「真理とは何か」・・・これはかのポンテオ・ピラトがイエスを裁く際にイエスに向かって問うた言葉です。
そしてそれは人類が自己意識に目覚め、神から離れていわゆる文明を生み出して後、古今東西の哲学者、物理学者、数学者などが追求してきた課題です。
普通私たちは「真理」とは物事の道理、あるいは誰が実験したり判断しても同一の結果を生む普遍的な事実あるいは法則であると考えています。法則には「引力の法則」、「電磁気学の法則」、「量子力学の法則」などの物理法則を始めとして、人文科学にはそれなりの、社会科学にもそれなりの法則が見出されております。
そしてそれらの法則は永久不変のものであって、絶対のものであると普通の人は思っております。しかしながら絶対的に正しいと思われている物理法則でさえ、時にその法則におさまりきらない「事実」が出現して、専門家をあわてさせます。つまり最先端にいる学者にとっては、決して永久不変のものではないのです!(→「科学と信仰」参照)
聖書はちょっと驚くべきことに、真理とは一人の人であることを啓示しています。すなわち真理とはイエスご自身なのです!イエスはご自分のアイデンティティーについて「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。もし現在このような台詞を語る人物があなたの目の前に出現したら、あなたは彼をどう思いますか?たぶんちょっとアブナイ人と判断することでしょう。
しかしイエスは明確に「わたしが真理である」と言われました。すなわち真理とは一人のパースン(Person)なのです。神格の第二位であったロゴス(Logos)(注)なるお方が、イエスにあって人として出現された存在、それがイエスのアイデンティティーでした。万物の源がこの三にして一なる神であるとすれば、その神の言(ロゴス)であるお方こそ真理であると言って当然でしょう。これがイエスでした。神の神たる方を説明するロゴスであるお方こそ、万物の源であり、したがってそれらのあらゆる法則をも包含した存在としての真理であると言えるのです。真理とは私たちの知性によって解き明かされるべき何らかの道理・法則ではなく、イエスという存在そのもの、イエスというパースンそのものであるのです。これが聖書の啓示する真理です。
(注)聖書では思想や性質などを表現する「ことば」をロゴス(Logos)、即時的に語り出された「ことば」をレーマ(Rhema)と言って、区別しております。口語訳聖書では、ロゴスを「言」、レーマを「言葉」と厳密にではありませんが、区別しております。
「知恵の木の実」を食べて以来、人は自分の存在、自然の成り立ちなどを知的に追求して、果てしのない努力を積んでいます。それはあたかも空をつかむがごとく、あるいは逃げ水を追うがごとく、いったんは掴んだと思っても、たちまちするっと抜けて行ってしまうのです。人間の自家製の「真理」はそのような空しいものです。しかしイエスを得るならば、まさに永久不変の真理を得るのです!それは神のロゴスであるお方を得ることだからです。神の言を得ることだからです。万物を創造し、現在その存在を保っているのもこの神の言です。この言が人となったお方=イエスを得るならば、湧き出る水が尽きることのない井戸を得るのです。私たちに信仰がありさえすれば、そこから無代価であらゆるものを汲み出すことができます。
「真理とは何か」・・・皮肉にもピラトはまさに真理であるお方を前にして、その真理であるお方ご自身に向かってこの質問を投げかけたのでした。