堕胎やクローンについて


堕胎やクローンについて RES
[1] ひかる( … 回) [引用] 2004/07/22/Thu/16:44 (No.32)

  こんにちわ。いつも学ばせていただいてます。質問があります。ルークさんの日記に中絶のお話がありましたけど、クリスチャンはやっぱり反対なんでしょうか?それとかクローン人間などはどのように考えていったらよいのでしょうか?サイエンスの進み方が早くって、教会は何だか取り残されている感じがしています。

[2] Luke( … 回) [引用] 2004/07/22/Thu/20:21 (No.33)

  まったくおっしゃるとおりです。ニッポンキリスト教のナベツネ的体質は何とかなりませんかね。もっとサイエンティストが教界でも表に立つべきでしょう。サイエンスもこの世も知らない、温室で変性した神学オツムだけでは困ります。

堕胎については、受精卵が子宮壁に着床した段階でひとつのいのちが誕生しています。これを人の作為で除去することは立派な準殺人行為です。私は中絶には明確に反対します。

クローンについては、聖書から見てどう判断するか、聖書の根拠を挙げることは難しいでしょう。ただクローンは生殖細胞によらない生命発生ですから、自然の用を異にしているわけです。原理的にはDNAがあれば生命発生をコントロールできますが、その時点ですでに人が神から託された主権裁量の領域を犯していると思います。よってクローン人間の誕生については私は反対です。

今日の日経新聞でも中国で中絶胎児の細胞を用いて日本人の脊髄治療が行われていると言う記事がありましたが、線引きを明確にしないと危ないでしょう。今後EB細胞(ES細胞)などのコントロールによって臓器だけを造ることができるようになります。それまでして地上に長生きしたいのでしょうか?そもそも「生きる」ってことを根底から考え直さないとなりません。

[3] Luke( … 回) [引用] 2004/07/23/Fri/09:26 (No.34)

  メーリングリスト参加者から次のようなコメントがありました:

引用------
Lukeさんに同意します。

医学の先急ぎは、倫理を置き去りにして糸の切れたたこのように闇雲に進んでいるように思います。
着床前診断、中絶、排卵誘発剤による多胞出産(減数出産)、もちろんクローンも、いのちの尊厳とはなにかを立ち止まって考えない人間の現状があると思います。

どうしても子どもが欲しい、あるいはどうしても欲しくないという親の欲求、金をもうけたいという医者の欲求、新しい成果を示したいという医学者の欲求、それらの欲求が立ち止まることを難しくさせているのではないでしょうか。

さて、Lukeさんに質問ですが、臓器移植についてはどのように考えられるのでしょうか。
私は、産まれたときから持っている臓器を提供あるいは享受することもまた神の摂理から逸脱する恐れがあるような気がします。
しかし、クリスチャンが奉仕の精神をもってドナー登録することも多いようですし、実際に臓器移植を頼みの綱にしておられる患者や家族がいらっしゃるのも事実です。

よろしければLukeさんの考えをお聞かせ下さい。
------

おっしゃるとおり、すべての問題の根底には人の欲(肉の欲、目の欲、所有物の誇り)があるわけです。自分が生きたい、業績を上げたい、人から認められたいという。よって心を見られる神からすれば、動機が自分にある点ですべてguiltyとなります。

現代の医療はあまりにも近視眼的で、テクニカルな面だけが進んでしまっています。人間は知恵の木の実を食べて以来、知識に対する飢え渇き(これも情欲です)に煽られています。ダニエル書にも「ダニエルよ、あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」とあります。これはもちろん予言の解釈についてでしょうが、一般的知識も含まれるでしょう。

かくして罪の問題が解決されないままにテクだけを持った人類は、禁じられてもなおそれを使いたくなります。これは罪に支配された人類の宿命です。現在日本でも胚の利用が認められてしまいましたが、おそらくクローン人間はいずれ出現してしまうのではないでしょうか。これが一般の研究機関か、ラエリアンムーヴメントによるか(すでにできたと彼らは言っているようですが)分かりませんが。

臓器移植も霊的に言えば、他人の犠牲の上で自分を救うことであり、ある面でキリストの贖いと競合する形になりますから、原理的には賛成できません。が、信仰と同様にこの価値観を強制はできないわけで、実際の判断はドナーとレシピエントの自由意志の問題になろうかと思います。

いずれにしろパンドラの箱がいったんあけられてしまえば、中のものはすべて出ざるを得ません。人類が自らの情欲(性的領域に限りません)をコントロールするしかないのですが、自力での完全なコントロールはもちろん不可能ですから、社会システムとしてどれだけ最善が尽くせるかのテクニカルな問題となるでしょう。

人類はいのちの木か知識の木か、どちらで生きるのか、その選択につねに直面しているわけです。人類が自分を知る日はいつなのか、大いなる悲劇が起きる前から、起きてからか。そんな瞬間が近い感じがしています。

[4] Luke( … 回) [引用] 2004/07/23/Fri/09:44 (No.35)

  少し補います:

臓器移植は原理的には賛成できないと言う意味は、一般的現状ではキリストの贖いをある意味で無視しているからです。

しかしドナーとレシピエントの間に完全なる自由意志に基づいたドナーの献身とレシピエントがそれによって生かされることの意識がある場合、ある意味でキリストの贖いの御業の型(タイプ)とも取れるわけです。

ここでもポイントになるのは動機です。神学的には一般恩恵と特殊恩恵の関係が云々とか論じられるのでしょうが、人は元々神の形に造られていますから、動機の純粋性(100%はあり得ませんが)に応じて神の徳性のある面を表現し得るわけです。

ですから臓器移植では当事者の自由意志と動機に委ねられる要素が強いと考えられるわけです。もし一律に臓器移植を禁じるとなると、輸血も問題となってしまいます。

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