堕落とは



神はエデンの園において、人のためにあらゆる木々の実を食物として与えられました。人はその中のどれを取って食べても良かったのですが、ただ1本の木の実だけは禁止されていました。それが「善悪を知る知識の木」の実だったのです。よくこの木がリンゴの木であるかのように思われていますが、聖書からはリンゴであるとは結論できません。ただ「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」のです。そこでエバはつい手を伸ばして食べ、夫のアダムにも分け与えました。

この時点で彼らは神の命に背いてしまったのです。これが人の罪のルーツであって、よく「原罪」と言われています。ここで注意して欲しいのは、よくカルトの教えや小説などで見られる見解として、罪とはアダムとエバがセックスをしたことであると言われますが、これは違います。セックスはもともと神が人の繁栄のために備えれた正当な機能であって、人と人との最も深い交わりの形態であって神による祝福です。またこの「善悪を知る知識の木」の実自体に何か毒があったのではありません。神はそのようなものを創造されるはずがありません。ポイントは人が神の命に逆らったことにあります。

それまで人は自分で知識に基づいて価値判断や自分で選択をしたりなど、神から独立した行為や生き方をしておりませんでした。彼らは何も知らない無垢な存在として、ただ神に信頼し、神に頼って生きていたのです。神に自分の存在をすべてを委ねて、素晴らしい調和の中に生きておりました。ところが人には自由意志が与えられていました。この自由意志こそ人間の尊厳の証であって、もしロボットのようなある一定の行動しかできない存在として人が造られていたならば、神は人との交わりを満足できなかったことでしょう。誰も「あなたを愛しています」とプログラミングされたロボットから言われても喜びは覚えません。人はこの自由意志を乱用したのです。この時のポイントは3つ(注)あります(→「誘惑の本質」参照)。
・1番目はその木が「食べるに良く」見えた事です。これは人の体の欲求を満たすものとエバには見えたのです。体の欲求を神の命に逆らってまで満たす事、これが罪の一つの側面です。

・2番目はその木が「目に慕わしく」見えた事です。私たちはつい見栄えのするものを目で追ってしまいます。目はいつも何か自分にとって価値あるものを追うのです。神よりも自分にとって魅力あることを追求する事、これが罪の第二面です。

・3番目はその木が「賢くするのに好ましかった」のです。これは自分の能力の向上を神から独立して追求する事です。人はあらゆる教育や啓発によって、自分を賢くし、見栄を張りたがるものです。これが罪の第三面です。

(注)新約聖書でヨハネはこれらの誘惑の3つの要素を、それぞれ、「肉の欲」、「目の欲」、「暮らし向きの自慢」と呼んでいます(1ヨハネ書簡2:16)。イエスも悪魔によってこの三面から誘惑を受けましたが、すべて神の言葉によって勝利しました(マタイ4章)。

fall.jpgこのように罪のルーツは神から独立して自己の何かを追及する動機にあります。一見悪い事ではないかのように見えますが、自分を造って下さった方を無視してまで、自己の何かを追及することは、まさに神の御心を傷つけ、神の御人格を否定する事に他なりません。人は神から独立して生きるようにはデザインされていませんでした。あくまでも神の愛の中で、神に頼って生きるのが、人の当初のありかたであったのです。

子供を持つ親であれば、例えば子供が自分を無視してまで何かに熱中し追及する姿によって寂しさを覚えないでしょうか?親は子供とまず親しい交わりを持ちたがるのではないでしょうか?神も人に対して同様の御気持ちを抱きつつ人を造られたのです。しかるに人は自己追及によって自分の存在を有らしめた方を無視して、その御心を傷つけてしまったのです。罪の本質は行為よりもまず、神に対する心の状態に関係があります。

罪の結果、彼らの霊は神との関係において死んで罪が体に入り(ローマ5:12;7:20)神を意識することができなくなり、むしろ自意識に目覚めた彼らは自らの裸を知って神から隠れました。ここで神との麗しい交わりも絶たれ、自分の努力のみで生きなくてはならなくなり、その人生は労苦によって満たされるようになりました。そしてついには「命の木」からも隔離されるにおよび、霊において開始された死は徐々に肉体におよび、肉体は死によって土に帰るべき運命に陥りました。これが堕落です。

そのためには人は生きている間、努力して知識を得、何でも自分で判断し、決断し、行動する必要があります。つまり霊の死により神の援助を失った分を補償すべく、自分の魂を発達させたため異常に「頭でっかち」になり、そのために色々な悩みや苦悩を抱え込むはめに陥りました(→「自己を否むことについて」)。

そして自分の思い通りに事が運べば人は功績を自己に帰して高ぶりますし、思い通りに行かないときには時に人を責め、時に自分を責めて落ち込んだりします。このような人の営為が社会を作り、歴史を構成しているのです。それは争い、流血、怒り、悲しみに満ちたものでした。神から独立して自分で何でもできると思っている事こそ罪の本質です。

(C)唐沢治

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