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Lukeさん、こんにちわ。おひさしぶりです。 終止がつかないときはここに来てしまいます(笑) 実はスピリチュアリズムのことで、思いが巡っています。 霊性shopingの時代到来でしょうか。 その教えを覆したいという気持ちよりも、イエスさまの十字架の愛が悲しくてやるせないのです。 その説に100歩譲っても、十字架の主の苦悶は私(私達)への愛の証であり、これこそ救いであると思うのです。
旧約時代の預言者たちもこの「救い」を待ち望みましたよね。 預言者達は、霊〈霊的真理)に導かれながらも〈いわゆるスピリチュアリスト状態)、救いを求めていたのです。なぜでしょう? 「神さまに愛されている」この確証をもとめていたのでしょうか。
スピリチュアリズムの説く神と人間の結びつきは「神さまと人との愛の呼応関係」が置いてけぼりになってしまうような感じがします。 原罪・贖罪・十字架の愛・・・これらがふるいにかけられて落とされてる感覚です。 たとえそれらが人間サイドの後付けの教理だと仮定できても、私にはイエスさまの「愛」の問題が残ります。 神さまの愛は、法則ではないと思うのです。
自力本願で神に向かうことも、他力本願で神に向かうことも、そこに「神と通い合う愛」がなければ虚しい気がします。 見えない神と人間がいかにして愛し合えるのか・・・それを思うとき、「命令・服従による合理的理解からくる平安と霊性の浄化」を超えた「神の赦しの愛」が実感としてあるんじゃないかな・・・と。 その土台がなく「神を求める」とは「神ご自身を求める」こととは違うことのような気がします。 微妙な違いなのですが、これを言葉にできずもどかしいです。 「救い」が違うというか・・・。
”愛されていることの証明など必要ない、さあみんなそれぞれが神に導かれていこう・・・神さまはあなたがたを愛しておられる。” こう説かれるとき、 キリスト教会の組織や枠を非難されるのは仕方ないけれど、イエスさまの霊を容認しながらもどうしてそこまでイエスさまご自身(救い)を否むのか。不思議です。
「真の救いとは何か」と聞かれたら、人によって(その感性によって)人間側の答えは様々かもしれません。 私には「神さまに愛されていること」こそが救いですが、その愛を下さったのはイエスさまです。 「霊性と救いのはざま」でしっかりと立って行きたいです。
Lukeさん、すみません。 描きたいことを書いてしまいました。 心が泣いております。 わけがわからない部分も手伝っていると思います。 Lukeさんのお気持ちをお聞かせ願えれば嬉しいです。 |