自分の中で迷子になってしまいます


自分の中で迷子になってしまいます RES
[1] たらこ( … 回) [引用] 2005/11/03/Thu/16:58 (No.120)

  いつもお世話になっています。質問があります。罪を犯したとき、肉や魂に注目すると、精神交互作用で、ますますしたいことが出来なくなることを学びました。人から傷つけられたとき、その痛さやそれに対する怒りに注目するのではないと言うことだと思います。しかし、そのようなとき何に注目すればよいか、何にゆだねればよいかが分からなくなってしまうのです。自分の精神の中で迷子になってしまうというか。古い人はもう死んでいるのだから、傷ついていると思っているのは、それは自分でそう思っているだけで、心理学的なパターンに過ぎないと自分に言い聞かせようとしても、なかなかできません(できるときもありますが)。こうなると、律法的にならないように、ならないようにと、結果的に律法的になってしてしまっているような気もします。これも、自転車に乗りなれない子供が、いつの間にか当たり前に乗れるようになる過程でおこることなのでしょうか?諦めずに、信じて行動することが大事だとは思っています。アドバイスお願いします。

[2] Luke( … 回) [引用] 2005/11/03/Thu/21:32 (No.121)

  そうですね、たらこさんはご自分の感情の処理に困惑を覚えておられるのですね。感情に飲み込まれてしまうわけです。で、頭の中で考えても、感情と頭の知識が乖離してしまうわけです。

感情の法則として、表現してしまえば解消されます。問題はその解消の仕方ですが、これはある種の成長と言うか、成熟の必要があります。大切なのは起きてくる感情そのものに対しては私たちは責任がないのです。それをどう表現するかにあるわけです。

感情がかきたてられる時はちょっとその人や状況から距離を置くことも必要かと思います。

[3] たらこ( … 回) [引用] 2005/11/05/Sat/20:22 (No.122)

  ありがとうございました。今まで(クリスチャンになってから長い間)、自分の中の感情と戦ってきたところがありましたが、先生の本を読んで、そのあたりの整理が出来たような気がします。自分自身の成熟を期待しながら、自分を責めないように、気をつけていきたいと思います。

[4] エステル( … 回) [引用] 2005/12/01/Thu/11:06 (No.123)

  いつもHP楽しみに拝見させていただいてます。

たらこさんの書き込みがちょうど自分の状態を適確に
表現していたので、回答もしっくりきました。

感情の処理の仕方について、信仰の適用の仕方について
具体的に知りたいと思っていたところでしたので。

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