ヘブル書12章。


ヘブル書12章。 RES
[1] よしふみ( … 回) [引用] 2006/05/02/Tue/11:47 (No.154)

  これってどういうことなんでしょうかね。。。

新改訳:目の前に置かれた喜びのゆえに十字架を忍びに対して、
新共同訳:喜びを捨て、となっている。

とらえ方によっては、同じ意味だととらえることもできれば、
いやいや意味が正反対だととらえることもできる。

それぞれの底本じたいが 違ってるのか?それとも訳者たちのせいなのか?

[2] よしふみ( … 回) [引用] 2006/05/02/Tue/12:31 (No.155)

  口語訳も、回復訳も、

『喜びのゆえに』ですね。

なぜ新共同訳では『喜びを捨て』としたのでしょうか?

訳者に聞くのが一番いいかな。。。

[3] Luke( … 回) [引用] 2006/05/02/Tue/21:42 (No.156)

  面白いところに気がつかれましたね。これは明らかに新共同訳がカトリックの影響があるからでしょう。彼らからすると「喜びを求め」などは受け入れがたいのでしょうね。岩波訳も英訳もみな「喜びのゆえに」ですが、フランシスコ会訳は新共同約と同じです。人のために、嘲られ、恥を受けることは、主の喜びだったのです。これは宗教的観念では理解しがたいのでしょうね。主は喜びの人だったのです。

[4] よしふみ( … 回) [引用] 2006/05/03/Wed/15:26 (No.157)

  たぶんそうじゃないかなと思ってましたが、カトリックの影響であろということで。

僕は新改訳の あのヘブル書12章の箇所をにぎって 苦しい時を歩んでた時期があって、自分にとっての御言葉ですから。
新共同訳の『喜びを捨て』を見て、「え〜〜!!そりゃないだろう〜〜」って。(笑
でも、否定はしません。しませんけど。

やはり 『十字架が喜び』と思える、ということ。この不思議さ。
「え!♪なんで十字架が喜びに思えるの!』っていう驚きと。 
いや、この十字架をよろこびとしたイエスに目を離さないでいこう、っていう あの感動と。。何と表現したらよいのか。
OH ! JESUS!

>[1]
訂正箇所
目の前に置かれた喜び ×
ご自分の前に置かれた喜び○ でした。。

[5] 韓国のクリスチャン( … 回) [引用] 2006/06/08/Thu/19:29 (No.161)

  韓国人クリスチャンです。よしふみさんの文を見、調べましたが
ルーク先生がおっしゃった通り、英訳は皆喜びの故にとほぼ同じ意味ですね。韓国の聖書も皆喜びの故に ですね。
個人的にも喜びの故にというのが お気に入り って感じです。

[6] よしふみ( … 回) [引用] 2008/06/02/Mon/14:18 (No.282)

  報告です。
へブル書12章『喜びのゆえに』は誤訳だそうです。聖書ギリシア語の学びでそれを知りました。
『アンティ』という単語で、意味は大きく分けて二つ。
@〜の代わりに A〜のゆえに

へブル書12章は文法どおりにシンプルに訳せば『喜びの代わりに』となるようです。
ということで残念ながら新共同訳の『喜びを捨て』が原文に近いということになります。しかし残念とはいっても原文の真実に触れることができたのですから良かったと思います。
個人的に新共同訳は読みやすく、すーッと心に入るので十数年前から重宝していたのですが、へブル書12章の部分だけが気にかかっていたのです。でも、今回のことで安心して新共同訳を使えていけそうです。

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