イチジクの木


イチジクの木 RES
[1] 仲良し( … 回) [引用] 2005/07/09/Sat/20:30 (No.93)

  ルカによる福音書の13:6、7のたとえ話でのことですが、何故、ぶどう園にいちじくの木を植えられたのですか?
いちじくがイスラエルを表すのなら、ぶどう園のぶどうは何なのでしょうか?

[2] Luke( … 回) [引用] 2005/07/10/Sun/19:15 (No.94)

  とてもよいご質問だと思います。これはトピックの「神のご計画の鳥瞰図」や「教会とイスラエルの関係」、また「神のご計画(いのちのデディスペンセイション)」なども参照していただきたいです。

創世記で人類は善悪の木の実を取り、いのちの木から分離されました。このいのちへの回復が神の当初の意図です。つまり神は元々イスラエル(経綸的選びの民)を得たかったのではなく、いのちの木の実を取り込んだエクレシア(本質的選びの民)を得たかったのです。

イスラエルの選びは神の言葉を保存し、メシアを地上にもたらすための選びであり、それ自身では救われません。いのちを得ていないから。律法はいのちを与えないから不十分なのです(ガラテヤ書)。つまり神は元々ぶどうの実を得たかったのです(ヨハネ15章)。

しかし経綸的な手順としてイスラエル(=いじちく)をブドウ畑(いのちの園)に植えました。しかしそれは実を産出しませんでした。なぜなら元々いのちを得ていないからです。教会(エクレシア)はいのちを得ている存在です。

注意すべきは今日地上に見られる「教会」と称するところが必ずしもキリストのいのちを得ているとは限らないことです。単なる人間的組織です。これは決して実を結びません。

神のご計画は善悪を知る知識の木から、いのちの木への転機です。イエスラエルは前者の路線上での選びですから、実を結ばないいちじくです。エクレシアは後者の路線上での選びですから、実を結ぶべきぶどうです。ぶどうの園には本来ぶどうを受けるべきなのですが、経綸的にいちじくが植えられたのです。

なお、ロマ書では野生の私たちが接木されたとありますが、これはイスラエルをないがしろにして誇るエクレシアへの警鐘の言葉です。

[3] 仲良し( … 回) [引用] 2005/07/10/Sun/23:02 (No.95)

  有難うございます。
私は今朝、ヨハネ福音書1:48を思い出し、ナタナエルがイチジクの木の下で黙想していたことをイエス様が「これこそ、本当のイスラエル人だ。彼の中に偽りがない」と喜ばれたところを思い出しました。
つまり、イチジク・イスラエルは神様の御心・知恵が詰まっているところで、そこで、黙想して神様の御心を知り、私たちの生活の中で実を結ぶために用意されたものだったのではないかと考えました。
しかし、一番神様の御心を知らなければならないイスラエルの民が律法を行う、守る事だけに従事し、神様の本質である愛、あわれみ、赦しがないがしろにされ、いのちを生むことのない、つまり、実を結ぶことのない状態にいることへの警告なのかと思いました。
ルカに13:10〜17を通しても、実を結ぶことのない会堂司の話と神様のあわれみによって癒された女・神様の栄光が現れ、実が結ばれたお話がのっているのですが、そのように理解してもよろしいでしょうか?
以上のことから、先生の説明を理解しますと、イチジクであるイスラエルもブドウの木であるイエス様に接木をされないといけないということになりますか?異邦人がブドウの木に接木されるのはわかりますが、イスラエルにいのちがなかったのなら、やはりブドウの木にいちじくが接木されなければ、実は結べないということになりますよね。
すみません。ごちゃごちゃした質問で。

[4] Luke( … 回) [引用] 2005/07/11/Mon/08:49 (No.96)

  イスラエルと教会の関係は、いのちの次元から見ないとややこしくなります。これを見ていないので、イスラエルに入れ込む人たちの書き物を読んでもサッパリ分からないのですね。

ポイントは創世記です。創世記でいのちの木から遮断された人類に(3:24)、ご自身がいのちとして、またいのちへの道として、ご自身の体を裂くことによって、いのちを与えるためにキリストは来られたわけです(ヨハネ10:10)。このいのちを吹き込まれた存在が教会(召された人々)です(訳語が悪いです:エクレシア)。

いのちへの選びが「本質的選び」、対してイスラエルの選びは神の言葉を委ねられ、メシアを地上へもたらすための「経綸的(機能的)選び」(この選びによっては救われません)と、私は呼んでいます。

神の目には、人類はアダム族(古いいのちを持つ人類)とキリスト族(新しい復活のいのちを持つ人類)の二種類しかありません。ですからメシアニックジューなどの概念も私は無意味であると言っています。

イスラエルは機能的選びによってメシアを迎えたのに、彼らは拒否しました。そのために異邦人である私たちが信仰によるアブラハムの子孫となるチャンスがあたえられました(ガラテヤ3:7)。が、これは元々神の意図でした(ローマ11:32)。

神はアブラハムに対して、"イスラエルだけ"が祝されるとは言わず、あなたの子孫と"諸国民を"祝すと言われています(創世記12章)。しかもこれは律法によるのでなく、約束により、その約束は子孫(単数形)であり、キリストを意味しています(ガラテヤ3章)。つまりアブラハムへの約束は、全人類にいのちを与えるキリストを与える約束だったのです。よって律法(経綸的措置)は付加的なものであり、この約束(本質的御旨)を無にすることはありません。律法の致命的欠点はいのちを与えないことです(ガラテヤ3:21)。

もちろんイスラエル(いちじくの木)もキリスト(ぶどうの木)につながれていのちを得る必要があります。そしていずれメシアを受け入れます、が、それまでに過酷な運命を経るわけです。

[5] 仲良し( … 回) [引用] 2005/07/11/Mon/14:40 (No.97)

  素晴らしいメッセージを有難うございました。
とても、分かりやすく、聖書の貴重な点をハッキリと教えていただき感謝いたします。
これからも、時々、質問させていただくことがあると思いますが、よろしくお願いいたします。

全レスを表示する / 返信する / 戻る


〜 お気軽にメッセージをどうぞ 〜

 Name 
 E-mail 
 URL 
 Text 
 Icon   IconList
 Color  / / / / / / / /
 DelKey 
Preview
トップに移動しない


- Web Topics -