* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
午前中はいつもどおりプールとサウナ。午後はチネチッタで映画−ケビン・コスナー主演、『守護神』。コスナーは『JFK』ではまって以来かなり好きな俳優なのだが、う〜ん、いまいちか。一言で言えば、『トップガン』と『アルマゲドン』を足して二で割った感じ。アクション物にするか、内面の深い葛藤を描くのか、どちらかに焦点を絞ったほうがよかった。
その後LAZONAにまわり、ビッグカメラでパソコン用品の買い物と旨いラーメン。最近ややラーメンにはまり気味。博多とんこつスープ、細直めんでけっこういけた。LAZONAはまだまだ相当に開拓できそうだ。
と再建主義の富井氏が言っておられます。
つまり、新約時代において、律法は、「確立された律法」に変わったというのである。
つまり、旧約時代の律法は無視できるものに変わったという今日のクリスチャン一般が信じている教えとは逆に、聖書は、旧約時代の律法は確立され、バージョンアップした、と述べているのである。
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むしろ、「石打刑をバージョンアップすると何になるのか?」という疑問を呈するべきである。
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「あなたがたは○○と聞いています。しかし、私は言います。・・・しなさい。」
これは、バージョンアップである。新約時代の律法である。
「姦淫するな」というのは旧約聖書の律法である。しかし、イエス・キリストによれば、それは「情欲を持って女を見るものはすでに心の中において姦淫を犯した」という律法にバージョンアップしたのだ。
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ディスペンセーショナリズムは、恵みの時代の人々にとって律法はもはや無効である、という。
そうじゃない。むしろ、厳しくなったのだ!!!
それは発展し、確立された律法に変化した。
だから、石打刑についてもこのように考えるべきである。
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神のこのような戒めを実践するときに、我々は自分が思い描いていた神と、実際の神との違いに気づくだろう。
神は、義なるお方でもある。そして、その神の義は、犯罪者に石をぶつけて殺すことを要求するのである。
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それに気づいて聖書の神観念を受け入れられるならば、あなたは、真のクリスチャンである。
もし受け入れられないなら、あなたは偶像礼拝者である。
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もしあなたが、殺人犯に対して石をぶつけて殺すことができなければ、あなたの宗教とはキリスト教ではない。
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律法は、一点一画たりとも廃棄されていないのだ。律法は、むしろ確立され、不動のおきてとして心の板に刻まれているのだ。
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誰でも石打刑から何かの要素を取り除き、その律法をダウンサイズしたり、劣化させるならば、その人は偶像礼拝者である。
神の義は、故意の犯罪者を石で打つことによって処刑することを求める。
この律法は確立された。この義のおきては、バージョンアップされた。バージョンアップされたということは、「やさしくなった」ということを意味しない。
姦淫が実際的行為だけではなく、心の姦淫も含むというように厳格な方向に変化したように、石打刑も厳格な方向に発展した。
このような考え方をしないキリスト教とはキリスト教ではなく、ヒューマニズムである。
「ヴァージョンアップ」と言う言い方は私の影響でしょうか^^が、どうも通じていないわけです。ニッポンキリスト教界、実に、ほんとにイロイロです。
大学教師も最近ではクラス担任をさせられるのですね。その受け持ちクラスのひとりが3年から飛び級で大学院進学を希望しているわけです。それで担任が推薦書と調査書を作成と言う次第。実はこういった事務書類を作成するのは大の苦手でして、書いては消し、消しては書きで、たった2種類の文書ですが、3時間ほどかかったわけです。
思えば、入試で面接をする時に、高校から上がってくる調査書を参考にしつつ考査するわけですが、高校の先生はまさにクラスすべての書類を作成するんですね。40名分ほどでしょうか。こちらは何気に読んでいるわけですが、自分が苦労すると他人の苦労も分かる次第です。高校教師をしている友人が、普段は事務処理に追われており、むしろ授業が息抜きだと言っておりましたが、分かりますね。ちなみに彼はこの数年うつ病になってしまいました。
教師を管理すればするほど生徒にもけっしてプラスにはなりません。教師は「高等遊民」であるべきと極私的には思っております。しかし、これも時代の風の吹く方向で右から左、またその逆へと言うわけです。
いやあ、驚きました。ジョッギングして帰ってきたら下の投稿を見てしまいました。皆さん、このSala Gratia氏の文面を見て、何かを感じ取ることができると思います。
かつて8年間の裁判で東京地裁に足繁く通ったものです。で、その裁判の進行を少し書いて見ましょう:
まず相手に訴状を届けて、裁判が開始されますと、しばらくは準備書面のやり取りが続きます。互いに求釈明書を交わしつつ、これで論点を明らかにしていくわけです。
論点が明らかになると証拠調べと証人尋問です。ここでそれぞれの論点について双方の証人が証言をするわけです。この時、テレビでの法廷場面ではよく相手の嘘を巧妙に指摘して「どうだ参ったかあ!」と言った感じで白黒を付けていきますが、実際の法廷はあまりそういった場面はありません。むしろ淡々と双方が受け答えしているだけです。
が、面白いもので、しゃべっているうちに嘘は必ず出てしまうのですね。証言台での表情やしぐさ、あるいは言葉遣いなど、「人は心にあることを口が語る」とあるとおりでして。ですから私たちは弁護団に、もっと突っ込まなくていいのですか、と問い詰めるわけですが、弁護士は、いいんですよ、出るものが出ていますから、とニコリ。これが弁護士の腕。そして有能な弁護士は和解率の高い人だそうです。
ココで大切なのはキレイに揃った証拠そのものではなく、証拠を採用する裁判官の心証なのです。『白い巨塔』でもありましたね、柳原医師と里美医師の対質場面。理屈の上では財前側もそれなりのスジができているわけですが、裁判官は柳原証言を採用しない。これが現代の裁判制度です。
先の山谷vsCT会談でもそのことを高柳氏に指摘したのですが、彼はハトに豆鉄砲といった表情でしたね。さて、皆さん、下の投稿から何を読み取りますか?そのうち裁判員制度が開始されますから、私たちも用意しないとね。
昨日はネット異常の追及にのめり込んでカキコできませんでした。結局原因は不明。
で、英国で在庫切れになっていたFaith06がようやく入荷いたしました。すでにご注文いただいた皆さまにはお待たせ致しましたが、数日中に発送いたします。
前にもアナウンスしましたが、これはCDとDVDのセットです。CDには10曲収録。DVDには5曲分ライブ映像が収録されています。ただしテレビフォーマットが向こうはPAL形式で、日本はNTSC形式ですので、PCのみの再生となり、テレビでは再生できません。そこで私の方でNTSC形式に変換したDVDも用意してあります。これは著作権の関係で本体を購入された方にのみ+500円で提供いたします。ご注文の際にその旨をお知らせ下さい。
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宮内さん、Saltさん、そして私をご紹介して下さっている千葉のDr.KさんのBlogを発見致しました。ギリシャ語の原語を解析され、日本語訳のあいまいさ不適切さによっていかに貴重な真理が落ちているか指摘され、御言葉の純粋な「読み」を紹介されています。これはお薦めです。
Dr.Kさま、ご覧になっておられましたら、リンクの件、よろしくご了承下さいませ^^
・みことばざんまい by doctor-mk
私の講義を取っている女子学生二名が、寿町を見たいとの事で、本日ツアーをしてきました。あの200×400mの一体に8,000人あまりが住んでいるわけです。私も中を歩くのは久々でした。独特の臭いと雰囲気。おっちゃんたちが夢遊病者のようにふらふらと歩いている光景は、映画のセットのようです。
そして車で山の手から外人墓地、港の見える丘公園、山下公園、ランドマークタワーの69階展望台、そして中華街と案内したところ、そのど真ん中にある寿町とのコントラストに驚いていました。これがニッポンの真実です。でもこうして関心を持ってくれる学生がいるのはうれしくもあります。
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山谷少佐がクリスチャン・トゥデイ問題の関係資料をアップしていた世界中の救世軍人専用のサーバが何者かにアタックされ、データがすべて削除された模様。単なる事故か、それとも意図的な工作か。とにかく驚きです。
どうもニッポンキリスト教と言う世界では倒錯が正常で正常が倒錯になるかのようなヨ・カ・ンがますます。根底にあるのはとにかく1%の壁を打破したいと。そのためには手段は選ばない。キリスト教国家ニッポンの誕生の暁には、私はどこへ逃げようか知らん。中国だったりして・・・。でも、世間の方がマトモだから、ニッポンキリスト教は十分に吟味されることでしょう。
6カ国協議でアメリカが譲歩の姿勢を示しているわけですが、その裏に偽ドル札を作ったのは米国自身であるとの疑惑が浮上、ドイツの「フランクフルター・アルゲマイナ」が報道したとのこと(→記事)。私はドイツ語は一応分かりますが、辞書を引きつつの読解力ですので、原文はまだ確認していませんが(汗)。
前に911真相解明のための東京での国際会議を紹介しましたが、ここで最後の生存者とされて英雄となったロドリゲス氏の証言がなされています。要するにWTCビルの倒壊は人工的なものであったと。彼は同ビルの地下にいて事件に遭遇したのですが、消防士たちの証言ともかみあっています。ちなみに消防士たちは証言を禁じられ、ロドリゲス氏も真実を語るようになって後、種々の強迫やPCの盗難などを経験しています。
前に私は現代は巨大なフェイクを見せられている時代であると書きました。ちなみに今話題のパワー・フォー・リビングの目的は「キリスト教共和国の設立」との説も出ています(→記事)。これが正しいとすれば、これも前に懸念を表明しておいたメガチャーチの流れであり、その究極は「教会国家」にあるわけでしょう。「地上キングダム」への憧憬は深いものがあるのです。「私の十字架」を回避した現代の「リバイバル」を求める動きなどもみなこの肉の魅力に由来すると私は感じているのです。ともわれ、現代はアイオーンによる大きなひとつの濁流に飲み込まれる危険性を帯びている時代です。特に野心のある人はね^^欺かれない者は幸いです。
肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は御父からのものではない。
昨日の『金妻』に対してとても楽しいレスをいただいておりますので、ご紹介します:
Yさん:いやー、最後の『金曜日の妻たちへ』には爆笑しました。
こちらではなんだか、親戚・友人・兄弟でもうやっておりますよ、楽しくお食事を。ガス問題をかかえつつも、ますます集まりそうな予感・・。
これにいのちを感じるクリスチャンの小さな交わりがプラスされた感じ。(これがすごいもりあがり、あたりまえだけれど・ノンアルコールでね♪)
それではー。
小生:そう、こういった交わり(コイノニア)があちこちにできるのが私の夢なのです。
Yさん:交わってみてすごいのは穏やかなものが流れ、まるで温泉につかったようになります。ただ一緒にいるだけで。それで、また交わりたくなるんです、皆同じ気持ちですね。「御霊に満たされなさい」お言葉どおりです。
小生:そう、これこれ、この体験ですね。牧師なんて不要でしょう(笑)
ちなみにemiさんも同様の証しをされています(→コチラ)。信徒の交わりこそが教会(エクレシア)の表現なのです(使徒2:42)。教会を牧師の野心実現の場あるいは牧師の生活維持の場としないように。「現代の宗教改革」などの妄想に振り回されないように。「リバイバル音頭」なども踊る必要もありませんし、自然と、力を入れず、楽しく、ぬくぬくと、キリストを中心に集まり、キリストとそれぞれの生を共有すればよいのです。あえて言えば、リバイバルとは牧師が失業することでしょうね(笑)
Is'nt it so simple, is it?
午前中はプールとサウナ。午後は映画−『バブルへGO』。90年3月にMOF(大蔵省)が不動産融資への総量規制を決定してから、不良債権の山が発生し、失われた10年以上を経験したわけだが、タイムマシンで2007年から1990年に飛んだ主人公の活躍によってその規制を発効しないようにするわけ。大体どんな映画かは見えていたが、いやあ、実に抱腹絶倒、楽しい映画でした。
90年のワンレン・ボディコン・ファッションの風俗に現代の若い子が飛び込んだらどうなるかと言うシミュレーション。ケータイもなく、駅ではSuicaもなく、カチカチと駅員が切符を切っているわけで。六本木のディスコでお立ち台のイケイケダンス。六本木交差点のアマンドが懐かしかった。主人公がボディコン姉さんを見て、「眉毛、ふってえ!」と叫ぶのが笑えた。
私の当時はと言うと、5,400万のローンで、毎月36万を返済してなお、未払い金利が積もると言う状態。で、その総量規制の後、不動産投資に対する税制も変わり、私もアメリカのオフィスビルの投資がポシャッたわけです。それから8年間の裁判となったわけですが(→記録)、主の御手の介入により全面勝利だったので、生活自体は何も変わっていないのです。ちなみに映画でも出たが、私たちが訴えた長銀はつぶれてしまった。あのバランスの悪いビルの前でシュプレヒコールをやったものです。結果としては、この10年近くの低金利は助かった。しかし確かに社会は変わりました。
同時にキリスト教界も。わけの分からんアメリカの油注ぎの器とかが訪れるようになり、クリスチャンが金歯金粉を求め、床を転げ回り、獣のように叫び・・・となっちゃったわけで。
まあ、こういった映画ができるのも、人々が少しはホッとしつつあるからかも知れません。しかし依然として800兆の国の借金と、地方を合わせると1,000兆近くあるわけで、映画では後2年で日本経済は崩壊すると言っておりましたが(→借金時計)。夕張市を100倍するとニッポンの現状になるそうですから、予断は許しません。で、今、日銀が金利を上げる時期を伺っているわけですが、上げればこれでまた借金は増えることは確実。しかしこのままだと円安が進みます。さてさて、日本の舵取りは・・・?
とりあえず、この17年間を振り返りつつ、自分の愚かさも賢さも笑い飛ばしたい人はぜひご覧下さい。しかし当時はこんなサイトを作って、ニッポンキリスト教界のわけの分からないビョウキの人たちに絡まれたりしてるなんて、誰が想像したことでありましょうか(汗)
追記:思い起こしてみると、私の人生の青写真の原点は85年の『金曜日の妻たちへ』によるかも。郊外のパティオのある家で友人たちを呼んでパーティ。そんな家を持ちたくてと夢を見ていた20台が懐かしい今日この頃であります。
小生の本『真理はあなたを自由にする』と『同ワークブック』がそろそろ在庫僅少だそうです。VHSビデオ2巻はすでに在庫がなくなっていますが、私の方でDVD(2枚)化してあります(→サンプル)。出版社に配慮してやや高い値段設定となっていますが、DVDはメニュがありますので、学習がし易いわけです。
またFaith03「英国の雅な風」はCDは在庫がありませんが、DVDにほとんどの曲が収録されています(→サンプル)。TVフォーマットも日本のNTSC形式に変換してありますので、テレビでもご覧になれます。
ご希望の方はサイトの右のメニュにあります、オーダーフォームからご注文下さい。
Faith06のサンプルです。伝道用メッセージのイメージ映像です。→What Do You See?
こちらはライヴ・ワーシップ。映像を加工してあります。現物は生ですよ^^→In The Glory of Your Face
鈴木大拙の『東洋的な見方』。大拙の真髄は「即非の論理」、すなわち「AがAにあらずして、よってAである」に尽きる。彼は言う「神はその外面から見るべきではなく、その主体性の中に飛び込んで、初めて体認せられるのである」。大拙は自ら「聖霊が分からない」と告白しているから、ここで言う「神」は私たちの神ではない。彼も「ユダヤ系の神ではない」と明言している。しかし私たちの経験を実に良く喝破している。
神を神学の対象としている限り、神は経験できない。大拙の紹介する禅者百丈懐海の言葉にこのようなものがある:
祇如今鑑覚、但不被一切有無諸法管、透三句及一切逆順。透得過、聞百千万億仏出世間、如不聞相似。亦不依住不聞。亦不作不依住知解。云云。(四家語録)
訳:ただこの「見るもの」、これが一切の有無的二元性を離れている。三句(正反合としておく)などというもの、矛盾性のものを透過している。透過しているから、一切が仏だなどといっても、少しも気にかけぬ。また気にかけぬと意識もしない。それからまた、意識的知解もせぬというところにも、ぐずぐずしていない。
このような意識状態を と言う。大拙は「これを"Truth is Subjectivity(真理は主観性である)"という。私たちの表現では、真理は内にいますキリスト、また私たちはキリストの内におり、真理を知るならばあなたがたは自由となる。ウォッチマン・ニーのように20年間幽閉されていようと、彼はそのキリストにある自由を享受したのだ。塀の外とか中とかの二元性を離れる時に・・・。楽しいとか苦しいとか、その分別を離れることが自由。ブラザー・ローレンスも言っている:真に委ねた者にとっては楽しさも苦しさも同じだ、と。楽しかろうが、苦しかろうが、それを判断する自己 を放下する。主も言われる、 と。究極のオクシモロン(Oxymoron:自己矛盾的言説)。私たちの主観的経験においては、「Aであること」と「Aでないこと」が同時に成立する。唯キリストを主観的に味わうこと−これが禅的基督者の生活である。現代的に言えばキリストのクオリアを楽しむこと。離四句絶百非、天上人間唯我知。
訳:絶対的に一切を否定したところで、「独坐大雄峯」だ。自分の魂を救おうとすれば失う。失えば得る
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筋トレを少しづつ開始しております。ワークアウトした後の何ともいえない筋肉の疲労感がイイのです。