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閉鎖でなく開放?

わが耳の異常はどうも耳管閉鎖ではなく、開放の方らしい。後頭部がボーっとして、耳がポコポコ鳴って、歩くとフワフワと雲の上を歩いている感じ。フッーっと気が遠くなるような感覚もあって、何ともフシギな感覚を味わっている。水の中を歩いている感覚と言ったらよいだろうか。周りの音はボコボコ言っており、自分の声が頭の中にこだまする感じ。要するに耳の中の気圧調整が不調なわけ。急激に体重が落ちたときなど、組織の脂肪の量の減少により、耳管が常時開いたままになるようだ。まあ、確かに体重を搾っていますし、体脂肪も結構落ちましたから、その影響だろうと耳鼻科の医師の説明。

しかしこうしてみると人体の構造と機能の絶妙さには驚く次第。ちなみに戦時中東大の生理学教授で、道元の『正法眼蔵』の解説本も書き、文部大臣として悲劇の最期を迎えた橋田無適(邦彦)は、こういった人体の微妙な統合性を「全機」と称している。普段何も意識されない状態が健康なのだ。耳管なんて、解剖学で学んだが、その存在などすっかり忘れていたのだが・・・。目もますます近間がきつくなっているしと言うわけで、50過ぎると何ともイロイロと・・・。まあ、しかしこのフシギな感覚も楽しんでおります。

本日の二冊

アップロードファイル 5KB加藤周一著『日本文化における時間と空間』。日本文化は「今-ココ」に生きる文化であることを氏の博識によってあらゆる分野の素材から論証している。日本人の時間論は、「今」に集中し、空間論は村社会で象徴されるとおり、「ココ」に集中する。よって内と外が分けられるわけ。さらに氏は「今-ココ」からの脱出の道を探るが、物理的には亡命すること、もっと精神的には禅などの二分論を超える生き方を志向すること。

氏は東大医学部卒、医学博士で、確か血液学で学位を取得されたと記憶している。『日本文学史序説』などの著作があるほどに、文学に傾倒する。大学時代も医学部の講義はほどほどにして、もっぱら文学部の講義にもぐっておられたとか。私も若い頃、氏の『羊の歌上下』を読んで憧れたもの。またわが読書術は氏の『読書術』に負うところが大なのだ。

現代日本の知性であり、聖書に基づいたキリスト教的西欧文化から、道元の『正法眼蔵』による禅文化まで網羅する。しかし多分信仰はお持ちでないようで、出エジプトに代表されるように、西洋文化に影響を与えたユダヤ文化は、始めと終わりを持つ時間論で、「今-ココ」的な時間論ではないと主張されるが、私的には神は「ありてある方」、永遠の現在形の「ある」であり、永遠の「今の方」である。この方と、まさに「今-ココ」で交わりを持つことが私たちの永遠のいのちである。この「今-ココ」は永遠と直結しているのであり、この集積が人生を構成するが、そこには神の御手による摂理が働いているわけだ。キリスト教文化は確かに氏が言われるとおりであるが、キリスト信仰は、まさに「今-ココ」であり、この姿勢は道元の時間論である「前後裁断」である。

アップロードファイル 16KBフラット化する世界―上』―現代の特徴がネットの普及により個人の情報発信が可能となり、このため世界がフラット化することを指摘し、未来の世界のあり方を予測する。

これは私的に言えば、ネット上では個人が勝手なことを語ることができ、いわば「神」になれることであり、これによって専門家も素人も同じ土俵で語ることができるわけ。と言うよりは、声のデカイ者が勝つ、あるいは壊れた人物が勝つという現象が起きるわけ。かくして常に低い方へとフラット化されるリスクがある。

昨日のNHK『クローズアップ現代』では、カリスマBlogライターが大きな影響力を持ち、企業も彼らを利用して商品を普及させることに力を入れているらしい。かくして流通、広報、販売、維持管理など、これまでとは違うパラダイムが求められている。いずれネットもPCからケータイにシフトし、テレビもいわゆるワンセグ化していくだろう。

極論すれば、これらのメディアによって、個人と個人の脳がダイレクトに繋がっていくわけで、岸田秀的には人間は本能が壊れており、社会などもすべては幻想であるとする唯幻論と、養老先生の唯脳論が結び合わさった世界とも言える。ある意味、脳内妄想がそのまま共有されて現実となりかねないコワサも覚える。

このような中でクリスチャンにとってもどのように信仰を保つのか、ひとつの大いなる課題であろう。オジサンにとっては、これからの10年はこのような社会にどう適応すべきか、それとも一切を捨て去り、山に篭って自給自足すべきか、そんなことを考えさせる一冊。下巻はこれから・・・。

相手を理解しようと努めること

これから温泉に出かけるところ、ちょっと一言:

山谷さんの「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義を指向する」傾向に対して、Sola Gratiaらクリスチャン・トゥデイ側は、そのような矛盾した立場を標榜する者は異端者だと、断罪している。山谷さんはご自分で彼の言う「宗教文化多元主義」を「諸霊の下に管理され、治められているところの中間期における、一般恩恵」として説明している。中間領域があると言われるのだが、私の言い方では「人間の自由裁量権」あるいは「モラトリアム領域」である。道元などもここに存在する。

しかし道元の『正法眼蔵』を紹介するや、聖霊派あたりカゲキな人は、「お経の紹介とは何事か!イエスの名によって異教の霊を断ち切れ〜っ!」と批判する人もいるようだから、私も山谷さんと同様に異端宣告されるのだろう。と言うか、ニッポンキリスト教と関わってからと言うもの、カルトだの、異端だの、パクリだの、危険だの、とありがたくもかしこくも散々の評価をいただいておるので、何を今更という気分でもあるのだが・・・苦笑。私はなぜ彼らがそう言われるのかをできる限り理解しようと努めて、こういった文章も書いているわけだが。
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得度

本日もプールとサウナはなし(体は疼いているのだが・・・)。長女の大学の卒業式で、朝から着付けやらパシフィコ横浜の国際会議場への移動やら、昼食抜きで4時過ぎまで、ややグロッキー。これで一つの仕事が終わった・・・。うれしいような、さみしいような・・・。

 * * *

アップロードファイル 40KB最近、俳優の保坂尚希氏が得度して出家したとのこと。何でも7歳の時に両親が自殺をしたようだ。高岡早紀との離婚会見などよく分からない部分があり、彼には何か屈折したと言うか、内側に忸怩たるものを抱えているように感じていたが、今回自ら真実を語られ、やや同情を覚える次第。

私も禅にはまっており、静岡臨済寺の倉内松堂師と一緒の写真もご紹介したり、永平寺76世管主秦慧玉師と間接的に関係していることも前に書いた。と言うわけで、実は私も得度を考えたこともあったのだ。今でも雲水には憧れがあるし、禅寺の生活には実に心惹かれる次第。彼らは野心に満ちて脂ぎった牧師先生よりもはるかにサラッと生きている。一言で言えば、捨てる生活。清々として。
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Re:得度

これは面白いですね。有理数は稠密(任意の二つの有理数の間には可付番無限個の有理数が存在する)ですが、連続ではありませんから、実数連続体を切ったとき、断端の両者が有理数であることはない(その有理数ではない端が無理数で、かくして稠密性が連続性に至るわけ)、と言うのがデデキントの切断による実数の定義ですね。

物理学的時間論はこの実数の連続に基づいて展開されるわけですが、道元の言う「前後裁断」はニュートン的物理的時間ではなく、主観的時間論だと思います。「今」になり切ると言うか。鈴木大拙は「今に切り込んだ永遠」と言う言い方をしていますが。

ソニーの凋落

についての論考が『文藝春秋』新年号に掲載されていた。その中で、ソニーの凋落を招いた原因として「フロー」の喪失があると言う。「フロー」とはアメリカの心理学者チクセントミハイ氏が唱えた用語で、無我夢中で何かに取り組んでいるときの精神状態と言う。技術者たちがこの「フロー」の状態に入ると「燃える集団」が構成され、創造的仕事もなされる。そのためには「内発的動機に基づいて行動すること」が必要で、それは報酬や評価を得たいと言う「外的動機」によらない。そのような条件を企業は醸す必要があるという。

何だ、これは没我の状態にして「流れる心」であり、先に書いた自分を注ぎ出ている状態である(→意識の扱い方およびいのちの内発的発露)。日本ではすでに剣の達人柳生但馬が言っている、「心の病とは心が何かにとどまること」と。フローはこの逆であり、禅やいわゆる「道」が求めた「無心」あるいは「忘我」の状態である。前にも書いたが、道元はこう言っている

佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

また道元の『正法眼蔵生死』のキリストヴァージョンはこちらを・・・。いずれも今のニッポンがアメリカの長期戦略の中で喪失したもの。すでに日本にはある(った)のだ。

かくしてソニーの凋落もまさに先に述べた精神エネルギーの滞留と空転によるのであり、現代ニッポンの病理のまたひとつの大きな兆候である。

仕事と遊び-歎異抄から-

これらは区別がない方がよい。橋田先生的には「仕事をしている時も、遊んでいる時も、同じ心持であるべし」となるかな。区別する心が苦痛を生むわけ。生と死を区別すれば、死は恐ろしい。人間の苦悩は善と悪を知ってしまったこと。この二元論的世界に生きること、これが苦悩のルーツである。歎異抄の親鸞の言葉に次のようにある:

みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ、さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まうすところの念仏をも自行になすなり。

要するに善悪の二元論に生きることは、法則の不思議に頼らず、自分の心のやりくりに頼むことであり、自力の業である、と言うわけ。まさにクルシチャンの精神状態だ。かくして親鸞の結論は

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

弥陀の誓願不思議に助けられて生きることが極楽浄土への道であると。聖書的にはいのちの御霊の法則に助けられまいらせるわけ。これが神の国に生きるコツ。道元もこう言っている:

佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

そしてわれらの主はこう言われる:

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の魂の命(原語)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために魂の命(原語)を失う者は、それを救うのである。

鍵は自己を忘れ、自己から離れること。心身脱落・脱落心身。

合掌(あ、ついに使ってしまった・・・)