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とてもよいご質問だと思います。これはトピックの「神のご計画の鳥瞰図」や「教会とイスラエルの関係」、また「神のご計画(いのちのデディスペンセイション)」なども参照していただきたいです。
創世記で人類は善悪の木の実を取り、いのちの木から分離されました。このいのちへの回復が神の当初の意図です。つまり神は元々イスラエル(経綸的選びの民)を得たかったのではなく、いのちの木の実を取り込んだエクレシア(本質的選びの民)を得たかったのです。
イスラエルの選びは神の言葉を保存し、メシアを地上にもたらすための選びであり、それ自身では救われません。いのちを得ていないから。律法はいのちを与えないから不十分なのです(ガラテヤ書)。つまり神は元々ぶどうの実を得たかったのです(ヨハネ15章)。
しかし経綸的な手順としてイスラエル(=いじちく)をブドウ畑(いのちの園)に植えました。しかしそれは実を産出しませんでした。なぜなら元々いのちを得ていないからです。教会(エクレシア)はいのちを得ている存在です。
注意すべきは今日地上に見られる「教会」と称するところが必ずしもキリストのいのちを得ているとは限らないことです。単なる人間的組織です。これは決して実を結びません。
神のご計画は善悪を知る知識の木から、いのちの木への転機です。イエスラエルは前者の路線上での選びですから、実を結ばないいちじくです。エクレシアは後者の路線上での選びですから、実を結ぶべきぶどうです。ぶどうの園には本来ぶどうを受けるべきなのですが、経綸的にいちじくが植えられたのです。
なお、ロマ書では野生の私たちが接木されたとありますが、これはイスラエルをないがしろにして誇るエクレシアへの警鐘の言葉です。 |