外に存在する神を認める必要があるとする。・・・と言うわけで、いつもどおりのすれ違いの議論が延々と続き、ややドーキンス側から人格攻撃も・・・と危ぶまれたが、TIME誌が介入。で、両者の最後の言葉が面白い:
コリンズ:ドーキンスの主張する自然科学の見解には同意する。が、私は25年以上に渡って科学者また信仰者として生きてきたが、科学では私たちがなぜ存在するか決して分からない。私はこの解答を霊的領域で見出した。しかしこれは私が科学者として妥協することでは決してない。
ドーキンス:私は私の提示した説明で自然界のデザイン性も自然定数の調和も十分理解できると考える。もし神がいるならば、神が降りてきて十字架で死ぬと言った事件はとても彼の壮大性にふさわしくない。それはあまりにも偏狭である。神がいるとしたら、これまでの神学者が提示した神よりももっとはるかに大きくかつ理解し難い存在であるだろう。
科学と信仰。私にとっても何ら矛盾なく収まるのですが。むしろ矛盾し対立するのは、科学と神学であろう(心あるサイエンティストは躓きの石イエスに躓く前に、キリスト教神学でつまづくでしょうね、やれやれ)。そして私たちの信仰の核心はここにある。
神が肉体を取られ、人となったこと。
そして最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと
これを啓示するのは血肉ではなく天の父である。
大下英治著『欲望銘柄』。あの「投資ジャーナル」の中江滋樹や誠備事件などをモデルにしたと思われる、株の仕手筋の物語。株式相場が裏でどのような仕掛けの中で相場が作られていくか、迫真のドキュメント。ニッポンキリスト教のわけの分からない事態に巻き込まれる時にはこういった本がイイ。頭がリフレッシュされるから面白いもの。皆さんにも教会でメンドウにして疲れる事に関わる時には、ぜひこんな本をお薦めします^^
今日の日経紙一面はみずほ証券と新光証券の合併話。これで預かり資産業界4位の31.5兆円となる。下に紹介したキリスト教界の弱体化対策も一致によって結集すること。すると数十名の弱小教会は互いに合併し―これがなかなか大変でしょうね、どっちがどっちに吸収されるかで主任牧師がどっちになるかとか・・・(汗&笑)―かくして千人ニ千人、いやもっともっと一万人二万人のメガチャーチとなって、この世に対して"証し"するわけだ。
究極には再建主義のように憲法をモーセ律法に基づいて書き換えて、神聖政治を行い、地を支配する。これが神に委ねられたキリスト者の任務であると。かくして地球上にはキリスト教国家、あるいは教会国家があちこちに築き上げられ、それぞれメガネイションとなるべく、小さな国家はまた互いに合併し・・・。う〜ん、これは壮大なストーリーではある。が、しかし、どこかこわくないでしょうか?こう言われた主イエスに似つかわしいでしょうか?
わたしの国は地上のものではない。・・・野の花を見よ、栄華を極めたソロモンもそれほどに着飾ってはいなかった。
ローカルチャーチに、クリスチャン・トゥデイに、何とかデモス財団に・・・と。年始早々忙しくなりましたね(苦笑)。このギョウカイ、どうもわけの分からんことが多発すると前々から言っておりますが、わけの分からん団体も竹の子状態。私の願いは山小屋に引き篭もることなのですが、いつになるのでしょう・・・(遠い目で)。
どうも解せませんね。今週の木曜日に会談を予定しておりましたが、社長の高柳氏から延期の依頼が入りました。何でも証人が多過ぎると・・・。何というか勝手なもの。こちらはそれほど暇人ではないのですよ。
それにしても実におかしいですね。自分から山谷少佐に申し込んだ会談であり、自分たちの正当性を認めてもらう意図であれば、多くの証人がいた方がよいでしょうに。どうも訴訟をちらつかせる態度といい、住所の件といい、これまでの高柳氏や矢田氏の態度と言い、限りなく黒に近いとの印象をまたまた深めました。
何を恐れているのでしょう、この人たちは。計らずもローカルチャーチとクリスチャン・トゥデイの両者と関わってしまいましたが、共に同じ病理性と違和感を感知することは先に書きました。高柳さん、ここを読んでおられると思いますので、今一度ご自分を神のみ前で吟味されることをお勧めします。あなたは自分でますます墓穴深くしているのです。
「2ちゃんねる」におけるわがKFCスレッドでは、ローカルチャーチ関係者と思しき人々によるあまり上手ではない工作がなされており(苦笑)、ローカルチャーチが諸機関から正統であると認められたと盛んに喧伝しておるようです。
が、これには裏がありまして、特にクリスチャン・リサーチ・インスティチュート(CRI)については、かつての米国のカルト研究第一人者であったWalter Martin教授亡き後、大いに疑問視されている人物Hank Hanegraaffが、大いに疑問視される手法で所長につきました。彼自身の疑問点はコチラを。
また例えば、85年に名誉毀損訴訟で勝ったとしていますが、これはリーが金にものを言わせて相手が破産に追い込まれ、被告不在の場で一方的な主張が通ったのでした。その時の証人がJ.Gordon Meltonと言ういわくつきのカルト研究者で、サイエントロジーなどがよく証人として使う人物。彼はかつてあのオウム真理教すら擁護したのです。ちなにみ彼はオカルトがかっておりまして、ドラキュラを趣味としています(→コチラ)。当時の新聞記事。
・ロサンゼルス・タイムズ紙
・サンフランシスコ・エグザミナー紙
で、下にも書きましたが、今般、60名以上の福音主義の学者たちが何と公開書簡を送り、ウイットネス・リーの偽りの教えを捨て去り、訴訟による圧力をやめよと求めているようであります。何だかアメリカでは25,000ほどのメンバーがいるようですが、ローカルチャーチもかなりメジャーになってきている印象ですね^^
・ローカルチャーチ情報
・福音主義の学者による公開書簡
昨今のタイタスの検疫事件の様子などを見ておりますと、閉鎖空間(カプセル化)による病理性が増長しており、自らのおかしさに気がつかない(病識の欠如)ようですから、まだまだわけの分からん事件が起きてくる可能性がありますね。日本でもすでにこのような病理現象があったのですから。
爆弾低気圧が日本全土を覆いましたが、今日の富士山です。雲に覆われていますね。
そして年末の都路村のキャンプの映像です。Salt氏の演奏の「おはボン」のハイライトだけ。雰囲気が伝わると思います。ココをクリックして下さい。
クリスチャン・トゥデイ紙にはなぜかウイットネス・リーの著作と彼の『回復訳』の転載があったようですが、この会社、実に不思議です。まさか関係ないとは思いますが、私が同社に財務諸表の提出を求めると記したその後で、銀座の教文館ビルにあったはずの同社の住所が削除されました。会社案内にも住所がない!?普通では考えられませんね。この時期に銀座のビルに入るのですから、資金の流れを知りたくなるのは普通の感覚でしょう?私の友人で公認会計士もおりますので、同社から財務諸表が提出されたら監査を依頼してもよいのですね^^
で、その記事です。ニッポンキリスト教が弱体化し、教会の閉鎖も相次ぐ中、危機感を煽ってこう書いております:
こうした日本の教会の弱体化は、これまでも多くの集会で指摘されてきた。06年11月に大阪で開催された近畿宣教教会会議で同会議委員長の鈴木義明牧師は、「教会同士が対立している段階ではない。今は、一致のとき」であると、教団教派を越えた教会協力の早急な促進を指導者たちに強く訴えた。
大会期間中の決心者が2000人に上った06年11月の沖縄フランクリングラハム国際大会では、大会開催に向けて県内の約150の教会が協力した。教団教派を越えた教会の連帯が、確実な実りを結んでいる。
各地で集会を開きクリスチャン人口1%打破のための具体的宣教戦略を提唱している三谷康人師(日本伝道者協力会役員)は昨年6月に都内であったシンポジウムで、教団や教派の壁による日本のキリスト教界の分散弱体化を指摘した。聖書でも説かれ、ビジネスにおいてもごく基本的な戦略として知られる「弱ければ結集する」という基本方針を諸教会が明確に打ち立てることで宣教が活性化されると提言した。
「会議」だの、「議長」だの、「戦略」だの・・・。何だかかつての学生運動のノリですが、さあ、皆さん、このような論調をどうお感じになります?これは別にCTの責任ではないのですが、「弱ければ結集する」と言う発想。前に私は、今後キリスト教界は互いを叩き合ってうんざりし、逆に統一と合同への流れとなる。これはパワー志向でありメガチャーチへの動きである、とする趣旨の事を何度も指摘していますが、このような流れは果たして聖霊、すなわちイエスを証しする霊でしょうか?この「結集する」と言う発想はどのような霊によるのでしょうか。 そして主からこう言っていただければ幸いです。
私はあえて言いましょう。現在のニッポンキリスト教の惨めさは主の配剤であると。主は主権をもってその状態を許されているのです。それに対して超教派で結集して、1%の壁を打破すると言った発想は人間を主権者とすることでありましょう。前にリバイバル新聞にも日本民族総福音化云々と言った記事がありましたが、私はこういった論調に触れるとビビるのです。怯えを覚えるのです。怖いのです。
何度も言っていることを、またあえて言いましょう。一度この業界は死に体になる必要があるのです。惨めさの極みを通る必要があります。それは神のあわれみです。一切の希望と方法が絶たれる時、完全に自分に絶望する時、神はご自身の働きを開始されるでしょう。人が神を助ける必要も、神を煽る必要もありません。私たちはただ神の主権に服し、神を拝するのみです。
昨日のメッセージでも語りましたが、私たちは今年はますます「主にあって、だら〜」としたいと思っています。主にある安息日を楽しみたいのです。安息日の主をもっと知りたいのです。その時、何かが注ぎ出されるでしょう。ネジリ鉢巻や力のデモンストレーションなどとは無縁の世界にいたいのですね^^。次の願いをわが願いとしつつ:主の家の大庭にいる一日は千日にまさる。私はただひとつのことを願った。生きる日の限り主の麗しさをたずね極めることを。
わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。
ウイットネス・リーの教えとローカルチャーチに関する面白い議論がコチラで展開しています。
いわく
・人は神と混ざって神になるのか?
・人の体にはサタンが住むのか?
・ブレンドされた兄弟たちは秘密組織か?
・タイタス・チューはなぜ検疫されたか?
などなど、他では議論にすらならないような論点が目白押しです。
特にこのページにはドイツの指導者であったJohn Soやリーの片腕で「回復訳」を訳したJohn Ingallsらの証言がアップされています。さらに米国での訴訟の動向なども。ぜひこれらの英語のリソースから情報を得て下さい。彼らの発表にはしばしばウソがあります。私の元にも山ほどの資料があるのですが、翻訳しているものはごく一部です。できるだけ公開しますが、何分時間と体力が追いつきませんですので。
・The Best of The Bereans
フラー神学校などが彼らにお墨付きを与えたとのとことですから(これには裏がありますが)、今後大手を振ってニッポンキリスト教界にも入り込んで来るでしょう。「あなたは神のVIP」と言ったご機嫌取りのメッセージしかできない商売牧師たちはおそらく太刀打ちできないでしょう。
でもね、ちょっと考えて下さい。あなたが東京で伝道し、集会を始めるとします。しかし聖書は「一行政区にひとつの教会」しか認めていないのです(彼らの主張)。するとあなたは自動的に「東京に在る教会」に出向き、彼らからのお墨付きを得てようやく正統な集会あるいは教会を開始できるのです。それは「東京に在る教会」の分家(彼らの言い方)として。しかし23区が独立したら、教会も23に分かれるのです。「渋谷に在る教会」、「目黒に在る教会」・・・と。
かくしてあなたはウイットネス・リーだけに神が与えた終わりの時代の"啓示"に従って、人の体にはサタンが住み、神と人が混ざって人は神になる〜、とリーの『ライフスタディ』や『聖書の結晶シリーズ』などをオウム返しのように祈り読みしつつ教会建造のために正常な教会生活、つまり神-人(God-man)の生活を送ることになるのです。ここでしか正常な霊的生活は成り立たないからです。かくしてカルバリーチャペルのワーシップは若者を堕落させるから回復の詩歌のみを歌い、自分の意見を持っても言ってもならず、ひたすらリーの教えに「アーメン」を唱えつつ、神の回復の御業の最前線を歩むわけですね。たとえ、リーの息子が姉妹たちを性的に陵辱していても、それを放置しつつ。
こうしてついには分裂したバビロンの娘だった諸教会(彼らの言い方)の統一が成就し、ひとりの使徒のカバリングの下、ひとつの教え、ひとつの心、ひとつの実行により、ひとつの教会を建造していくわけです。その"福音"は「あなたはイエス・キリストをあなたの救い主として受け入れますか?」、「はい」。で、次に出るのが「あなたはウイットネス・リーを現代の唯一の使徒・預言者として認め、彼の見たビジョンこそが神の御旨であることを認め、リーの見た啓示に服しますか?」。その裏には、「リーに逆らうことは神への反逆であり、呪われて裁きを受けますよ」と。
さて、あなたはどう答えますか?
午前はプールとサウナ。しばらくぶりで体がシャキっとする。午後は映画。『大奥』−時は七代将軍家継の御世。5歳の将軍を抱えた絢爛たる大奥における代理政権を巡っての権力闘争とオトナの純愛を絡めた作品。あの有名な絵島・生島事件がモチーフ。で、感想は・・・一言、女はコワイ(汗)。中でも池中玄太では健気な少女を演じた杉田かおるはリアルの彼女と重なって特にこわかった。貫禄醸した悪女の中で仲間由紀恵の純情さが際立っていた。でも彼女はゴクセンでも絵島でもまったく同じだなあ。女優版田村正和と言える。
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と、映画の世界ばかりでなく、リアルでも怖い話が・・・(→記事)
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で、もうひとつ。ある方から電話が・・・「ごめんなさい。ゆるしてください。でもゆるされることではないのですが、ゆるしてください・・・」。小生「何のことかなあ?分からないけど?」。「ごめんなさい。本当にすみません。」、小生「大丈夫だから、僕に何をしたわけかな?ゆるすから大丈夫だからね、安心してね・・・」。・・・どうもその方の頭の中で何か事件が起きたようです。やれやれ・・・。