罪責感からの解放


罪責感からの解放 RES
[1] TOM( … 回) [引用] 2004/08/28/Sat/10:31 (No.39)

  へブル10:22とヤコブ5:16について教えてください。
へブル10:22は、良心の責め(罪責感)から解放されるのは、イエスの血が心に注がれるからであると書いてあるのだと思っています。

先日あるメッセージで、在責感から解放されるいくつかのステップがあって(罪の赦しなど)、その中のひとつに教会の小人数のグループで過去に犯した罪(Sins)を告白して受け入れてもらうことが必要であり、このステップには何ヶ月もかかると聞きました。ちなみに告白する相手は罪をおかした相手ではありません。その根拠としてヤコブ5:16「互いに自分の罪を告白し合いなさい。そして、癒されるため、互いのために祈り合いなさい。」があがっていました。この箇所はそういうことを言っているのでしょうか?インターリニアバイブルを見ると、「Confess one another the offenses」と書いてあり、「教会内で相手に対して犯した罪を告白しあう」という事を言っているように思えるのですが…?

罪の罪責感から解放されるのにこのような方法をとるというのは、カウンセリングの一般的な手法か何かなのでしょうか?

[2] Luke( … 回) [引用] 2004/08/28/Sat/13:07 (No.40)

  まず罪には単数形(Sin)と複数形(sins)があることをご確認下さい。単数形の罪(Sin)はロマ7章の内に住む罪であり、個々の犯された罪々(sins)のルーツです。神の処方箋はそれぞれに異なります(「トピック」を参照して下さい)。

さて、イエスの血は個々の犯された罪々を清め、拭い去ります(内住の罪には血でなく十字架です)。すでにTOMさんの過去の罪、現在の罪、将来の罪は取り除かれています。罪の告白はこの事実を適用することです。ギリシャ語の「告白する」とは「同じことを語る」と言う意味であって、過去の罪々を刑事部屋的に次々に白状することではありません。むしろそのような過去を探り、互いにプライバシーを晒しあうことは危険です。

告白は第一に神に対するものであり、第二に罪によって損害を与えた相手に告白し、赦しを得れば良いのです。第三者は関係ありません。過去をほじくるカウンセリングやミニストリーは聖書的ではありませんし、むしろ危険ですらあります。

TOMさんの良心がとがめ、現在の主との交わりに差し障りになる事で、聖霊が照明した罪に責任を負えばよいのです。そしてすでに取り除かれているゆえに安心と確信を持って血の適用を受ければよいのです。イエスの血はパーフェクトです。

ローマ8:1をぜひ声を出して宣言して下さい。

 今やキリストイエスにある者は決して罪に定められることは無い。

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